2012年03月11日

厳選の品揃えはまだまだ

沖縄を創る人 第35回
 ジュンク堂書店那覇店店長 森本浩平さん(下)


 全国的にみても好成績を上げているジュンク堂書店那覇店。向かうところ敵なし、と思いきや、森本浩平店長の口からは「品そろえはまだまだ」という意外な言葉が飛び出した。

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 1500坪の巨大なスペースに、平台ほとんどなしで、縦型書架に足下までびっしりの本。それ以上の品揃えと言われても、ちょっと想像がつかないがー。

 「厳選、という意味で、まだまだなんです」

 どんなにジュンク堂の売場が大きく、置かれている書籍点数が多いといっても、出版されている本全体からみれば一部にすぎない。店には、毎月、6000冊から8000冊もの本が入ってくる。そこには「置くべき本を厳選する作業」が必然的に伴う。

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 「ある分野の専門書の書架に、ある先生の本が置かれているとします。その分野の品揃えのプロなら、この先生の弟子筋に当たる別の先生の本が近くに置かれていなければならない、と考えます」

 その専門分野と関係ない人には全く理解できないだろうが、特定のニーズを持った顧客ならば、確かにそのくらいの知識はあるかもしれない。

 「ジュンク堂の場合、本土ですと、全13分野にそれぞれ品揃えのリーダーがいて、各店を巡回しながら品揃えをチェックし、店の担当者にアドバイスしています」

 各分野のリーダーになる人というのは、その分野について圧倒的な知識を備えている経験20ー30年のベテラン。ある分野のリーダーは、個人でもその分野の本の収集に余念がなく、自宅では置き場所が足りなくなったため、新たにマンションの一室を借りて本を置く専用の部屋を確保しているという。

 残念ながら沖縄は本土から離れているため、そのようなリーダーたちがひんぱんには巡回できないから、那覇店のスタッフが自分で品揃えをしていかねばならない。森本さんが「まだまだ」と言ったのは、そういう最高水準の品揃えから見ればまだ十分とはいえない、という意味だったのだ。大型書店の世界は奥が深い。

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 森本さんは「本はすべてを解決してくれる手段」だという。神戸に勤務していた時のこと。電車に乗っていた若い男性2人がこんな会話をしていた。

 「きょうは何しよう」
 「どうしようか」
 「とりあえず、ジュンク堂に行こか」

 森本さんが言う。「この『とりあえず』というところですよね。本を読めば問題や迷いが解決するかもしれない、と多くの人が期待しているわけです」

 森本さん自身は、1999年大阪本店の立ち上げ時にジュンク堂に入社、翌2000年、23歳の時に神戸住吉店の店長、2005年に梅田ヒルトンプラザ店オープン時の店長を経験した。

 沖縄にはジュンク堂クラスの大型書店がなかったため、大型書店にとって意味のあるような書籍の売上データがほとんどなかった。つまり、沖縄に出店して果たしてうまくいくかどうか、データの裏付けはなかった。

 しかし、当時の社長は、神戸の孤児を沖縄に連れて行くボランティアなどで沖縄をしばしば訪れており、その間に、沖縄の書籍文化の深さを実感していたのではないか、と森本さんは言う。那覇店出店は社長プロジェクトだった。

 普通の大手の書店がデータのない場所に出店することは、まず考えられないという。

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 「社長は、地域の人が困っているかどうかで出店を決めていました」

 困っている地域にはニーズがある。つまり、本に親しむ沖縄の文化の深さを肌で感じていた社長は、それまでの沖縄の書籍の品ぞろえでは県民が困っているはずと考えた、というわけだ。

 その読みは見事にあたったというほかない。

 [森本浩平さんとつながる] ジュンク堂書店那覇店のHPはこちら。イベントのお知らせもある。沖縄の出版事情については沖縄県産本ネットワークのHPにいろいろ情報がある。例えば、「新刊案内」をクリックすると、あまり情報は新しくないものの、沖縄で出版されている本の多彩なラインナップがよく分かる。秋田で出版社を主宰する安倍甲さんの沖縄出版事情レポートも面白い。

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2012年03月04日

多様な書籍ニーズに応え、業績好調

沖縄を創る人 第34回
 ジュンク堂書店那覇店店長 森本浩平さん(上)


 ジュンク堂書店の那覇店が開店してから、今春で3年になる。鳴りもの入りでスタートした沖縄初の超大型書店。丸3年近くが経った今、業績はどうだろうか。店長の森本浩平さんを訪ねた。

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 万鐘本店で開店前のジュンク堂那覇店をレポートしたのは2009年4月19日だった。あの時は、まだ書架の間に段ボール箱が山積みになっていて、開店直前の緊迫感が伝わってきた。今はすっかり落ち着き、だれもが知る那覇の立ち寄りスポットの一つになっている。さて、成績は?

