2011年05月
2011年05月29日
外交を外注していた古琉球の王国
沖縄を創る人 第20回
歴史家 上里隆史さん(上)
7月から放映予定のNHK「BS時代劇 テンペスト」で時代考証を担当した歴史家、上里隆史さんに会った。琉球王国は意外な素顔を持っている。上里さんは、そんな王国の姿をさまざまな形で一般に伝えてきた。
上里さんは首里の出身。琉球大で琉球史を学んだ後、琉球を含む東アジアの国際関係史研究をさらに深めるため、東大史料編纂所で研究生として学び、さらに早大で修士号を取得した。現在は沖縄に戻り、琉球史コンサルタントとして活躍している。
歴史家と言えば、大学や研究所に所属している人が多いが、上里さんは違う。在野の歴史家、だ。
「大学に所属すると学内行政などに時間がとられて思うように研究できないことがありますし、どうしても機動力が落ちると思いまして。専門的研究と一般向けの普及活動を自由に行き来したかったので、あえて在野でやっています」
琉球史の専門的知識には、実はさまざまなニーズがある。琉球史に関する講演会や一般向け書籍の執筆に加え、大手旅行代理店の依頼で「テンペスト」ツアーの監修やガイドの育成研修をするといった仕事も入ってくる。
その上里さんが語る琉球王国像はエピソードに満ちていて、分かりやすく、興味深い。今回と次回で、その一端を紹介したい。
琉球王国は、アジア貿易で経済を繁栄させた。しかし、そのありようは時代によって違っていた。1300年代から1500年代の古琉球の時代と、日本の江戸時代にあたる1600年代以降の近世琉球の2つに大きく分けられる。今回は古琉球の話を。
「古琉球の時代の琉球王国は、琉球に来ている外国人に外交をアウトソーシング(外注)していました」
上里さんがいきなりパンチを繰り出した。外交の外注!
上里さんによると、テンペストの舞台になった江戸時代の琉球王国には官僚養成システムがあったが、古琉球の時代は、公的教育機関で自前の人材育成を行うのではなく、那覇にいた外国出身者の力をそのまま活用していた。
例えば、朝鮮と交渉するのに、対馬や博多出身で日本と朝鮮を行き来する那覇在の貿易商人を使い、公式の琉球代表として朝鮮に派遣した。商人にとっても、琉球の代表使節という肩書きによって自らの貿易を拡大できるメリットがあった。
中国との外交は、那覇の久米村にいた中国出身者を使った。東南アジアでは中国語が通じたから、そちらとのやりとりも久米村人材が担った。室町幕府とは、日本出身者が交渉した。例えば、日中琉をまたぐ禅宗の国際ネットワーク下で、首里の円覚寺の住職をしていた京都・南禅寺出身の僧侶が、琉球の公式の代表として室町幕府と交渉したりしていた。
なんという国際的なダイナミズム。そこには、琉球人より京都出身者の方が先方の事情や慣習に詳しいから、という合理主義があり、同時に、そういう人材ならば相手の弱点もよく知っている、という計算もあったはずと上里さんはみる。
「こういうやり方は琉球王国だけではないんです。交易によって成り立っていた国は、みなその傾向がありました。例えば、マラッカ王国でも貿易長官は外国人だったりしたんです。当時の交易国家には、現在の国民国家のような意識はあまりなかったと思います」
沖縄は珊瑚礁の島なので、船が入れるのは、当時は那覇港と北部の運天港に限られていた。特に那覇は、琉球で唯一都市の姿をしており、経済、政治、文化のすべてが集中していた。1300年代後半から日本と中国の往復は琉球を中継地にするルートが一般的になったこともあり、那覇は各国の商人、日本の僧侶や医師などが行き交う国際都市になっていた。
商人はもちろん貿易のために来琉した。日本の医師は、当時の先端技術だった中国の医療を学びに来た。僧侶は基本的には布教のために沖縄に来るのだが、当時、数少ない知識人でもあった僧侶を琉球王府は最大限に活用した。例えば、漢文を自由に読み書きできた彼らに、数多くの石碑の碑文を書かせたりした。そんな石碑は今も首里界隈にたくさん残されている。
逆に那覇港から、そのルートに乗って、数多くの琉球人が日本に渡った。例えば、京都の大徳寺には、1500年代に琉球の禅宗の信者などがたくさんやってきた、との記録がある。日本とのつながりは強かった。
