2009年09月13日

[第134話 農、食] 地野菜を楽しむ農家民宿

 「農家民宿」は、読んで字のごとし、農家が経営する民宿。農家だから、畑で穫れたての新鮮野菜が食卓に並ぶ。沖縄本島北部の宜野座村で季節の地野菜を作っている仲間澄子さんの農家民宿「田元」をのぞいてみた。

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 田元は「タムトゥー」と読む。これは仲間家の屋号。沖縄の農村部では、今でも屋号で家を呼ぶことが多い。仲間家では、古い瓦家の隣りに鉄筋コンクリート造の自宅を建て、家人はそちらで生活することになったので、空いた古い瓦家を民宿として使うことにした。これが「田元」の始まり。

 その瓦家は、昔ながらの一番座、二番座のある間取り。一番座には床の間、二番座には仏壇がそれぞれある。

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 仲間さんはカンダバーやンスナバー、イーチョバーといった沖縄の地野菜を作っている。夏場ならモウイのあえもの、秋口にはシークワサーのジュース(下の写真)、冬にはダイコンの地漬けやイーチョバーの天ぷらが献立に加わる。パパイヤイリチャーやカンダバーのみそあえは年中できる。

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 カンダバーは万鐘本店第54話モウイは第1話野菜パパイヤは第92話でそれぞれ紹介した。イーチョバーはウイキョウ。さわやかな香りが特徴で、天ぷらにしたり、ボロボロジューシーにしたりする。

 「地野菜は、何にもしなくても、ほとんど放ったらかしでできるんですよ。農薬もいらないし」と仲間さん。

 話を聞けば簡単そうだが、仲間さんは、例えばカンダバーなら葉が柔らかく、えぐみの少ない品種を選んで植えている。カンダバーなど、沖縄ではそれこそどこでも生えている葉野菜だが、ちゃんとこだわりの品種を栽培しているところはやはり農家。

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 地野菜は、たとえばカンダバーでもハンダマでもイーチョバーでもゴーヤーでも、独特の香りや苦み、渋みがあって、それがおいしい。とはいえ、その香りや苦み、渋みが、度を過ぎたものでは、とても食べられない。適度ならば、「大人の味」として、おいしくいただける。

 だから農家は、品種について、長い間、研究を重ねてきた。この研究は、もちろん研究所みたいなところで行なわれるわけではなく、各農家が自分の畑で経験的に続けてきたもの。「いい種を残す」「いい種を人に分ける」という形で、その成果は細く長く受け継がれてきた。

 地球上で農業というものが始まって2万年。その99%以上にあたる1万9900年くらいの間、品種改良などの研究開発はすべて農家が担ってきた。例えば、バナナが今のような種なしの形になったのは、何千年も前にインドネシアで品種改良が行なわれたかららしい。そんな時代に研究所があったはずもない。

 話が急に大きくなってしまったが、仲間さんのカンダバーも、そんなふうにして農家の手で残されてきた「いい種」の一つなのだ。

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 田元の宿泊客は、畑で土いじりをしたり、それぞれの味わいを持つ地野菜に舌つづみを打つことができる。おやつのサーターアンダアギーを仲間さんと一緒に作ったりするチャンスもあるらしい。

 ホテルにあきた沖縄リピーターの間で田元は人気が高く、夏休みなどは予約で一杯になる。1回に1組しか泊れないから、予約は必須。1組5、6人までは泊れる。

 農家民宿はほかにもいくつかある。北部の農家民宿情報は、このHPが便利。田元も載っている。田元は宜野座村宜野座村字漢那112、 098-968-3992。

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2009年09月06日

[第133話 食] 汁の味を変えられる八重そば

 名護の沖縄そば店で。左の男性は「いただきます」と箸を入れたところ。ゆっくりと箸を動かし、麺と汁をなじませる。穏やかな笑みの中に、おいしいものをいただく喜びがにじむ。

 さて、右の人は? 食後のお茶か。いやいや、この人もこれから沖縄そばを食べるところ。そのために、沖縄そばのどんぶりに自分で汁を注いでいるのだ―。

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 名護市の旧市街の飲食店街にある八重そばは、いつも地元のファンでいっぱい。ソーキそばでも三枚肉そばでも、注文すると、麺、肉、ネギだけが入ったどんぶりと、やかんに入ったアチコーコーの汁とが出される。右の男性が持っているやかんがそれ。八重そばでは、めんと汁が別々に出てくるのだ。

 まず、やかんの汁をおもむろにどんぶりの中に自分で注ぐ。汁は驚くほどにごりがなく、透明感にあふれている。これほど透明な沖縄そばの汁も珍しい。豚骨ベースだが、静かにていねいに煮出してあるから、豚臭さは一切なし。