 「おかげさまで、たいへん順調です」

 森本さんの説明によると、損益ギリギリの売上のなんと2倍近い売上額を、どの月もコンスタントに続けている。学習参考書や医学書などが特によく売れている。部門によっては、40店以上ある全国のジュンク堂各店の中で2位を記録した月もあるという。

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 逆に、売上がそれほどでもないのは文芸書や文庫部門。文庫で言えば、他のジュンク堂では10%前後のシェアを持っていることが多いが、那覇店は7%ほど。沖縄県民は、価格が手頃でだれもが読むような売れ筋に飛びつくというより、それぞれが多様で個性的な選択をしている、という解釈が成り立つかもしれない。

 そうした多様なニーズに応えているのがジュンク堂の品揃えの豊富さといえそうだ。売場面積が1500坪というのはもちろん圧倒的なスペースだが、ジュンク堂の場合は、そのスペースが普通の書店の何倍にもなるという。

 というのも、普通の書店は平台が多いが、ジュンク堂はほとんどが縦型の書架。足下までびっしり本が並べられている。

 「ジュンク堂は図書館と同じなんです」

 言われてみれば、店内の風景は図書館によく似ている。

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 出店の場所も、あえて一等地ではなく、少し奥まった場所を選ぶのがジュンク堂の流儀という。存在を知ってくれさえすれば、顧客は目的意識をもって来るから、必ずしも一等地でなくても構わない。それよりも、地代が安い方が売場面積を確保でき、生命線である品揃えを充実させることができる。

 那覇店は、かつてダイナハ(後にダイエー)が入居していたビルに出店した。国際通りから少し入った場所だ。

 「ダイナハがあった場所です、と言えば、那覇の人はたいてい知っています。このビルに出店したのは、その意味で大正解でした」

 沖縄の他の書店との競合はどうだろう。

 「他店さんのほとんどは売上を大きく減らしたとは聞いていませんので、うちの売上は沖縄の潜在需要を掘り起こしたとみています」

 簡単に言えば、他の書店になかった本がジュンク堂には置かれており、それらがよく売れている、ということだろう。

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 沖縄県民が、必ずしも売れ筋でない本を含めた多様なニーズを示すのはなぜだろうか。

 森本さんは、本に対する沖縄県民の親しみの深さは、沖縄の出版文化の広がりに現れているとみる。沖縄には出版社が50社ほどある。個人で出版する人も多い。

 「本を読む文化が沖縄にはもともとしっかりあった、ということだと思います」

 こうした順調な業績に森本さんはさぞ大満足かと思いきや、違った。

 「品揃えはまだまだなんですよ」

 その意味は次回3/11(日)に。


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2012年02月12日

家族のために日本で生きる

沖縄を創る人 第33回
 ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(下)


 鶴見から20年ぶりに故郷ペルーに戻った平敷兼長さんは、ペルーでも電気工事で生計を立てようと考えた。しかし日本で高度な電気工事技術を身につけた平敷さんの目に映ったペルーの電気工事のレベルは低く、やる気が失せた。電気工事だけでは実入りが少ないことも分かった。

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 そこで平敷さんは、電気工事を含めて、住宅のリフォームを丸ごと請け負う仕事を始めた。日本で電気工事の仕事をしながら見ようみまねで身につけた建築工事のノウハウがここで生かされた。とはいえ、リフォームの仕事だけでは、将来に大きな期待ができそうにないという思いが募っていった。

 「ラーメンはどうかな、と思ったんです」

 ペルーでは日本食の寿司店が成功を収めていた。日本のラーメンも人気が高い、という情報が入ってきた。

 「どうせやるなら、豚を養うところから始めて、ラーメンまでやったらどうだろう」

 平敷さんは夢を膨らませていった。

 昨年12月、妻の親族に不幸があったため、家族で日本に来た。南半球は12月から夏休みなので、子供たちもその期間は学校に行かなくていい。向こうで生まれた長女も含めて、一家5人で2年ぶりに日本に来た。