「薩摩の侵攻を受けた後の江戸時代の近世琉球より、それ以前の古琉球の方がかえってヤマトっぽかったんじゃないかと思います」
ヤマトっぽいではあっても、あくまで琉球流。例えば、日本では、日本産のひらがなを公的な文書に使うことはなかったが、琉球はこれを使った。同時に、日本式の花押ではなく、中国式で捺印。年号も中国式だった。
あるいは、王府がとりおこなった正月の儀式では、中国風の衣服を着つつ、儀式の内容は陰陽道に由来する日本風のものだったりした。ヤマトのものをたくさん取り入れてはいたが、それらは琉球独自にアレンジされたものだった。
江戸時代になると、事情は一変する。その話は次回に。
歴史家 上里隆史さん(上)
7月から放映予定のNHK「BS時代劇 テンペスト」で時代考証を担当した歴史家、上里隆史さんに会った。琉球王国は意外な素顔を持っている。上里さんは、そんな王国の姿をさまざまな形で一般に伝えてきた。
上里さんは首里の出身。琉球大で琉球史を学んだ後、琉球を含む東アジアの国際関係史研究をさらに深めるため、東大史料編纂所で研究生として学び、さらに早大で修士号を取得した。現在は沖縄に戻り、琉球史コンサルタントとして活躍している。
歴史家と言えば、大学や研究所に所属している人が多いが、上里さんは違う。在野の歴史家、だ。
「大学に所属すると学内行政などに時間がとられて思うように研究できないことがありますし、どうしても機動力が落ちると思いまして。専門的研究と一般向けの普及活動を自由に行き来したかったので、あえて在野でやっています」
琉球史の専門的知識には、実はさまざまなニーズがある。琉球史に関する講演会や一般向け書籍の執筆に加え、大手旅行代理店の依頼で「テンペスト」ツアーの監修やガイドの育成研修をするといった仕事も入ってくる。
その上里さんが語る琉球王国像はエピソードに満ちていて、分かりやすく、興味深い。今回と次回で、その一端を紹介したい。
琉球王国は、アジア貿易で経済を繁栄させた。しかし、そのありようは時代によって違っていた。1300年代から1500年代の古琉球の時代と、日本の江戸時代にあたる1600年代以降の近世琉球の2つに大きく分けられる。今回は古琉球の話を。
「古琉球の時代の琉球王国は、琉球に来ている外国人に外交をアウトソーシング(外注)していました」
上里さんがいきなりパンチを繰り出した。外交の外注!
上里さんによると、テンペストの舞台になった江戸時代の琉球王国には官僚養成システムがあったが、古琉球の時代は、公的教育機関で自前の人材育成を行うのではなく、那覇にいた外国出身者の力をそのまま活用していた。
例えば、朝鮮と交渉するのに、対馬や博多出身で日本と朝鮮を行き来する那覇在の貿易商人を使い、公式の琉球代表として朝鮮に派遣した。商人にとっても、琉球の代表使節という肩書きによって自らの貿易を拡大できるメリットがあった。
中国との外交は、那覇の久米村にいた中国出身者を使った。東南アジアでは中国語が通じたから、そちらとのやりとりも久米村人材が担った。室町幕府とは、日本出身者が交渉した。例えば、日中琉をまたぐ禅宗の国際ネットワーク下で、首里の円覚寺の住職をしていた京都・南禅寺出身の僧侶が、琉球の公式の代表として室町幕府と交渉したりしていた。
なんという国際的なダイナミズム。そこには、琉球人より京都出身者の方が先方の事情や慣習に詳しいから、という合理主義があり、同時に、そういう人材ならば相手の弱点もよく知っている、という計算もあったはずと上里さんはみる。
「こういうやり方は琉球王国だけではないんです。交易によって成り立っていた国は、みなその傾向がありました。例えば、マラッカ王国でも貿易長官は外国人だったりしたんです。当時の交易国家には、現在の国民国家のような意識はあまりなかったと思います」
沖縄は珊瑚礁の島なので、船が入れるのは、当時は那覇港と北部の運天港に限られていた。特に那覇は、琉球で唯一都市の姿をしており、経済、政治、文化のすべてが集中していた。1300年代後半から日本と中国の往復は琉球を中継地にするルートが一般的になったこともあり、那覇は各国の商人、日本の僧侶や医師などが行き交う国際都市になっていた。