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 肉とめんを食べていくうちに、肉の煮汁が全体の汁に溶けていき、汁の味がだんだん丸みを帯びてくる。その変化を楽しみながら、めんを7割方食べ、汁も少し飲んだ状態が下の写真。最初の汁に比べて色がだいぶ変わっているのが分かる。その甘味を増した汁に、やかんの新しい汁を注ぎ足す。

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 新しい汁を注ぎ足すと、汁全体が最初の塩の効いたやや厳しい感じの味に戻る。特に、最後をそれで終わると、いくぶんダレ気味の舌が引き締まる感じで心地よい。やかんに新しい汁が用意されていると、このような味の「戻し」ができる。

 第122話で紹介した恩納村の「なかどまい」の汁も八重そばの汁によく似ているが、八重そばの汁はなかどまいよりもさらに一段と透明で、あっさりしている。

 もの足りないと感じる向きもあるかもしれないが、いったん甘味を帯びた汁に注ぎ足して元の緊張感を蘇らせるには、この透明感、あっさり感が重要そうだ。あまりコテコテの汁だと、こういう戻しの効果は鈍くなるのではないか。

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 八重そばのめんは、名護らしい平麺。幅は1cm弱でそれほど厚くない。強いコシは感じられないが、昔ながらの沖縄そばの麺は、それほどコシが強くない。むしろ、やや柔らかめの麺の方がトラディショナル。八重そばのめんもまさにそれだ。

 平麺でも厚ぼったくないので、ヒラヒラと曲がり、汁がよくからむ。平麺を食べる時にはいつも思うが、すすり上げて口に含み、もぐもぐと噛み始めた時、平麺は口の中で独特のボリューム感を感じさせてくれる。

 八重そば創業者の八重子おばあは、息子に店を任せ、ふだんはデイケアに行っているが、デイケアが休みの時には店にすわってお客さんとゆんたく(おしゃべり)している。

 八重そばは名護市城1-9-3、0980-52-3286。11時〜(売り切れ次第終了)、火曜定休。

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2009年08月30日

[第132話 食] 泡盛の全麹仕込みを見た

 泡盛は麹と水と酵母だけでもろみを仕込む全麹仕込み。イモや米などの副原料を一切入れない。名護の名酒「國華」を作っている津嘉山酒造所で、もろみを仕込む「造り」の作業を見せてもらった。

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 津嘉山酒造所は、沖縄戦の戦火を奇跡的に逃れた築80年を超す昔の建物で、今も泡盛を醸造している。この建物はことし、国の重要文化財に指定された。居住用の建物と泡盛製造用の建物とが一体になった昔の酒造所の造りをそのまま残している。

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 仕込みは月に数回。沖縄県産の黒麹菌を、蒸したタイ米にふりかけ、麹室(こうじむろ)で米に菌が回るのを待つ。3日目には黒麹菌の菌糸が米に充分に入り込むので、まずは、大きなしゃもじで、それをよくほぐす。もうもうと上がる湯気。それに乗って飛散する菌糸。

 湯気からはかなりの高温を想像するが、聞けば中の温度は30度台後半という。40度以上になると菌が死滅してしまうらしい。麹菌は自分で温度を上げるのにもかかわらず、その温度で自分が死んでしまうという一見矛盾した働きをするところがおもしろい。温度が上がりすぎるのを防ぐため、麹室は冷却用の送風装置を備えている。

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 麹をよく見ると、黒っぽい菌糸が表面にたくさんついているのが分かる。この黒いかびがでんぷん分解酵素を出して、米のでんぷんを糖に変えていく。

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 ほぐしが終わったら、麹を仕込みタンクに投入する。タンクの中にはあらかじめ、水と酵母が入れてある。「2、3日すると、盛んに泡を出して元気に発酵しますよ」と大城宜実さん。麹がでんぷんから作った糖分を、今度は酵母がアルコールに変える番。いよいよアルコール発酵である。

 タンクは、夏場で2週間、冬場なら4週間をかけてアルコール発酵させ、もろみが出来上がる。これを蒸留すれば泡盛の完成だ。

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 日本酒の場合は、もろみの前に麹と酵母と米を混ぜて酒母(もと)をつくり、さらにそれにまた米を加えてもろみを作る。いずれにしても、米麹以外に米が2段階にわたって加えられる。焼酎の場合も、酒母こそ全麹仕込みだが、その後でイモやムギや米を加えてもろみを作る。

 これに対して泡盛は、麹になった米以外の米は全く加えない。もちろん、イモやムギも入れない。麹と水と酵母だけで、一発でもろみを作る。これを全麹仕込みという。麹の酵素たっぷりの、まことにぜいたくな仕込みと言えるだろう。

 泡盛の麹は黒麹菌。その名の通り、かなり黒い。だから、もろみも真っ黒だ。

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 もろみのタンクも温度が上がる。そのままにしておくと酵母がやられてしまうので、タンクに沈めてある冷却装置で温度を下げる。

