2011年06月
2011年06月26日
畑からの情報が早いことが生命線
沖縄を創る人 第24回
沖縄百姓の会代表 上地聴さん(上)
農業はハイリスク、ローリターン。だから、企業は参入に二の足を踏むし、参入してもいつの間にか撤退していく例が多い。そんな中で八重瀬町、糸満市など主に南部の農家が集まる「沖縄百姓の会」は年商6億を着実に売り上げる。百姓の会を率いる上地聴さんに会った。
上地さんはJAに勤務した後、独立。自分で野菜を生産しながら仲間を増やし、生産物の販路を徐々に拡げていった。百姓の会は、トマト、キュウリ、レタス、エダマメと、売れるものはなんでも作る。
農業は、天候に左右されるし、病虫害にもやられやすい。市場価格は乱高下するから、安定した利益を上げるのは簡単ではない。百姓の会では、農家が売りたい価格を決め、それをベースに、会が販売先と交渉するのが基本。
「席を空けて待っていてもらうわけです」と上地さん。
農家は売上の見通しが立つ。相手も仕入れの計画ができる。一時的に相場が上がったからといって、約束を守らず、横流しするような会員農家には厳しい姿勢でのぞむ。そこをなあなあにしたら信頼は決して得られない、上地さんはそう考えている。
では、一般の農産物流通業者と百姓の会とはどこが違うのか。
「例えば、買い手の卸業者から、こういう野菜がもう少し欲しいんだけど、という急な話が入ったとします」
スーパーなどでの農産物の販売は、計画通りにいかないことが多い。販売量が見込みを大幅に上回ることもある。「○○が欲しいけど、ないか」という急な話は日常茶飯事だ。
そんな時、卸業者の多くは青果市場を探す。そこにたまたま欲しいものがあればいいが、求める品質のものがいつもあるとは限らない。
直接の農家ネットワークを持っている卸業者の場合は、市場頼みの業者よりも、生産現場の近くにいることは確か。だが、彼らが畑の状態を把握するのはそう簡単ではない。1週間前には何ともないと思っていた野菜畑であれよあれよという間に病気が広がるというようなことはよく起きる。1、2度の気温差が実りの時期を早めたり遅くしたりすることも。
時々刻々変化するのが畑というもの。そもそも卸業者は生産技術のことはよく分かっていないから、こういう気象条件なら何が起きるか、といったテクニカルな予測を立てることはできない。
「百姓の会は、メンバーが百姓です。メンバーの畑で何が起きているか、最新情報を逐一把握しています。お客さんから急な話が入っても、それに応えられるのは、どこのだれの畑か、すぐ分かります」
あるのか、ないのか。あるなら、何がどれくらい手に入るのか。こうした情報こそが、商取引をするうえで信頼を勝ち取る基本になる。買い手の卸業者も、数多くの小売店のニーズに応えて初めて信頼を得られる立場にあるから、信頼に足る早い情報はノドから手が出るほどほしい。
百姓の会は「畑からの情報が早い」(上地さん)。当事者にしか分からない最新の現場情報が、百姓の会の最大の強みだ。「農家が生き残れるとしたら、この部分しかないと思います」とまで上地さんは言う。
顧客とのそういう関係を続けているから、会員農家も買い手のことを常に考えるようになる。お客さんが欲しがる農産物、つまり「売れる農産物」を作ることに全力を傾注する結果になる。
農産物だから、出来すぎ、穫れすぎ、もある。
「ふだん相手の期待に応えようと努力しているから、こっちが困っている時は、お願いできないか、と言えるわけです」
もちろん押し売りではない。あくまで、買い手のニーズに応える形で、だ。続きは7/3(日)に。
沖縄百姓の会代表 上地聴さん(上)
農業はハイリスク、ローリターン。だから、企業は参入に二の足を踏むし、参入してもいつの間にか撤退していく例が多い。そんな中で八重瀬町、糸満市など主に南部の農家が集まる「沖縄百姓の会」は年商6億を着実に売り上げる。百姓の会を率いる上地聴さんに会った。
上地さんはJAに勤務した後、独立。自分で野菜を生産しながら仲間を増やし、生産物の販路を徐々に拡げていった。百姓の会は、トマト、キュウリ、レタス、エダマメと、売れるものはなんでも作る。