商人はもちろん貿易のために来琉した。日本の医師は、当時の先端技術だった中国の医療を学びに来た。僧侶は基本的には布教のために沖縄に来るのだが、当時、数少ない知識人でもあった僧侶を琉球王府は最大限に活用した。例えば、漢文を自由に読み書きできた彼らに、数多くの石碑の碑文を書かせたりした。そんな石碑は今も首里界隈にたくさん残されている。
逆に那覇港から、そのルートに乗って、数多くの琉球人が日本に渡った。例えば、京都の大徳寺には、1500年代に琉球の禅宗の信者などがたくさんやってきた、との記録がある。日本とのつながりは強かった。
「薩摩の侵攻を受けた後の江戸時代の近世琉球より、それ以前の古琉球の方がかえってヤマトっぽかったんじゃないかと思います」
ヤマトっぽいではあっても、あくまで琉球流。例えば、日本では、日本産のひらがなを公的な文書に使うことはなかったが、琉球はこれを使った。同時に、日本式の花押ではなく、中国式で捺印。年号も中国式だった。
あるいは、王府がとりおこなった正月の儀式では、中国風の衣服を着つつ、儀式の内容は陰陽道に由来する日本風のものだったりした。ヤマトのものをたくさん取り入れてはいたが、それらは琉球独自にアレンジされたものだった。
江戸時代になると、事情は一変する。その話は次回に。
2011年05月22日
沖縄を先端医療特区に
沖縄を創る人 第19回
浦添総合病院循環器内科医長 宮城直人さん(下)
循環器専門医の宮城直人さんは、1年ほど前、強烈な体験をした。欧米で既に安全性や有効性が立証されたある心疾患治療器具をヨーロッパ心臓病学会の発表などで知った。早速、開発元の米国企業のCEOにメールを書いて問い合わせたら、こんな問いが返ってきた。
「あなたの病院はフェンスの内か外か」
沖縄には「フェンスの内側」、つまり米軍基地内に、在沖米海軍病院がある。CEOいわく、そこでならば米食品衛生局に認可されたこの器具を使うことは問題ないが、フェンスの外側、つまり日本の厚生労働省の管轄区域では無理、と。
米海軍病院の医療設備や治療能力は決して高いものとはいえず、実際、海軍病院から宮城さんの病院に搬送されてくる患者も少なくない。そんな海軍病院でしか最新器具を使えないという理不尽さ。
そこに、日頃向き合っている循環器疾患の遠因を作った米軍支配の時代が、どうしてもオーバ―ラップする。あの時代さえなければ、県民の食生活が今のように油脂類を大量に摂取することにはなっていなかったのではないか。
そんな理不尽さに打ちのめされながら、宮城さんの頭に「先端医療特区」というアイデアが浮かんできた。フェンスの向こうとこちら、とはまさに一国二制度。ならば、それを逆手にとって、沖縄を先端医療特区とし、時間がかかる厚生労働省の認可を待たずに新薬や最新医療器具を使える一国二制度を実現したらどうか。
これが実現すれば、ドラッグラグ、デバイスラグから解放されるだけではない。同じラグに悩む本土の医療機関からも「学び」のために専門医が集まってくる。そして、そのような治療の1日も早い認可を心から待ち望んでいる患者たちも、全国からやってくるはずだ。沖縄の病院なら使ってくれるとなれば、世界の製薬会社や医療器具メーカーも最新情報を携えて沖縄を訪れることだろう。
「今でも医学部卒業後の研修医の研修場所として、沖縄は全国で5本の指に入るほど高い人気があります。その理由の一つは症例が豊富だから。ところが、せっかく沖縄で研修しても、その後に定着しない。やはりラグの大きさが最大の理由でしょう」
医療特区は、先端医療そのものを沖縄にもたらすだけでなく、さまざまな人と情報の動きを作り出し、沖縄の経済振興に確実に結びつく。
政府は「一国二制度」になることを理由として、さまざまな特区構想について、限定的なものしか認めようとしない傾向がある。しかし「フェンスの向こうとこちら」という明らかな一国二制度が沖縄には既に存在している。基地負担では一国二制度が現にあるのだから、メリットをもたらす一国二制度も政府は認めるべきではないかー。宮城さんはそう考える。