 昔はカメ仕込みだった。当然ながら冷却装置などない。「カメくらいの量だと温度はそれほど上がらないんです」と大城さんが解説してくれた。タンクで大量に仕込むから温度が上がるということらしい。

 タンクの周囲の建物の梁には、黒麹菌の菌糸がたくさんついている。いわゆる「蔵付きの菌」。麹室で麹をかきまわすのを見ていたら「鼻の中が真っ黒になりますよ」と言われた。黒麹菌は麹室内で爆発的に増えており、それをかき回すたびにかなりの量が飛散するから、長い間に醸造所全体が黒麹菌だらけになる。

 津嘉山酒造所の歴史は80年を超す。この蔵付きの菌、沖縄戦もアメリカ世も本土復帰も、すべて経験していることになる。激動の沖縄現代史を経た味と香り。なんだが妙に想像力がかきたてられる。

 津嘉山酒造所は名護市大中1-14-6、0980-52-2070。HPはこちら

 




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2009年08月23日

[第131話 沖縄] 定着した選挙の家族ポスター

 いよいよ総選挙。沖縄でも運動が激しさを増してきた。最近の沖縄の選挙ポスターは、ひと昔前とはだいぶ違う。家族ポスターの話から。

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 一番上は沖縄3区、小渡亨候補。奥さんと一緒のポスターが目を引く。その次は沖縄1区、下地幹雄候補。こちらも奥さんとのツーショット。一番下は沖縄1区の国場幸之助候補。奥さんだけでなく、子供たちも含めて一家で登場だ。

 家族ポスターが本格的に登場したのは、2006年の県知事選だった。この時、革新系は糸数慶子候補で、糸数さんとともにご主人がポスターに登場した。迎え討つ保守系の現職仲井真弘多候補は、娘と一緒のポスターが話題を呼んだ。結果は仲井真さんの勝利に終わったが、それ以後、選挙には家族ポスターがしばしば張り出されるようになった。

 家族写真は、実のところ、政策とはあまり関係ない。国場さんのように、子供の写真の上に「子育て責任世代」と入れれば、子育て政策に力を入れるイメージが強まるが、もし政策を訴えるだけなら自分の子供を登場させなくてもいいはず。

 やはり家族ポスターの一番のねらいは「この候補者は、愛情に満ちた常識的な家庭人です」というイメージをアピールすることだろう。政策うんぬん以前にまずはまともな人物かどうかを見極めたい、という有権者に大いにアピールするに違いない。沖縄は家族重視。言葉で政策を語る以前に「常識的な家庭人」であることが求められる。

 だが、家族ポスターには、一方で「やりすぎ」「家族の笑顔くらいでごまかされないゾ」という冷ややかな声があるのも事実。

 そんな反応を意識してか、今回の総選挙では家族ポスターを全く出さない候補もいる。沖縄3区の玉城デニー候補はその一人。後援会によれば「考え方はいろいろあるでしょうけど、玉城の場合は家族ポスターを出す予定はありません」とのことだった。

 ところで、昔ながらの沖縄の選挙ポスターと言えば、「カタカナで強調する」「名字よりも下の名前を強調する」の2点が特徴だ。

 例えば、冒頭の3人の候補者のいずれも、姓名のいずれかをカタカナで書いている。確かに漢字ではあまり目立たないし、カタカナの方が読みやすい。

 なぜひらがなではなく、カタカナなのか。万鐘の地元うるま市で若い人に聞いてみた。

 ある女子高校生は「だって、それが選挙ポスターというものでしょ」と言った。彼女がものごごろついた頃から見てきた選挙ポスターはすべてカタカナ表記だったのだ。ある浪人生は「下の名前を大きく書いて強調する場合、ひらがなで書くと、幼稚園の子供みたいな感じがする」と。カタカナの方がひらがなより「しまり」があるのかもしれない。

 沖縄トラディショナルとも言える選挙ポスターのカタカナ表記だが、実はこれにも大きな変化が見られる。

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 これは2008年の金武町の町議選、下はことしの那覇市の市議選。金武町のポスターでひらがな表記しているのは右下の「こはつ」さんと中央右下の「高し」さんだけ。カタカナ強調が圧倒的だ。ところが那覇市では、ひらがな強調がかなりある。


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 ヒマにまかせて数えてみた。金武町は、掲示板にポスターを貼っている候補者25人のうち、カタカナで姓名のいずれかを表記している人は22人。つまり全候補者の88%がカタカナ表記だった。

 これに対して那覇市議選は、ポスターが貼られていた候補者66人のうち(写真は一部)カタカナ表記は33人で、カタカナ率は50%にガクンと落ちる。逆に、ひらがな表記は金武町の場合はわずか1人だったが、これが那覇市になると30人、45%に増える。