 年が明けたら、また一家でペルーに戻る予定だった。ところが、1月になって家族の中で「小さな激震」が起きた。日本生まれの長男が旧友と会った後に「ぼくは日本で大学まで行きたい」と言い出したのだ。

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 「ショックでした。ペルーに戻るつもりでしたから」

 南米は景気がいいのは確かだが、治安はよくない。

 「ペルーだと、やはり子供が外で自由に遊べないですし、バスも危ないので乗れません。日本生まれの長男にペルーでの生活はきつかったのでしょう」

 子供の安全は何にも代えられないと思った、という。

 「大学という子供の将来を考えても、日本の方がいいかもしれないなと考えるようになりました」

 平敷さんは再び日本で暮らす道を選ぶことにした。平敷さん自身の両親はペルー在住だが、ブラジル出身の妻の家族は日本に戻ってきていることもあり、妻は賛成してくれた。

 「子供と妻が日本で、となったら、もう抵抗できませんよね」

 とはいえ、日本で電気工事の仕事環境が厳しいことに変わりはない。東日本大震災で日本の景気はさらに悪くなっているように見える。

 平敷さんは、まずは電気工事士の免許取得に挑戦するつもりだ。電気工事会社は、電気工事士の資格を持つ仲間の協力で経営している。だが、厳しい時代には、人を頼りにせず、自らが資格を持っていなければならないと考えている。

 平敷さんにとってハードルが高いのは日本語の書き言葉。20年の日本生活のおかげで会話は自由にできるようになったが、漢字での読み書きは簡単ではない。だが、家族のために日本での生活を選んだ平敷さんは、厳しいことも含めて、これまでやってこなかったこともやるハラを固めている。

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 スペイン語で育った日系仲間は周囲にたくさんいる。そんな仲間とスペイン語で時々おしゃべりしてストレスを解消する。「これが、妻がブラジル出身仲間とおしゃべりする席だと言葉はポルトガル語になるんです」と平敷さんは笑う。

 沖縄には一度だけ行った。浦添出身の親族が今は石垣島にいるので、あいさつに行った。

 「タクシーに乗って行き先の家の名前を言ったら、住所も言わないのにすぐ連れていってくれたのが、ちょっとびっくりでした」

 [平敷兼長さんとつながる] ペルーの日系人社会については、例えば、沖縄系のフェルナンド仲宗根さんが編集している日系人新聞を読むと、その一端がかいま見える。一方、川崎・鶴見かいわいは、日系移民2、3世や沖縄出身者が多いことで知られる。例えば東京外大の受田宏之准教授の報告を読むと、そんな様子がよく分かる。このレストランガイドによると、鶴見や川崎にはペルーやブラジルなどの南米料理店もいろいろある。世界各地の沖縄移民数については、沖縄県のまとめが便利。

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2012年02月05日

電気工事を現場で一から学ぶ

沖縄を創る人 第32回
 ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(上)


 沖縄出身の移民やその2世、3世はハワイや南米を中心に世界各地にたくさんいる。オキナワの遺伝子を宿した人々がどんな生き方をしているのか。万鐘本店では機会があれば、そんな人々にも登場してもらうことにする。今回は南米ペルー出身の平敷兼長さん。

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 ペルーは、ブラジルの西側の太平洋岸に位置する。日本の3.4倍の国土に約3000万人が暮らす。かつてはインカ帝国の中心地だったことで知られ、南米各国の中でも、アルゼンチンなどは欧州系住民が多いが、ペルーは先住民や、先住民とスペイン人との混血の人々の人口比が高い。

 外務省や沖縄県によると、ペルーの日系人は約10万人で、日系人人口ではブラジル、米国に次いで3位。ペルー日系人10万人のうち約7万人が沖縄系と推計されている。

 平敷さんもそんな1人。首都リマで生まれ育った。祖父が浦添市の出身、父は2世、母はペルー出身。

 高校を卒業した1989年に日本に来た。当時、ペルーはフジモリ大統領時代の直前。景気は悪く、治安もよくなかった。

 「あの頃、若い日系はみな日本に出稼ぎに行くという雰囲気がありましたね」

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 ペルーではほとんどスペイン語だった。日本語といえば「おばあちゃんの沖縄方言くらい」。リマでも日本語学校で毎日1時間くらいずつ日本語を習ってはいたのだが、当時は日本語にあまり興味が湧かず、本気で身につけようとは考えていなかった。だから、来日当初は、言葉で苦労した。