ものごとにはステップがあるから、一気に沖縄全域を医療特区にするのは難しいかもしれない。米海軍病院との提携から始めてもよい。海軍病院でなら最新器具や治療薬が既に使えるのだから、そこと全面的に提携して「フェンスの外の医師」が海軍病院に勤務して「フェンスの外の患者」を治療できるようにする。よい成果が出てきたら、その範囲やステージを「フェンスの外側」に拡大していく。
保険制度が適用されなければ特区を設ける意味は半減するから、この点は最初から必須だ。ただし、日本の厚生労働省未認可である以上、治療の結果については原則として患者の自己責任とする。マイナスの結果が生じても、日本政府が責任を問われることはない。
「それでも最新治療を受けたいと考える患者さんは、県内外を問わず、たくさんいるはずです」
沖縄県民は、日常的にフェンスと向き合って半世紀以上生活してきた。そんなフェンスを逆利用して、開かれた世界への扉に変えることができたらー。宮城さんは先端医療特区構想を県知事にぜひ伝えたいと思っている。
[宮城直人さんとつながる] 宮城さんが勤務する浦添総合病院のホームページに、循環器センターのページがある。狭心症、心筋梗塞などの症状や、検査方法、治療方法の解説が詳しい。
浦添総合病院循環器内科医長 宮城直人さん(下)
循環器専門医の宮城直人さんは、1年ほど前、強烈な体験をした。欧米で既に安全性や有効性が立証されたある心疾患治療器具をヨーロッパ心臓病学会の発表などで知った。早速、開発元の米国企業のCEOにメールを書いて問い合わせたら、こんな問いが返ってきた。
「あなたの病院はフェンスの内か外か」
沖縄には「フェンスの内側」、つまり米軍基地内に、在沖米海軍病院がある。CEOいわく、そこでならば米食品衛生局に認可されたこの器具を使うことは問題ないが、フェンスの外側、つまり日本の厚生労働省の管轄区域では無理、と。
米海軍病院の医療設備や治療能力は決して高いものとはいえず、実際、海軍病院から宮城さんの病院に搬送されてくる患者も少なくない。そんな海軍病院でしか最新器具を使えないという理不尽さ。
そこに、日頃向き合っている循環器疾患の遠因を作った米軍支配の時代が、どうしてもオーバ―ラップする。あの時代さえなければ、県民の食生活が今のように油脂類を大量に摂取することにはなっていなかったのではないか。
そんな理不尽さに打ちのめされながら、宮城さんの頭に「先端医療特区」というアイデアが浮かんできた。フェンスの向こうとこちら、とはまさに一国二制度。ならば、それを逆手にとって、沖縄を先端医療特区とし、時間がかかる厚生労働省の認可を待たずに新薬や最新医療器具を使える一国二制度を実現したらどうか。
これが実現すれば、ドラッグラグ、デバイスラグから解放されるだけではない。同じラグに悩む本土の医療機関からも「学び」のために専門医が集まってくる。そして、そのような治療の1日も早い認可を心から待ち望んでいる患者たちも、全国からやってくるはずだ。沖縄の病院なら使ってくれるとなれば、世界の製薬会社や医療器具メーカーも最新情報を携えて沖縄を訪れることだろう。
「今でも医学部卒業後の研修医の研修場所として、沖縄は全国で5本の指に入るほど高い人気があります。その理由の一つは症例が豊富だから。ところが、せっかく沖縄で研修しても、その後に定着しない。やはりラグの大きさが最大の理由でしょう」
医療特区は、先端医療そのものを沖縄にもたらすだけでなく、さまざまな人と情報の動きを作り出し、沖縄の経済振興に確実に結びつく。
政府は「一国二制度」になることを理由として、さまざまな特区構想について、限定的なものしか認めようとしない傾向がある。しかし「フェンスの向こうとこちら」という明らかな一国二制度が沖縄には既に存在している。基地負担では一国二制度が現にあるのだから、メリットをもたらす一国二制度も政府は認めるべきではないかー。宮城さんはそう考える。