 カタカナ表記ポスター全盛の中で、あえてひらがなを用いることで目立たせよう、と考える選対が都市部で増えてきたのか。あるいは、ふだん使わないカタカナより、なじみのあるひらがなで素直に表記した方がアピールすると考え始めたのか。

 もう一つの特徴、「名字よりも下の名前を強調する」について。そもそも沖縄は、名字よりも下の名前で呼び合う社会で、これは選挙に限らない。学校や職場でも、かなりの人が下の名前を呼び合う。

 数少ない姓に多くの人が集中しているので、姓を呼んでも区別できないことが多いからだ。農村部は特にそう。例えば旧石川市(現うるま市)字山城に行って「山城さーん」と呼んだら、ほぼ全員が手を挙げるのではないか。

 那覇と金武のポスター掲示板で比べてみると、那覇は下の名前を強調している人が44%、金武は64%。これは都市部の方が姓が多様なため、姓を強調する人が多いからだろう。しかし先ほどの「カタカナか、ひらがなか」ほどの数字の開きはない。沖縄社会の実態を反映して、選挙でも下の名前を強調する伝統は、都市部を含めて健在のようだ。

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2009年08月16日

[第130話 沖縄]  琉球の実測図(下)ー集落課税の副産物か

 ゼンリンの住宅地図ばりの精緻な全琉球測量図を、伊能忠敬の全国測量に半世紀以上先んじて作っていた琉球王府。その狙いは一体何だったのだろうか。

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 その話に入る前に、測量の基準点として使われた「印部石(しるびいし)」の話を少し。印部石は、今もわずかに残されていて、現場で見ることができる。例えば、浦添城跡には「あさと原ス」と彫られた印部石がある。「あさと原」は小字の名で、「ス」は記号。石の上部は欠けているが、「と原」と「ス」の下半分がはっきり分かる。

 このような印部石は間切(まぎり、市町村に相当)ごとに200ー300個ほど設置されたらしい。しかも、これらは将来の再測量の可能性を考慮して、徹底したメンテナンスが王府から各間切に命じられていたという。

 この測量が行なわれたのは、1737年から1750年に実施された乾隆元文検地。乾隆元文検地を主導したのは、琉球王府の歴代高官の中でも傑出した指導力を発揮した蔡温(さいおん)だった。

 蔡温は優れた技術者としても知られる。植林などの分野では中国仕込みの優れた技術を琉球に伝え、王府高官として、その一部を自ら実践した。乾隆元文検地で用いられた測量技術も、同様に中国仕込みだった可能性がある。

 さて、それにしても、こうした精緻な実測地図をなぜ琉球王府は作成したのだろうか。

「琉球王府は、個々の農民ではなく、集落単位で課税していたんです」と話すのは、実測地図の研究を進めている沖縄県立芸大教授の安里進さん。

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 日本の各藩は、原則として各農家に課税した。豊臣秀吉の太閤検地以来、各世帯の田畑の面積を測って納税の基礎としたが、この場合は、田畑の面積が分かれば課税額が算出できるので、それで充分だった。田畑の正確な位置だとか、集落の形=境界を知る必要はなかったのだ。

 これに対し、琉球は集落を課税単位にした。となれば、ここはウチの村に入る入らない、といった境界争いは激しくならざるをえない。というのも、こうした境界の位置は、集落の課税額に直結するからだ。もちろん課税が個々の農民単位であっても似たような境界争いは起きただろうが、集落単位での争いとなれば、声の大きさや行動力は何十倍、何百倍になる。

 そう言えば、今でも沖縄の農村部では、字=集落単位の団結の強さ、他の字との対抗心が強い。「他シマ」(よそのシマ)という言い方には、そんな対抗心のニュアンスが色濃い。方言も字ごとにだいぶ違う。

 かくして琉球王府は、正確な境界を定める必要に迫られ、ひたすら細かい実測図づくりを実施したのではないか―。安里さんはそんな風に考える。この説は、直接の史料に裏打ちされたものではなく、推測の域を出ないが、説得力はありそうだ。

 日本にもほぼ同じ時期に、同じような測量技術自体はあったことが分かっている。だが、琉球のような「必要」がなかったから、伊能図が現れるまで、日本全体の実測地図が作られることはなかった、ということかもしれない。

 安里さんによると、琉球王府時代の測量と作図をめぐる研究は、まだ緒についたばかり。これから、さらに興味深い研究成果が明らかになるかもしれない。

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2009年08月09日

[第129話 沖縄] 琉球の実測図(上)ー伊能に半世紀先んじて

 今回と次回は、18世紀、琉球王国時代の測量と地図のお話。琉球王府は、ゼンリンの住宅地図も顔負けの詳細な全琉球地図を作成していたことが最近の研究で分かってきた。

 すべて実測に基づく、驚くべき精緻さ。全国測量事業を成し遂げた伊能忠敬より60年以上前に、琉球は、現在とほとんど変わらぬ正確な自画像を描いていた。写真はその一部、現在の那覇市識名付近(出所は後記)。