 だが、日本のテレビを見ていたら、どこかで聞いたことのある音だと感じた。平敷さんの中に、知らず知らずのうちに日本語の音が入っていたのかもしれない。こうしてテレビを見ながら、平敷さんは日本語を徐々に磨いていった。

 まず東京の車の部品メーカーで3年間、働いた。その後、横浜市鶴見区のガラス工場に。ここで5年ほど勤務した。この間に、ブラジル生まれで、やはり日本で働いていた日系女性と結婚した。

 2002年から5年間は、同じ鶴見区で沖縄出身者が経営する電気工事会社で働いた。ここでの仕事が、平敷さんのその後を方向づける職業経験になった。

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 電気工事会社での仕事は楽しかった。電気の勉強をしたことはなかったので、現場で仕事をしながら、一から先輩に教えてもらった。電気は目に見えないが、先輩は電気のすべてを、イロハから教えてくれた。

 建物を建設する際に電気を配線するという仕事が多かったため、電気配線の技術に加えて、建築工事の技術も現場で見ながら自然に学んでいった。

 「横でずっと見ているんで、どうやったらいいのか、だんだん分かってくるんです」。もし大学に行っていたら工学系を勉強していたはず、と平敷さんは振り返る。

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 やがて平敷さんは独立し、仲間と電気工事会社を作った。だが、不景気の時代。電気の仕事は建設需要に大きく影響される。仕事の見通しに自信が持てる状況では全くなかった。

 一方、南米は、平敷さんが出て来た頃とは様変わり。ブラジルを先頭に、経済がどんどん成長している。平敷さんの同級生の中には、高卒後もペルーにとどまって大学に進み、20年後の今、4000ドルもの高額の月収を得る人が現れた。神奈川にいた南米出身の日系人仲間の中には、ブラジルで会社を立ち上げる人も出てきた。

 そんな中で平敷さんもペルーに戻ることを決意。一緒に電気工事会社をやっていた兄に経営を委ね、妻と日本生まれの長男、次男を連れてペルーに戻った。2009年。日本に来てから20年が過ぎていた。

 続きは2/12(日)に。

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2012年01月22日

腰を据えてこそ見えてくる熟練の世界

沖縄を創る人 第31回
 大垣精工(株)沖縄工場長 大森正末さん(下)


 リスク分散と、金属加工に最適の摂氏22度を実現しやすい気候。金型製造の大手、大垣精工が沖縄に進出した理由を、工場長の大森正末さんが話してくれた。実際に1年やってみてどうだっただろうか。

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 「人材は非常にいいです。沖縄職業能力開発大学校、通称ポリテクカレッジの卒業生を1人採用しましたが、ものづくりが好きな青年で、一生懸命やっています」

 「間違えずに、正確に作るためには、ひとつの線を通していく論理性の高さが求められるのですが、彼はそれができる」

 「今の沖縄はあまりものづくりのイメージがありませんが、昔はそういう伝統があったと聞きました。米軍支配下では自由なものづくりが許されなかったということなのか、あるいは設備投資の余力がなかったということなのか、そのあたりはまだよく分かりません」

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 ともあれ、一年間、様子を見たところでは、沖縄は金型製造人材の供給については大丈夫、というのが大森さんの結論だ。

 困ったのは材料の確保だった。金型に使われる材料は超硬合金。高価な素材なので、長期の在庫は避けたい。だが、台風が来たりすると交通が乱れて材料が入ってこなくなる。

 この1年は触媒用ハニカム金型の製造だけだったため、使う材料が少量だった。沖縄が製造拠点として「いける」となれば、将来は他の様々な金型を沖縄で製造していくことになる。そうなると、一定のまとまった量の材料を入れることができるようになる。多様な製品を作る段階になった時には、アジアと至近距離にある沖縄の位置が有利に働くかもしれないという。

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 沖縄のコストの安さも強みだろう。大森さんは言う。

 「2000年くらいまでは、世界の金型の半分くらいは日本が作っていたんです。自動車メーカーなどが、海外に製造拠点を移してコストを下げていったので、金型もコストダウンを強いられました。とにかく安くないとダメ、ということなんですね」

 「しかし金型の場合は、人が長い時間をかけて継承していく技術が中核です。職場をどんどん移るのが当たり前のような海外では、人を育てるのがなかなか大変です」

 「国内で、しかも安く」となった時、物価の安い沖縄は有利な位置に立てる可能性があるということだろう。

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 大森さん自身、熊本の中学を卒業後、夜間の学校に通いながら、この道ひとすじでやってきた。じっくりと腰を据え、深く根を下ろしてこそ見えてくる熟練の世界。沖縄の人材が、そのような熟練を要するものづくりに向いているとすれば、沖縄の産業振興の新たな手がかりがそこに見出せるかもしれない。