ものごとにはステップがあるから、一気に沖縄全域を医療特区にするのは難しいかもしれない。米海軍病院との提携から始めてもよい。海軍病院でなら最新器具や治療薬が既に使えるのだから、そこと全面的に提携して「フェンスの外の医師」が海軍病院に勤務して「フェンスの外の患者」を治療できるようにする。よい成果が出てきたら、その範囲やステージを「フェンスの外側」に拡大していく。
保険制度が適用されなければ特区を設ける意味は半減するから、この点は最初から必須だ。ただし、日本の厚生労働省未認可である以上、治療の結果については原則として患者の自己責任とする。マイナスの結果が生じても、日本政府が責任を問われることはない。
「それでも最新治療を受けたいと考える患者さんは、県内外を問わず、たくさんいるはずです」
沖縄県民は、日常的にフェンスと向き合って半世紀以上生活してきた。そんなフェンスを逆利用して、開かれた世界への扉に変えることができたらー。宮城さんは先端医療特区構想を県知事にぜひ伝えたいと思っている。
[宮城直人さんとつながる] 宮城さんが勤務する浦添総合病院のホームページに、循環器センターのページがある。狭心症、心筋梗塞などの症状や、検査方法、治療方法の解説が詳しい。
2011年05月15日
予防で負け、ラグも大きい
沖縄を創る人第18回
浦添総合病院循環器内科医長 宮城直人さん(上)
健康長寿の沖縄といわれるが、その実態は厳しいものになりつつある。心筋梗塞や狭心症と毎日向き合っている浦添総合病院循環器内科医長の宮城直人さんに話を聞いた。
宮城さんは沖縄出身、琉球大医学部卒ながら、本土各地での勤務が長かった。熊本、福岡、横浜で10年余り、循環器専門医として治療経験を積み、新設の循環器センター立ち上げに伴う人材育成などもこなしてきた。
沖縄に戻ってからはまだ2年ほど。しかし、だからこそ、沖縄の置かれている状態がはっきりと認識されるのかもしれない。
「全国平均は0.5くらいのはずですが、それが沖縄は0.2ー0.3くらいしかないんですよ」
この数字、「EPA/AA比」と呼ばれる値。EPAはエイコサペンタエン酸で、魚類、海藻類などに多く含まれるn-3系不飽和脂肪酸。血栓ができるのを防ぐ作用がある。これに対して、AAはアラキドン酸で、過剰摂取は動脈硬化を促進すると考えられている。簡単に言えば、EPA/AA比の数字が低ければ動脈硬化になりやすい、ということだ。宮城さんによると、沖縄のこの値はだいぶ低い。
九州や神奈川の病院で数多くの心筋梗塞や狭心症の症例を診てきた宮城さんは、10年ぶりに沖縄に戻って、コトの深刻さを突きつけられた。
EPA/AA比だけではない。OCTという高い画像分解能を持つ機械で血管の断面をじっくり分析してみると、病変が既に起きていて血管が狭くなっている部分でなくても、一見健康な血管の中に、数年後に問題を起こすことが明らかな細胞がみられる患者がかなりいるという。
「動脈硬化の予備軍がたくさんいるということです」
なぜ、そんなことになっているのだろうか。宮城さんが言う。
「米軍支配時代の影響で、欧米化した油の多い食生活を本土よりも早く始めたことが大きな要因ではないでしょうか」
確かに、沖縄の伝統料理は、例えば豚肉を使うにしても、脂分をゆでこぼすといった下処理がきちんとなされる。中身汁のように、本来脂の多い臓物を脂分ゼロに近いところまで洗うような技法もあるほど。それに、伝統的な日常食は野菜中心で、今のように毎日肉をたくさん食べていたわけではない。
アメリカンのファーストフードは、揚げ物類が多く、サラダなども油類をたっぷり含んだドレッシングでこってり味付けされている。そうした影響で、県民の日常食にも油脂類の多いメニューが多くなったのではないか、というわけだ。
発症した患者が救急車で運び込まれてくれば、医師は全力で救命のために治療する。宮城さんも20代の頃は、本土の各病院で、そのような治療で何人もの命を救い、やりがいを感じていた。だが、沖縄に戻った今は、考え方が少し変わった。
「もちろん、患者さんを治療することが医師の仕事なんですが、沖縄の実情は非常に厳しい。予防の段階で完全に負けてるんです」
モグラたたきのように、ひとつをつぶしても、別のモグラが次々に飛び出してくるような状態。予防の重要性は痛感するが、医師としてできることには限界もあるという。