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 この研究を中心的に進めている一人、沖縄県立芸術大学教授の安里進さんに話を聞いた。安里さんは、当初、いくつかの市町村(当時は「間切(まぎり)」と呼ばれた)の測量データを記した文書を入手し、これを解読していった。

 文書には、図はなく、例えば田畑の1枚ごとに、大きさと位置が言葉と数字で記されていた。その方法は、基準点になる印部石(しるびいし)を置き、その石から田畑の中心点までの角度と距離を実測。角度については「子下小間少下寄」といった言葉が並んでいたが、解読作業の結果、これは全円360度を384分割し、その1単位を表したものであることが判明した。

 測量ぶりは細かい。例えば、四角くない田なら、土地をいくつかの三角形に分割して正確な形と面積を出し、あぜ道はあぜ道で実測したうえで田の面積から差し引く、といった具合だ。

 安里さんはいくつかの場所について、そのデータを基に、田畑などの配置図を復元した。下の写真はその過程を分かりやすく説明したもの(安里進『考古学からみた琉球史[下]』P.122から、著者の許可を得て転載)。

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 一番上が安里さんがデータから復元した田畑の配置図。そのうえで、米軍が沖縄戦の準備作業として独自に作成した航空写真に基づく古い地形図(写真の2番目の図)に、復元した田畑の配置図を重ね、土地の形が一致する場所を探した。すると、上図の谷底の田のように、地形図の等高線の形が田の復元配置図にぴたりと一致する場所が見つかった(写真の3番目の図)。

 復元図上で明らかな印部石が、ひょっとしたら今も残っているかもしれない、と安里さんは考えた。だが、350年近くも前の話。とりわけ戦後は、各地でさまざまな開発が行なわれてもいる。

 だが、安里さんは現在の北谷町で、「ここにあるはず」という石が実際に現場に残されているのを見つけた。「まるで古地図から埋蔵金を探しあてたようなこの日の感動を終生忘れることはないだろう」と安里さんは著書に書いている。

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 しかし、実測データに基づいて描かれたはずの肝心の当時の地図は、なかなか見つからなかった。

 それが最近になって、現在の那覇市の一部の地図である「真和志間切針図(まわし・まぎり・はりず)」の部分写真が発見された。それが冒頭の写真だ(安里進「森政三資料の真和志間切針図部分写真」から著者の許可を得て転載。『首里城研究』No.11所収)。

 真和志間切針図をそのまま翻訳すれば「真和志村測量図」。地図には、間切の境界はもちろんのこと、河川、道路、集落、山野、田畑などの位置がはっきり示されていた。境界線や田畑、屋敷などは点と線で細かく縁取られ、測量器で実測した測点と測線を一つひとつ図に落としていた。印部石を表す大きな丸も描かれている。

 一部の測点には針で突き刺した穴が開いており、下絵から図を起こす際、寸分の狂いもないよう、針で刺し写していたことが分かった。この技法は後の伊能図でも用いられている。

 全琉球を回る実測作業も大変だが、それで得た膨大なデータを図化する作業も気が遠くなるような細かい仕事。昨今の沖縄はすっかり「テーゲー(大概)主義」「何ごとについてもアバウト」を自認しているが、もし本当にテーゲー、アバウトだけだったら、このような地図を作り上げられるはずもない。

 明治中期に琉球各地を歩いて「南嶋探検」を著した青森県の探検家笹森儀助も、琉球でこの地図に出会い、その精緻さに驚嘆したとの記録がある。

 それにしても、なぜ、これほど手間もヒマも金もかかる細かい大仕事を琉球王府はやったのか。こうした測量技術、作図技法はどこから学んだのか。疑問は次々に湧いてくる。その話は次回に。

 絶好のタイミングでこの話題のシンポジウム「琉球王国の測量技術と遺産〜印部石(シルビイシ)」が那覇市で8月19日(水)午後6:30から開かれる。講師は田里修沖縄大教授と安里進沖縄県立芸大教授。場所は那覇市久茂地のパレット市民劇場(パレット久茂地9階)。詳細はこちら

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2009年08月02日

[第128話 食] 真っ黒な黒糖黒ごまジャム

 ごらんのように真っ黒。まるで墨のような真っ黒のペーストの正体は、黒糖と黒ごまの黒黒コンビ。それ以外は何も入っていない。サトウキビの絞り汁を煮詰めるところから黒砂糖を作っている仲宗根黒糖の看板商品だ。