 [大森正末さんとつながる] まず大森さんが所属する大垣精工のHP。会社の姿に加え、さまざまな製造技術も解説されていて興味深い。上田勝弘社長のインタビュー動画もある。その上田社長が会長を務める日本金型工業会のHPには、金型とは、といった一般的な説明から、輸出統計データまでいろいろな情報が満載だ。例えば、海外に進出した金型企業が世界のどこに立地しているかがグーグルマップで見られたり、10年後の金型産業のあるべき姿を模索した「金型産業ビジョン」なども読める。大垣精工沖縄工場に隣接する沖縄県金型技術研究センターについてはこちらを。 

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2012年01月15日

1ミクロンの精度で金型づくり

沖縄を創る人 第30回
 大垣精工(株)沖縄工場長 大森正末さん(上)


 「これを作っているんです」。大垣精工沖縄工場の大森正末工場長が指さした製品は、びっしりと微細な穴が空いた、見るからに硬質な金属の固まりだった。穴のエッジの鋭さは、この金属の固まりがどれほど精巧に作られたものかをよく物語っている。精度1ミクロン、つまり1000分の1ミリほどの誤差しか許されない。

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 金型(かながた)。自動車やパソコンなどの金属部品、プラスチック部品などを作るための型のこと。大森さんが見せてくれたのは、自動車のマフラーに入っている触媒を作るためのハニカム金型と呼ばれるものだ。この金型から生産される触媒は、自動車や二輪車などが排出する有害な一酸化炭素や窒化酸化物などを浄化し、きれいな空気にする。

 大森さんの工場が作っているのは、触媒それ自体ではなく、触媒を作るための金型だ。金型を発注したユーザーが、精巧な金型からセラミックの素材を押し出して触媒を作っていく。ハニカムというのは、蜂の巣のような六角形の小さな形状が空いている構造で、四角よりも触媒が作用する面が増えて効率が高まる。

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 金型はミクロンの精度が要求されるから、削るにしても、穴を開けるにしても、旋盤やボール盤を手で動かすような方法では作れない。金型の多くはNC(数値制御)で加工する。つまり、機械の動きを座標軸に落とし込んで数値化して機械を動かすのだ。ものづくりと言うと、文字通り、手で何かを作り出すイメージがあるが、高い精度が求められる金型の製造現場はNC加工にならざるをえない。

 加工の際にはいろいろな要素が入り込んでくるから、どういう時に何が起きるか、まさに現場を熟知した技術者がそうした経験をすべてプログラムに織り込んで加減していかねばならない。そこには経験に裏打ちされた熟練と、繊細で緻密な感覚が要求される。

 データだけあればプログラムはできそうに思えるが、さにあらず。日本人ならではの精巧なものづくりを象徴する産業として金型産業がしばしばマスコミに登場する背景には、金型製造特有のこうした特性がある。

 「金型産業は人を育てる必要があります。アジア諸国から研修生をたくさん受け入れてきましたが、彼らはどんどん会社を移る。金型を作る会社の立場からすると、せっかく人を育ててもすぐにどこかに行ってしまうのでは困るわけです」と大森さん。

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 大垣精工は金型製造の大手で、上田勝弘社長は日本金型工業会会長として全国591社をリードする存在だ。その大垣精工がなぜ沖縄に進出したのだろうか。大森さんが言う。

 「まずリスク分散です」

 岐阜の本社で長らく操業してきた同社は、リスク分散のため、まず長崎に工場を作り、次いで昨年1月、沖縄に工場を作った。地震などの天災や原発災害が決して言葉だけのものではないことは、昨年3月以降、ほとんどすべての日本人が自覚したところだ。

 「例えば、うちのハードディスクのサスペンション部品は、日本で2社、世界で4社しか製造技術を持たない超精密部品です」

 もし製造拠点が1カ所に集中していて、そこが災害でやられたら、その影響ははかり知れない。東北のものづくり拠点の被災が、世界の自動車産業を停滞させたことは記憶に新しい。沖縄は地震が比較的少ないのがリスク分散上の魅力になっている。