今ひとつ、宮城さんがいらだちを覚えるのは、ドラッグラグ、デバイスラグの大きさだ。最新治療薬や最新機器の活用がなかなかできない。これは二重構造になっている。まず、厚生労働省の認可が下りるのに長い時間がかかること。
「これが世界で130国目に認可された医療器具です、というような話はよくあります。この薬が最後に許可されたのは日本と北朝鮮、という笑えないような話も」
ラグの2つ目は、沖縄の置かれた位置が、最新の薬や器具が広まっていく経路から遠いこと。首都圏や本土の地方大都市では比較的早く新しい薬や器具が使えるようになるが、その波が沖縄に届くまでにまた時間がかかる。横浜や福岡のような大都市で長く勤務してきた宮城さんには、こうした「ラグ」の大きさがひしひしと感じられる。
こういう事態をなんとかできないものかー。中核病院の循環器センターで激務をこなしながら、宮城さんは、ある体験をきっかけに一つの構想を温め始めた。「先端医療特区構想」がそれ。詳しくは次回5/22(日)に。
浦添総合病院循環器内科医長 宮城直人さん(上)
健康長寿の沖縄といわれるが、その実態は厳しいものになりつつある。心筋梗塞や狭心症と毎日向き合っている浦添総合病院循環器内科医長の宮城直人さんに話を聞いた。
宮城さんは沖縄出身、琉球大医学部卒ながら、本土各地での勤務が長かった。熊本、福岡、横浜で10年余り、循環器専門医として治療経験を積み、新設の循環器センター立ち上げに伴う人材育成などもこなしてきた。
沖縄に戻ってからはまだ2年ほど。しかし、だからこそ、沖縄の置かれている状態がはっきりと認識されるのかもしれない。
「全国平均は0.5くらいのはずですが、それが沖縄は0.2ー0.3くらいしかないんですよ」
この数字、「EPA/AA比」と呼ばれる値。EPAはエイコサペンタエン酸で、魚類、海藻類などに多く含まれるn-3系不飽和脂肪酸。血栓ができるのを防ぐ作用がある。これに対して、AAはアラキドン酸で、過剰摂取は動脈硬化を促進すると考えられている。簡単に言えば、EPA/AA比の数字が低ければ動脈硬化になりやすい、ということだ。宮城さんによると、沖縄のこの値はだいぶ低い。
九州や神奈川の病院で数多くの心筋梗塞や狭心症の症例を診てきた宮城さんは、10年ぶりに沖縄に戻って、コトの深刻さを突きつけられた。
EPA/AA比だけではない。OCTという高い画像分解能を持つ機械で血管の断面をじっくり分析してみると、病変が既に起きていて血管が狭くなっている部分でなくても、一見健康な血管の中に、数年後に問題を起こすことが明らかな細胞がみられる患者がかなりいるという。
「動脈硬化の予備軍がたくさんいるということです」
なぜ、そんなことになっているのだろうか。宮城さんが言う。
「米軍支配時代の影響で、欧米化した油の多い食生活を本土よりも早く始めたことが大きな要因ではないでしょうか」
確かに、沖縄の伝統料理は、例えば豚肉を使うにしても、脂分をゆでこぼすといった下処理がきちんとなされる。中身汁のように、本来脂の多い臓物を脂分ゼロに近いところまで洗うような技法もあるほど。それに、伝統的な日常食は野菜中心で、今のように毎日肉をたくさん食べていたわけではない。
アメリカンのファーストフードは、揚げ物類が多く、サラダなども油類をたっぷり含んだドレッシングでこってり味付けされている。そうした影響で、県民の日常食にも油脂類の多いメニューが多くなったのではないか、というわけだ。
発症した患者が救急車で運び込まれてくれば、医師は全力で救命のために治療する。宮城さんも20代の頃は、本土の各病院で、そのような治療で何人もの命を救い、やりがいを感じていた。だが、沖縄に戻った今は、考え方が少し変わった。
「もちろん、患者さんを治療することが医師の仕事なんですが、沖縄の実情は非常に厳しい。予防の段階で完全に負けてるんです」
モグラたたきのように、ひとつをつぶしても、別のモグラが次々に飛び出してくるような状態。予防の重要性は痛感するが、医師としてできることには限界もあるという。