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 沖縄はサトウキビ栽培が盛ん。かつてはかなりの金額になったので、農家は競って稲作から転換したのだが、経済成長を遂げた今では、事情はすっかり変わってしまった。生鮮食品でもない砂糖で、労賃がべらぼうに安い途上国と張り合うのは確かに相当しんどい。

 しかし、それは普通の白砂糖の原料としての話。ミネラルたっぷりの健康食品である黒砂糖作りはまた別で、こだわりを持った県内各メーカーがアイデアを競っている。

 浦添市の仲宗根黒糖もその一つ。社長の仲宗根聡さんは、東京で不動産会社に勤めていたのをやめて故郷の沖縄に戻ったUターン組だ。あるおじいが、昔のままのやり方で、サトウキビの絞り汁を煮詰めて黒糖を作っているのを見せてもらう機会があった。食べてみると、実においしい。

 「ひと口に黒糖菓子と言っても、いろいろなものがあるでしょう。沖縄の人でも、本当の黒糖の味を知っている人は案外少ないんじゃないでしょうか。私もその一人だったわけです」と仲宗根さん。黒砂糖ってこんなにおいしいものだったのか―。おじいの作る黒糖を、目からウロコの思いで味わった。

 早速このおじいに「入門」し、黒砂糖の作り方を教えてもらった。さらに、仲宗根さんは黒砂糖の味を生かした優れた加工品を作りたいと考え、いろいろな副原料を試した。中でもおいしかったのが、黒ごまと混ぜたもの。ペースト状なので「黒糖黒ごまジャム」と名付けた。

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 この黒糖黒ごまジャムを口に含むと、黒ごまの味と黒砂糖の味の両方を感じることができる。どちらかと言えばトップの香りは黒ごまなので「あー、黒ごまの味だなあ」と思うのだが、その瞬間、しっかりとした黒砂糖の味が押し寄せてきて「うんうん、黒糖の味だ」と納得する。黒ごまの味と思えば確かに黒ごまの味がするし、黒砂糖だと思えば確かに黒砂糖の味がする。どちらも全く譲らない。

 黒ごまには独特の味と香りがあるから、黒ごまのペーストに砂糖を入れるだけでもおいしいが、そこに黒砂糖の個性的な味わいが乗ると、味の奥行きがグーンと増す。

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 パンに塗るのはもちろん、モチにつけたり、ヨーグルトにかけて食べてもおいしい。インゲンのごまよごしなどもこれで作るとコクのあるものができそうだ。

 いかにも体によさそう。黒砂糖にはカリウムが豊富に含まれている。一方、ごまはカルシウムの宝庫。マグネシウムやリンも多い。最近では、セサミノールをはじめとする抗酸化物質が注目を集めている。

 おじい仕込みの自家製黒砂糖と黒ごま以外には何も入っていない。もちろん、増粘剤や保存料といった添加物は一切なしの無添加自然食品。びんのラベルには、サトウキビの絞り汁を釜炊きで煮詰める挿絵が描かれていて、独特の雰囲気を醸し出す。

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 那覇市を走るモノレールの終点、首里駅の前に直営店があって、製品はここで買える。日持ちがするので、おみやげにもいい。那覇市首里汀良町3-20、098-884-3930。仲宗根黒糖のHPからも取り寄せられる。

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2009年07月26日

[第127話 食] おきなの絶品フーチバージューシー

 フーチバーといえばフーチバージューシー。「よもぎの炊き込みごはん」だ。絶品のフーチバージューシーを出す店が那覇にある。

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 店の名は「琉球料理おきな」。牧志公設市場の国際通り側入口の先、アーケードから出て外側を少し歩いた場所。浮島通り側からなら、牧志公設市場向けに左に入ったところ。ふぜいのある木造の建物に、赤いのれんが揺れている。

 毎週水曜日の昼下がり―。常連客が引き戸を開けて「ありますかー」と言いながら入ってくる。店を切り盛りする3人のひとり、翁長千恵子さんが「ありますよ、どうぞー」。もちろん主語はフーチバージューシーだ。

 おきなは毎日営業しているが、フーチバジューシーは水曜日にしか作らない。なにしろ手がかかる。フーチバーの柔らかい葉だけを手でちぎっていく作業。毎日はとてもやっていられない。おきなのフーチバージューシーはフーチバーがたっぷり入るから、なおさらだ。

 フーチバーは、さっとゆがいてから炊き込む。ゆですぎると香りが抜けるし、ゆで足りないと香りが強すぎて、薬臭いような仕上がりになってしまう。その方がおいしいという人もいるが、おきなのフーチバージューシーは抑えめの香りが特徴。

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 炊く際には豚だしとかつおだしで。ジューシーのごはんを噛み締めていると、上品なだしの風味が感じられる。化学調味料だしに慣れた舌には物足りなく感じるかもしれないが、このだしはものすごく透明で控えめ。フーチバーの味やごはんのうまみを下からしっかり支えているのがよく分かる。