 加えて、沖縄の温暖な自然環境が金型づくりに向いている面も見逃せない。

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 「材料金属の安定的な加工には摂氏22度が最適です。本土では寒い時期には2度、3度になるので、22度にするにはかなりの暖房費がかかります。沖縄は寒くても13度とか14度でしょう」

 「夏も、本土だったら38度になったりしますが、沖縄は33度くらいにしかなりません」

 加工をする部屋は「恒温室」と呼ばれ、室温が22度プラスマイナス1度に保たれている。沖縄なら、それほどコストをかけずに「22度」を周年実現できるというわけだ。

 続きは1/22(日)に。


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2012年01月08日

家族に支えられ、ラオスで人材育成

沖縄を創る人 第29回
 アイ・シー・ネット(株)コンサルタント 平良那愛さん(下)


 タイの小中高校での計2年間の教員生活、オーストラリアの大学院でマイノリティーの研究、結婚と出産を経て、20代後半だった平良那愛さんは、ODAプロジェクトの現場を担う途上国開発コンサルタントとして働き始めた。

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 途上国開発コンサルタントとは、どんなことをするのだろうか。

 「日本のODAの実施機関であるJICA(国際協力機構)などから委託されて、プロジェクトの現場を動かします」と平良さん。

 JICAはODAプロジェクトを計画し、予算を確保するが、JICAの職員自身が現場に貼り付くわけではない。実際に現場で走り回ってプロジェクトを推進する人々がいる。彼らは農業、教育、保健、インフラ整備などの各分野の官民の専門家で、その一翼を担うのが途上国開発コンサルタントというわけだ。

 アイ・シー・ネットに入社した平良さんの最初の赴任地はラオスだった。ラオスは、タイの東隣りに位置する内陸国。経済成長著しいアセアン諸国の中では最も貧しい国に属する。

 社会文化面はタイとの共通点が多い。言葉もタイ語がかなり通じる。

 平良さんが従事したODAプロジェクトは、ラオス行政官の公共事業に関する能力向上を目指すものだった。平良さんは、インフラ整備などの公共事業計画をどのように審査すればいいか、その方法などを、中央の関係省庁、地方の関係機関などで研修した。

 「南から北まで、すべての県を回りました」

 ラオスは全国で4000件の公共事業が実施されているが、事業の計画・審査からモニタリング評価までの運営監理システムが整備されていないこと、資源配分や事業の優先度付け、実施監理・評価が適切に行われていないことが課題だった。

 平良さんはコンサルタントチームのメンバーとともに、研修の計画を作り、教材を準備し、全国を回って行政官を相手に研修を続けた。地道な作業だが、ラオスがこれから発展していくには不可欠の取り組みといえる。

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 平良さんのそんな仕事を支えてくれるのが、家族。日本で知り合った中国人の夫は、平良さんの赴任とともに、ラオスについてきてくれた。

 「毎日、身近で励ましてくれる家族がいるというのは本当にすばらしいこと。子供の成長と一緒のキャリア形成ってステキじゃないですか」

 地方出張などでビエンチャンの自宅を留守にすることも多い。留守中、長男は夫がみてくれるが、事業家の夫も忙しい。そんな平良さん一家を支えてくれる人たちがいる。

 「ラオス人の”家族”がいるんです」

 借りている家の家主は、自分の兄弟たちの各所帯とともに、一つの敷地に家を持っている。平良さん一家は、家主ファミリー総勢3所帯が一緒に住んでいる一部を借りた。この3所帯+平良さん一家は、互いの玄関を開け放ち、子供たちはどこの家にも出入りして遊んだり、ごはんを食べさせてもらったりする家族のような関係だ。

 少し前までの沖縄の農村部と同じように、平良さんの長男は、自分の家だけでなく、この3つの家族の間で大きくなった。このラオス人"家族”は、平良さんが不在の時に何でも頼める心強い存在といえる。

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 平良さんはもっと子供が欲しい、と話す。

 「双子がいいですよね」

 アジアの気候や人の感じは沖縄に似ている、植物が一緒だし、空気感も似ている、と平良さん。

 「マレーシアの空港に降り立った時、ふるさとに帰った時のような波長を感じたことがあります」

 タイに惚れ込み、ラオスで人材育成に励む平良さんの根っこには、やはり沖縄で培われた感覚が息づいているようだ。

 [平良那愛さんとつながる] 平良さんが携わっているラオスのODAプロジェクトについてはJICAのHPが詳しい。こちらは、平良さんが所属するアイ・シー・ネット株式会社のHP