今ひとつ、宮城さんがいらだちを覚えるのは、ドラッグラグ、デバイスラグの大きさだ。最新治療薬や最新機器の活用がなかなかできない。これは二重構造になっている。まず、厚生労働省の認可が下りるのに長い時間がかかること。
「これが世界で130国目に認可された医療器具です、というような話はよくあります。この薬が最後に許可されたのは日本と北朝鮮、という笑えないような話も」
ラグの2つ目は、沖縄の置かれた位置が、最新の薬や器具が広まっていく経路から遠いこと。首都圏や本土の地方大都市では比較的早く新しい薬や器具が使えるようになるが、その波が沖縄に届くまでにまた時間がかかる。横浜や福岡のような大都市で長く勤務してきた宮城さんには、こうした「ラグ」の大きさがひしひしと感じられる。
こういう事態をなんとかできないものかー。中核病院の循環器センターで激務をこなしながら、宮城さんは、ある体験をきっかけに一つの構想を温め始めた。「先端医療特区構想」がそれ。詳しくは次回5/22(日)に。
2011年05月08日
南が上の「アジアが見える地図」近日発売
[お知らせ シリーズ「沖縄を創る人」の更新をさらに1週間延期し、今回は、万鐘オリジナルの南北逆さ地図「アジアの世紀」を紹介します]
理由はよく分からないが、人の目の動きは、上から下に向かうよりも下から上に向かう方が自然、ということなのかもしれない。
写真は、アジアを南北逆さにした万鐘オリジナル地図「アジアの世紀」。見慣れた地図と上下が反対なので最初は戸惑うが、しばらく我慢してながめていると、普通の地図を見る時とは全く違う感覚が得られる。アジア各国がくっきりと存在感を示し、なんとも身近に感じられるのだ。
北が上のアジア地図だと、中国南部から東南アジアにかけての一帯は、視野の左下の方に来る。下の方には細かい神経が届かないからなのか、「いくつかの国がごちゃごちゃある」というイメージになりがち。だから、現地に行ったことのある人を別にすれば、アジア各国の位置や都市名について、案外知らない人が多いのではないだろうか。
南北をひょいと逆さにして、南を上にもってくるだけなのだが、これだけでまるで違うアジア像が浮かび上がるから不思議。最初は見慣れないため違和感が強いが、しばらく見ていると、アジア諸国や各都市が、ひとつひとつ目に入ってくる。
シンガポールって、思ってたより遠い。これがマラッカ海峡か。ミャンマーが意外に大きい。四川省はだいぶ内陸。バングラデシュより東にもインド領があったとは。お茶のアッサムがそこにあるぞー。
次々に発見がある。「アジアが見える」感があって、たまらない。
考えてみれば、地球は丸く、人がその表面を移動する時には「上」も「下」もない。南北逆さ地図で、例えば、琉球王国時代の貿易船の進路をイメージしてみれば、それが実感できる。下の拡大図を下からスクロールしながら、次のルートをたどってみてほしい。
沖縄から出発し、弧を描くようにして台湾の南を経て、中国福建省にたどりつく。さらに大陸の海岸線に沿って南シナ海をベトナム方面に向けて航行する。
その先でタイに行くこともできるし、マレー半島からスマトラ、ジャワを目指すこともできる。
この南進ルート、北が上の地図よりも、逆さ地図の方がずっとラクにたどれる。まるで船に乗って進んでいるような感覚ー。
万鐘本店はかつて、グーグルアースを使って、南北逆さ地図を実験したことがある。その時、多くの読者から「そういう地図はないですか」という問い合わせをいただいた。あれから5年余り。ようやく、オリジナルの南北逆さ地図が完成の運びになった。
全体像は最初の写真の通り。左下に日本本土、その上部に沖縄、その右上方に中国大陸と南シナ海、東南アジア各国が広がる。さらにその右側にはバングラデシュ、インドの半分くらいとスリランカまでが入っている。
アジアは、多くの人口が集中し、高い経済成長を続ける、21世紀の地球の中心舞台。アジアの東端に位置する日本にとって最も重要な地域であることは言うまでもない。アジアへのゲートウェイに位置するわが沖縄にしてみれば、なおさら。