農業は、天候に左右されるし、病虫害にもやられやすい。市場価格は乱高下するから、安定した利益を上げるのは簡単ではない。百姓の会では、農家が売りたい価格を決め、それをベースに、会が販売先と交渉するのが基本。
「席を空けて待っていてもらうわけです」と上地さん。
農家は売上の見通しが立つ。相手も仕入れの計画ができる。一時的に相場が上がったからといって、約束を守らず、横流しするような会員農家には厳しい姿勢でのぞむ。そこをなあなあにしたら信頼は決して得られない、上地さんはそう考えている。
では、一般の農産物流通業者と百姓の会とはどこが違うのか。
「例えば、買い手の卸業者から、こういう野菜がもう少し欲しいんだけど、という急な話が入ったとします」
スーパーなどでの農産物の販売は、計画通りにいかないことが多い。販売量が見込みを大幅に上回ることもある。「○○が欲しいけど、ないか」という急な話は日常茶飯事だ。
そんな時、卸業者の多くは青果市場を探す。そこにたまたま欲しいものがあればいいが、求める品質のものがいつもあるとは限らない。
直接の農家ネットワークを持っている卸業者の場合は、市場頼みの業者よりも、生産現場の近くにいることは確か。だが、彼らが畑の状態を把握するのはそう簡単ではない。1週間前には何ともないと思っていた野菜畑であれよあれよという間に病気が広がるというようなことはよく起きる。1、2度の気温差が実りの時期を早めたり遅くしたりすることも。
時々刻々変化するのが畑というもの。そもそも卸業者は生産技術のことはよく分かっていないから、こういう気象条件なら何が起きるか、といったテクニカルな予測を立てることはできない。
「百姓の会は、メンバーが百姓です。メンバーの畑で何が起きているか、最新情報を逐一把握しています。お客さんから急な話が入っても、それに応えられるのは、どこのだれの畑か、すぐ分かります」
あるのか、ないのか。あるなら、何がどれくらい手に入るのか。こうした情報こそが、商取引をするうえで信頼を勝ち取る基本になる。買い手の卸業者も、数多くの小売店のニーズに応えて初めて信頼を得られる立場にあるから、信頼に足る早い情報はノドから手が出るほどほしい。
百姓の会は「畑からの情報が早い」(上地さん)。当事者にしか分からない最新の現場情報が、百姓の会の最大の強みだ。「農家が生き残れるとしたら、この部分しかないと思います」とまで上地さんは言う。
顧客とのそういう関係を続けているから、会員農家も買い手のことを常に考えるようになる。お客さんが欲しがる農産物、つまり「売れる農産物」を作ることに全力を傾注する結果になる。
農産物だから、出来すぎ、穫れすぎ、もある。
「ふだん相手の期待に応えようと努力しているから、こっちが困っている時は、お願いできないか、と言えるわけです」
もちろん押し売りではない。あくまで、買い手のニーズに応える形で、だ。続きは7/3(日)に。
2011年06月19日
父娘の歴史が交錯する米軍基地を眼下に
沖縄を創る人 第23回
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。
2011年06月12日
人が必要な本をそろえるプロを目指して
沖縄を創る人 第22回
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(上)
北中城村の丘に「あやかりの杜」図書館がある。東シナ海と太平洋の両方が見渡せる最高のロケーション。こんな所に図書館があったなんてー。驚いていると、司書の玉城留美さんが笑顔で迎えてくれた。
あやかりの杜は北中城村立の複合施設で、図書館がその中核。ことし8月で開館3年になるというまだ若い図書館だ。絶景を眺められる読書席を設け、聞こえるか聞こえないか程度の微かなBGMを流し、沖縄の「城(グスク)」関連書籍を充実させる、といったオリジナリティあふれる図書館づくりを進めている。
玉城さんは若い頃から図書館司書になる夢を持ち、学生時代に資格を取得した。