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2012年01月01日

体全部でタイを大好きに

沖縄を創る人 第28回
アイ・シー・ネット(株)コンサルタント 平良那愛さん(上)


 政府や国際機関が、開発途上国でさまざまな支援事業を行うODAプロジェクト。その現場を担うのが途上国開発コンサルタントと呼ばれる人々だ。平良さんは、専門の教育・人材育成に関するプロジェクトのスタッフや調査員として、途上国の現場で働いている。

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 平良さんは浦添の出身。中学3年から高校3年までの間は、父の転勤に伴って宮崎で過ごし、大学は首都圏へ。大学時代に、タイの学校で高校生に日本語を教えるボランティアをやったのが途上国との付き合いの始まりだった。

 先輩の勧めでボランティアに応募した。赴任して1カ月半ほどしたある夜。ベッドで、突然、とめどなく涙があふれてきた。

 「見るもの聞くもの、タイのすべてが素晴らしいと感じながら毎日を過ごしていました。五感全部が反応していたんですね。それこそ、臭いにも、味にも」

 感動のシャワーを毎日浴びていたのが徐々にたまってきて、それが、大粒の涙になってあふれ出たのだった。体全部でタイが心底好きになってしまったらしい。

 タイで働きたい―。大学卒業後は、とにかくタイで働く道はないか、そればかり考えた。

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 ボランティアで教えていたあの学校に働き口がないか。大学の恩師が「聞いてみたらいいんじゃないか」と言った。そううまい話はないだろうとは思ったが、ダメもとで電話をかけてみた。

 「仕事の口、何かありますかって聞いたら、ちょうどあるよ、って言われたんです」

 日本語教育のカリキュラムがなかったので作ってほしい、とのこと。うそのようなラッキーな話だった。二つ返事で引き受けた。

 タイでの教師生活は充実していた。赴任先の大学の附属学校は小中高一貫教育の完全独立採算で、学校の経費はすべて親が支払う授業料で賄われていた。つまり授業料はとても高く、それが払える富裕層の子弟が集まる学校だった。親の中には、リゾート地で名高いプーケット島やサムイ島に5つ星ホテルを何軒も経営している人もいた。

 充実した毎日だったが、時が経つにつれて、異なる世界をかいま見るようになった。きらびやかなデパートの入口には体の不自由な人が座り込んでいた。学校の近くにはスラム街もあった。経済成長著しいタイとはいえ、貧富の格差はまだまだ大きく、恵まれない境遇にいる人もたくさんいた。

 「いろいろな人に、どう思う?って聞いてみたんです」

 答えはさまざまだったが、仏教国タイでは、厳しい生活を強いられている人はそういう運命にある、という運命論を語る人が多かった。平良さんは、そういう受け止め方にどこか違和感を感じた。

 「このままここにいるのかな。ちょっと違うかな」。平良さんは自問し始めた。

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 2年間のタイでの教師生活を終えた後、平良さんは改めて途上国の社会開発を学び直そうとオーストラリアの大学院に留学した。そこではマイノリティーと開発の接点を研究した。

 「やはり沖縄出身であることがマイノリティーに関心を持つ背景にあったと思います」と平良さん。

 宮崎時代には、いじめられたりすることはなかったが、「沖縄って裸足なんでしょう」と言われたりしたこともあった。別のクラスから好奇心で平良さんを見にくる生徒もいた。 

 大学院を修了して日本に戻ってから、結婚し、出産。出産の後まもなく、途上国の開発プロジェクトを受託するコンサルティング会社の門を叩いた。


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2011年12月14日

年内は終了、新年から再開

 「沖縄・食・農・南の万鐘本店」をいつもご愛読いただき、ありがとうございます。

 年内の更新は、12/11(日)の記事をもちまして終了とさせていただきます。

 新年は1/1(日)から。しばらくお休みしていました「沖縄を創る人」シリーズでスタートいたします。

 万鐘ネットショップは12/28(水)まで営業しております。年末で若干混み合っておりますので、年内お届けをご希望のお客様は、早めのご注文をお願い申し上げます。

 どうぞよいお年をお迎え下さい。



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2011年12月11日

バナナの葉に守られて発酵

沖縄とアジアの食 第13回 発酵ソーセージ

 前回までは魚の発酵食品についてつづってきた。今回は豚肉の発酵食品を取り上げよう。

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 直径5cm、長さ8cmくらいの俵状の包み。バナナの葉で包まれている。これを開いていくとー