南北逆さ地図「アジアの世紀」は、各国とも国境線と主要都市が入っている。高低差や河川、道路は含まれていない。都市は、人口規模を基本にした。50万人以上の都市の多くが含まれ、30万程度の都市も一部入っている。ただし、クアラルンプールやジャカルタ、東京など、一部の大都市圏は、至近距離に複数の大都市がひしめいているため、周辺都市名の一部はスペースの関係で割愛せざるをえなかった。中国とインドは広大で、都市だけでは位置がよく分からないため、省や州の境界と省州名も入れた。
サイズはB2変形判。発売開始は5月下旬の予定。販売は、この万鐘本店ではなく、物販専門の万鐘YH店になります。発売開始はこの本店でも左側の欄でお知らせします。どうぞお楽しみに。
理由はよく分からないが、人の目の動きは、上から下に向かうよりも下から上に向かう方が自然、ということなのかもしれない。
写真は、アジアを南北逆さにした万鐘オリジナル地図「アジアの世紀」。見慣れた地図と上下が反対なので最初は戸惑うが、しばらく我慢してながめていると、普通の地図を見る時とは全く違う感覚が得られる。アジア各国がくっきりと存在感を示し、なんとも身近に感じられるのだ。
北が上のアジア地図だと、中国南部から東南アジアにかけての一帯は、視野の左下の方に来る。下の方には細かい神経が届かないからなのか、「いくつかの国がごちゃごちゃある」というイメージになりがち。だから、現地に行ったことのある人を別にすれば、アジア各国の位置や都市名について、案外知らない人が多いのではないだろうか。
南北をひょいと逆さにして、南を上にもってくるだけなのだが、これだけでまるで違うアジア像が浮かび上がるから不思議。最初は見慣れないため違和感が強いが、しばらく見ていると、アジア諸国や各都市が、ひとつひとつ目に入ってくる。
シンガポールって、思ってたより遠い。これがマラッカ海峡か。ミャンマーが意外に大きい。四川省はだいぶ内陸。バングラデシュより東にもインド領があったとは。お茶のアッサムがそこにあるぞー。
次々に発見がある。「アジアが見える」感があって、たまらない。
考えてみれば、地球は丸く、人がその表面を移動する時には「上」も「下」もない。南北逆さ地図で、例えば、琉球王国時代の貿易船の進路をイメージしてみれば、それが実感できる。下の拡大図を下からスクロールしながら、次のルートをたどってみてほしい。
沖縄から出発し、弧を描くようにして台湾の南を経て、中国福建省にたどりつく。さらに大陸の海岸線に沿って南シナ海をベトナム方面に向けて航行する。
その先でタイに行くこともできるし、マレー半島からスマトラ、ジャワを目指すこともできる。
この南進ルート、北が上の地図よりも、逆さ地図の方がずっとラクにたどれる。まるで船に乗って進んでいるような感覚ー。
万鐘本店はかつて、グーグルアースを使って、南北逆さ地図を実験したことがある。その時、多くの読者から「そういう地図はないですか」という問い合わせをいただいた。あれから5年余り。ようやく、オリジナルの南北逆さ地図が完成の運びになった。
全体像は最初の写真の通り。左下に日本本土、その上部に沖縄、その右上方に中国大陸と南シナ海、東南アジア各国が広がる。さらにその右側にはバングラデシュ、インドの半分くらいとスリランカまでが入っている。
アジアは、多くの人口が集中し、高い経済成長を続ける、21世紀の地球の中心舞台。アジアの東端に位置する日本にとって最も重要な地域であることは言うまでもない。アジアへのゲートウェイに位置するわが沖縄にしてみれば、なおさら。
南北逆さ地図「アジアの世紀」は、各国とも国境線と主要都市が入っている。高低差や河川、道路は含まれていない。都市は、人口規模を基本にした。50万人以上の都市の多くが含まれ、30万程度の都市も一部入っている。ただし、クアラルンプールやジャカルタ、東京など、一部の大都市圏は、至近距離に複数の大都市がひしめいているため、周辺都市名の一部はスペースの関係で割愛せざるをえなかった。中国とインドは広大で、都市だけでは位置がよく分からないため、省や州の境界と省州名も入れた。
サイズはB2変形判。発売開始は5月下旬の予定。販売は、この万鐘本店ではなく、物販専門の万鐘YH店になります。発売開始はこの本店でも左側の欄でお知らせします。どうぞお楽しみに。