「本の虫だった父の影響で、家には本がたくさんありました」
家に本がたくさんあるのは当たり前、と思っていたから、子供の頃、本のない友達の家に行くと違和感があった。玉城さん自身も本が大好き。高校生の頃は、自分がいいと思った本のシリーズを学校に持っていって「だれでも読んで」と出窓にドンと置いて「私設図書館」を作ったりした。
図書館司書、と言っても、貸し出し窓口に座っている人、というくらいのイメージしか持っていない人もいるのではないだろうか。
「欧米では図書館司書と言えば完全な専門職。私、司書になったよ、とアメリカの友人たちにメールしたら、それはすごいって返事が来ました」
玉城さんは、情報の一大集積である図書館をもっとダイナミックに使ってほしいと思っている。
「あのう、バラを栽培したいんだけどー、という人が来たとします。ミニバラなんだけどね、って。沖縄で育てていて、肥料はいつやるのかなあ、と。少しお待ち下さい、と司書の私は、本を探します」
「はいどうぞ、と書架から集めてきたたくさんの関連書籍を差し出します。そうしたらこの人が本を手にとりながら、『ペーハーってなんね』『アルカリぃ? 分からん』。私が用意した本が相手にフィットしていないんです。詳しすぎる本を持ってきてしまったみたい、ということですね。やりすぎ。ああ、この方が欲しかったのは趣味の園芸テキストみたいな感じだったのかなあ、って」
逆に、自分のみつくろった本がパッと相手のニーズにマッチした時は司書冥利に尽きる、と玉城さんは言う。
今はインターネット全盛時代。とはいえ、調べ方や調べる内容をみんながよく分かっているとは限らない。
「知りたいことが漠然としていることも多いと思うんです。考えを整理していくのを司書に手助けしてもらいながら、ああ、私が探しているのはこれだねえ、って自分でだんだん分かってくることもあります。そういう対人コミュニケーションがとれるのが図書館の素晴らしさです」
利用者によっては司書に尋ねるのにも勇気がいるはず、と玉城さんは気を配る。だから10人来たら10人ともおろそかにできない、と言う。
自分と先輩司書の違いを感じる時に、司書はやはり専門職だな、と改めて思う。
「こういう小説がありましたよね、表紙のこの辺が赤だったかな、と先輩に尋ねると、ああ、あなたの言っているのはそれの初版ですね、と。カーッコいい。全部アタマに入ってるんです」
「アメリカの友達に、司書になったよってメールしちゃったから、もう中途半端な司書にはなれないですね」と玉城さんは笑う。
あやかりの杜図書館で司書として働く前、玉城さんは14年間、沖縄市にあったアメリカの会社に勤務していた。その話は次回6/19(日)に。
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(上)
北中城村の丘に「あやかりの杜」図書館がある。東シナ海と太平洋の両方が見渡せる最高のロケーション。こんな所に図書館があったなんてー。驚いていると、司書の玉城留美さんが笑顔で迎えてくれた。
あやかりの杜は北中城村立の複合施設で、図書館がその中核。ことし8月で開館3年になるというまだ若い図書館だ。絶景を眺められる読書席を設け、聞こえるか聞こえないか程度の微かなBGMを流し、沖縄の「城(グスク)」関連書籍を充実させる、といったオリジナリティあふれる図書館づくりを進めている。
玉城さんは若い頃から図書館司書になる夢を持ち、学生時代に資格を取得した。
「本の虫だった父の影響で、家には本がたくさんありました」
家に本がたくさんあるのは当たり前、と思っていたから、子供の頃、本のない友達の家に行くと違和感があった。玉城さん自身も本が大好き。高校生の頃は、自分がいいと思った本のシリーズを学校に持っていって「だれでも読んで」と出窓にドンと置いて「私設図書館」を作ったりした。
図書館司書、と言っても、貸し出し窓口に座っている人、というくらいのイメージしか持っていない人もいるのではないだろうか。
「欧米では図書館司書と言えば完全な専門職。私、司書になったよ、とアメリカの友人たちにメールしたら、それはすごいって返事が来ました」