 脂加減も絶妙。炊き込む際には豚三枚肉を少量入れて味をのせるから、少し脂気が混ざったごはんになる。この脂が多すぎるとしつこいし、ごはんの粘り気をじゃまする。少なすぎてもおいしくない。

 口に含むと、フーチバーのよい香りがすーっと鼻に抜け、やがて、だしに支えられたごはんのうまみが口いっぱいに広がる。主役のごはんは、米粒が立っていて、弾力とほどよい粘り気が。ごはんの噛みごたえのすばらしさを再認識させられるジューシーだ。

 「これ、おばあが作ったのか、ってよく聞かれます」と千恵子さんが笑う。おばあの手作りと同様に、手をかけてだしをとり、ていねいにていねいに作るからこの味になるのだろう。

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 フーチバージューシーは500円で、小鉢が3つついたフーチバージューシー定食が600円。かかっている手間ヒマを考えたら、涙が出るほど安い。

 かつては壺屋に店があったので、今も壺屋焼きの陶器をたくさん使っている。フーチバージューシーは水曜日にしか作らないが、多めに作るので、運がよければ木曜日にも食べられる。それ以外の沖縄料理メニューも充実。

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 おきなは那覇市松尾2-11-3、098-867-6078。日曜、祝日休。営業は11:00-15:00と18:00-22:00。 

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2009年07月19日

[第126話 沖縄] 滑るように海を駆けるハーリー

 初夏はハーリーの季節。5月から8月にかけて、沖縄各地の漁港で、サバニによる競漕が繰り広げられる。那覇ハーリーや糸満ハーレーが有名だが、地域の小さなハーリー大会も面白い。沖縄本島中部東岸にある浜比嘉島の比嘉ハーリーを見た。第116話で紹介したホテル浜比嘉島リゾートがある集落だ。

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 ハーリーは、サバニと呼ばれるくり舟をチームで漕ぎ、タイムを競う。漕ぎ手10人、舵取りが1人の計11人がサバニに乗り込み、比嘉ハーリーの場合は、折り返しを含む300mのコースを全力で漕ぐ。

 浜比嘉島には浜と比嘉の2つの集落があり、この日は比嘉集落のハーリーだが、一集落の行事とはとても思えない盛況ぶり。出場者、見物客合わせて1000人近い人が集まった。国会議員や市長の姿も。飲み物や食べ物の出店もいろいろあって、にぎやかな夏祭りの趣き。

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 比嘉集落の人口は200人ほど。比嘉区長の平識勇さんは「ハーリーは年々、にぎやかになっていますね」と目を細める。

 出場するのは、比嘉区の住民ばかりではない。むしろ外部チームの方が圧倒的。ことしの出場チームは計45チーム。浜比嘉島を含む地元うるま市内外のJA、郵便局、企業、お店といった職域チームが多いが、中学生だけの舟もあったりする。中には北海道からの参加者を含むチームも。

 対戦はAとBの2つのブロックに分かれる。Aブロックは強豪ぞろい。やはり強いのは、漁協の各支部チームなど。浜比嘉島の近くにある津堅島の津堅支部、海中道路を渡った沖縄本島側の平敷屋支部などのチームが、息の合った力強いかいさばきを見せる。

 ことしのAブロックの優勝は同じ浜比嘉島の浜集落のチーム「はまゆう」、Bブロックの優勝は、同じく浜の高校生チーム「カッチンバーマJr」だった。

 ハーリーは、深くかいを入れて推進力を得る「一人ひとりのこぎ手の力」と、その動きが一糸乱れぬ動きになった時に初めて引き出される「チーム力」とのかけ算で実力が決まる。

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 かいを海の中に深く入れてグイっとかいた時、滑るように舟が加速するのを見るのは最高に気持ちよい。息の合ったチームは、漕ぎ手全員のかいの先の動きがあきれるほどよくそろい、なんとも美しい。

 イベントとしては、30人以上が乗り込んで大型の舟で競漕する那覇ハーリー(5月連休開催)が有名だが、これは例外。10人が全力で漕いで小さなサバニを滑らせていく普通のハーリーは、一人ひとりの動きが舟の動きに直結する面白さがある。

 ハーリーの楽しみは、まずは観戦。見ているだけでも充分楽しめるが、もし見ていて体がうずいてきたら、出場することもできる。

 事実、ハーリー好きで作るチームはあちこちのハーリー大会に出場する。沖縄ハーリーネットワークのHPによると、ことし、同ネットワークが把握しているだけで38ものハーリー大会が予定されている(多くは実施ずみ)。有力なチームは全県的に名が通っていて、例えば比嘉ハーリーで優勝した「はまゆう」も有名チームの一つ。