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 幾重もの厳重なバナナの葉の中から、鮮やかなピンク色の、小さな肉の固まりが出てきた。華奢な印象。幅2cm、長さ4cm、厚さ1cmほど。ベトナムではネムチュア、ラオスではソムムーと呼ばれるこの発酵ソーセージが今回の主役だ。

 上の一連の写真とすぐ下の写真がラオスで見たもの。その下はベトナム。ベトナムの方がうまそうに見えるかもしれないが、味はほとんど同じ。ラオスでこの時食べたものは豚皮の配合が多かったように思う。

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 あるHPのレシピによると、発酵ソーセージの材料は次のようになっている。

豚肉赤身 1 ポンド、薄切り
塩 小さじ1
砂糖 小さじ2
魚醤 1/4 カップ
豚皮 4 オンス
ニンニク 3片(つぶしたもの)
サラダ油 大さじ2
焼いた米の粉 1/2 カップ
バナナの葉
ニンニク 2片(スライス)
赤唐辛子 1本(スライス)

 ポイントは、米粉を入れていること。前々回の魚の発酵食品を思い出していただきたい。米粉は、乳酸菌が増えるのに必要なエネルギーを提供する。乳酸によってこの発酵ソーセージがどのくらいの酸度になっているのか、実際に測ったわけではないが、だれが食べても酸味を感じる程度にはすっぱい。

 米粉以外には、豚皮、ニンニク、唐辛子が入る。唐辛子やニンニクは、まるで魔除けのように、ひとかけらが丸ごと入っていたりする。魔除けと書いたのは、ニンニクも唐辛子も、味だけでなく、その殺菌力に期待しているから。

 それにしても、厳重な包装だ。たんに中身を物理的に保護するためだけなら、もう少し省略してもいいだろう。厚ごろもの安い天ぷらみたい、なんていう悪口さえ聞こえてきそう。

 だが、実は、必要があって幾重にもバナナの葉を重ねているのだ。表面を外気に少しでもさらしたら、外からの微生物の攻撃で豚肉はすぐ腐敗してしまう。考えてみてほしい。熱帯の30度近い常温に生肉を置くのだ。よほど厳重に守らなければ、肉は腐敗菌にたちまちやられてしまう。そこで、バナナを何枚も重ねてまるで「ふとん蒸し」のようにする。

 バナナの葉の役割は、外気を物理的に遮断することだけではない。バナナの葉の表面には、天然のクモノスカビがたくさんついている。バナナの歯で幾重にも包むのは、腐敗菌との戦いで負けないようにするためにクモノスカビ歩兵師団を大量に送り込む意味がありそうだ。

 カビ、と聞いて「肉の敵じゃないのか」と思われるかもしれないが、クモノスカビの一部は、コウジカビと同様、人に利益をもたらす。バナナの葉のクモノスカビをスターターにする発酵食品はアジアにいろいろある。

 例えば、日本でもすっかりおなじみになったインドネシアの大豆発酵食品テンペがまさにそれ。納豆では、煮た大豆を稲ワラに包んで発酵させるが、テンペは、煮た大豆をバナナの葉に包む。バナナの葉のクモノスカビが発酵を進め、大豆をテンペに変えてくれる。

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 発酵食品までいかずとも、バナナが豊富な地域では、バナナの葉をさまざまな形で腐敗防止に使う。バナナの葉は、鮮魚を売る時の下敷きにしたり、ちまきのようなお菓子を巻いて保存を図ったりもする。バナナの葉は、いってみれば「抗菌」包装資材として広く流通している。

 発酵ソーセージでは、バナナの葉の内側にも、また別の葉が巻かれている。芳香をつけるとともに、発酵促進に役立つ、とラオスの知人が教えてくれた。ベトナムではこの葉の情報を得られなかったが、ラオスではナンヨウユカン、別名アメダマノキと呼ばれる木の葉を使う。

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 発酵ソーセージは生で食べることもあれば、焼いて食べることもある。おやつとしてもおかずとしても食べるが、焼いたものはさらに味が際立って、モチ米やビールが欲しくなる。前々回の発酵した魚パーソムと同じく、少量口に入れれば十分おいしい。

 バナナにしっかり保護されて発酵した深い味。機会があればぜひお試しを。

 発酵ソーセージのさらに科学的な情報に興味がある方は、大妻女子大の大森正司教授アジアの発酵ソーセージに関する研究論文をいくつか出しているので、そちらをどうぞ。

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