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 そのハーリー好きが大集合するのが名護ハーリー。これは数あるハーリー大会の一番最後に開かれることもあって、優勝チームに贈られるのは、たんなる名護市長杯ながら(失礼)、事実上「全沖縄の王者を決める大会」になってきた。

 ここは数多くのチームが出場するので男子の部、女子の部に分かれている。男子158組、女子24組の、実に182組ものチームが出場する。

 ことしの名護ハーリーは8月2日、午前8時半スタート。場所は名護市漁港。問合せは名護市観光協会、0980-53-7755まで。

 

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2009年07月12日

[第125話 食] そらまめ麹で作る味くーたー味噌

 沖縄の伝統的な味噌は、米麹または麦麹を大豆と混ぜて仕込んだ米味噌、麦味噌が多いが、今回は、そらまめ麹で作るそらまめ味噌を紹介しよう。読谷村農漁村生活研究会が作って販売している。1kg750円。

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 日本全国の味噌は、麹に何を使うかで米味噌、麦味噌、豆味噌の3つに大別される。米味噌、麦味噌は、蒸した米や麦に麹かびを生えさせて麹を作り、これと主原料の大豆、塩を混ぜて仕込む。

 これに対して、豆味噌の場合は、大豆自体に麹かびを生えさせる。八丁味噌に代表される東海地方の豆味噌は、豆麹と塩水だけで仕込む。いわば「全麹仕込み」であるところが、米味噌や麦味噌と大きく違う。

 製造技術としては、米や麦の麹で作る味噌より、豆だけで作る豆味噌の方が歴史が古いとされる。豆の形がはっきり残っている大徳寺納豆や中国の豆鼓(ドウチ)が豆味噌の源流。

 そらまめ味噌に話を戻せば、そらまめ麹の味噌は、かつては沖縄各地で作られていたらしい。味噌を家庭で作ること自体がほとんどなくなった今、そらまめ麹味噌を作っているのは、おそらく読谷だけだろう。

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 読谷のそらまめ味噌は、麹をそらまめで作り、大豆と塩で仕込む。つまり、麹がタンパク質の多いそらまめで作られる豆麹であるところは豆味噌と同じだが、全麹仕込みではなく、蒸した大豆と塩にそらまめ麹を混ぜて仕込むので、製法としては、米味噌や麦味噌に近い。

 読谷村農漁村生活研究会の与儀常子副会長の話では、仕込みは、そらまめ麹8に麦2、大豆20の比率。そらまめは蒸して種麹菌をまき、麹室に入れる。温かい季節で30時間、寒い時だと40時間ほどでそらまめ麹が出来上がる。真夏はうまくいかないのでやらない、という。写真は麹室。

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 仕込んだ味噌の熟成期間は7カ月から8カ月。もちろんさらに熟成させることもできる。

 できた味噌は、濃い赤みそ色。八丁味噌のように、渋みがあって甘さの少ない味わいだ。うまみはたっぷり。「味くーたー(味がある、味が濃い)よ」と与儀さん。

 塩分より豆のうまみが前面に出ているので、ごはんやキュウリにそのまま乗せて食べるもよし、そのままつまみながら、泡盛をチビリチビリやるもよし。もちろん料理の味付けには最高だ。

 沖縄で伝統的に使われてきた調味料の中では、味噌が最もよく使われていたらしい。農山漁村文化協会が出した都道府県別の伝統食シリーズ「沖縄の食事」には、沖縄各地の伝統食の聞き取りデータがたくさん載っているが、「調味料で一番よく使うのは味噌」という記述があちこちに出てくる。

 例えば、今でも、煮物であるンブシーにはみそ味のものが多い。ナーベラーンブシーは当本店の第123話で紹介したばかり。刺身のみそあえもよく食べられる。

 ところで、なぜ、そらまめで麹を作ったのか。与儀さんは「昔からそらまめで味噌を作ってきたので、理由はよく分かりません。読谷では、そらまめ以外にも、大豆やえんどうなど、たくさんの種類の豆が作れます。土地が豆づくりに向いているんじゃないでしょうか」と話す。

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 名もなき先人のだれかが、土地で豊富に穫れるそらまめでたまたま麹を作ってみたらうまくいった、ということかもしれない。

 そらまめで作る味噌と言えば、中国の激辛味噌、豆板醤(トウバンジャン)がそう。こちらは大豆は使わず、文字通り、そらまめと塩と唐辛子だけで辛い味噌を作る。中国は広いから、ほかにも、そらまめを利用した味噌があるかもしれない。

 読谷のそらまめ味噌は、毎週金曜午後3時から6時に開かれている読谷ゆいゆう市で販売されている。読谷村農漁村生活研究会は、読谷村都屋 167-2、098-956-9074。
 

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