玉城さんは、情報の一大集積である図書館をもっとダイナミックに使ってほしいと思っている。
「あのう、バラを栽培したいんだけどー、という人が来たとします。ミニバラなんだけどね、って。沖縄で育てていて、肥料はいつやるのかなあ、と。少しお待ち下さい、と司書の私は、本を探します」
「はいどうぞ、と書架から集めてきたたくさんの関連書籍を差し出します。そうしたらこの人が本を手にとりながら、『ペーハーってなんね』『アルカリぃ? 分からん』。私が用意した本が相手にフィットしていないんです。詳しすぎる本を持ってきてしまったみたい、ということですね。やりすぎ。ああ、この方が欲しかったのは趣味の園芸テキストみたいな感じだったのかなあ、って」
逆に、自分のみつくろった本がパッと相手のニーズにマッチした時は司書冥利に尽きる、と玉城さんは言う。
今はインターネット全盛時代。とはいえ、調べ方や調べる内容をみんながよく分かっているとは限らない。
「知りたいことが漠然としていることも多いと思うんです。考えを整理していくのを司書に手助けしてもらいながら、ああ、私が探しているのはこれだねえ、って自分でだんだん分かってくることもあります。そういう対人コミュニケーションがとれるのが図書館の素晴らしさです」
利用者によっては司書に尋ねるのにも勇気がいるはず、と玉城さんは気を配る。だから10人来たら10人ともおろそかにできない、と言う。
自分と先輩司書の違いを感じる時に、司書はやはり専門職だな、と改めて思う。
「こういう小説がありましたよね、表紙のこの辺が赤だったかな、と先輩に尋ねると、ああ、あなたの言っているのはそれの初版ですね、と。カーッコいい。全部アタマに入ってるんです」
「アメリカの友達に、司書になったよってメールしちゃったから、もう中途半端な司書にはなれないですね」と玉城さんは笑う。
あやかりの杜図書館で司書として働く前、玉城さんは14年間、沖縄市にあったアメリカの会社に勤務していた。その話は次回6/19(日)に。
2011年06月05日
人材も産物も自前で作った近世琉球
沖縄を創る人 第21回
歴史家 上里隆史さん(下)
在野の歴史家、上里隆史さんが語る琉球王国。1300年代から1500年代の古琉球を軸にした前回に続き、今回は、1600年代以降の近世の琉球王国を語ってもらおう。
薩摩の侵攻は1609年だが、その前に国際情勢の大きな変化があった。それは明の海禁政策の後退だ。明の海禁政策は、海外貿易を国の管理下に置いたので、これがきちんと機能している時は、自由な民間貿易はできなかった。
前回述べた1300-1500年代の古琉球時代の国際貿易は、この管理システムの内側で行われた朝貢貿易だった。日本や琉球を含む数多くの国が明と朝貢貿易を行った。明は琉球を重用し、数多くの船を与えるなどして優遇した。那覇港のにぎわいも、こうした朝貢貿易がもたらしたものだった。ところがー。
上里さんが言う。
「海禁がゆるみ、民間の貿易が盛んになってくると、競争力のない官製貿易システムは負けてしまうんです」
官製事業は民間事業の勢いにはかなわない、というのは、いつの世でも同じらしい。
では純民間貿易が琉球で盛んになったかというと、そうはならなかった。ここに「もう一つの国際情勢の変化」が大きな影響を与えた。1609年の薩摩の侵攻がそれ。薩摩の侵攻によって、琉球は江戸幕府の鎖国体制下に組み込まれてしまった。貿易による繁栄とは正反対の、鎖国の世が訪れたのだ。
こうした一連の国際情勢の変化によって、国際貿易港として繁栄した那覇は、その輝きを失ってしまう。琉球王府も、かつてのように、外国人人材をそのまま活用することはできなくなった。
「そうなった時に初めて、琉球では、自前の人材育成システムが構築されていきました」と上里さん。
自前の人材育成システムの中心にあったのが「科試(こうし)」と呼ばれる人材登用試験。500~600人の受験者の中から1人くらいしか受からない超難関で、合格者は、合格の翌日から、琉球王府の高度な政策文書を起案する即戦力として働いた。
テンペストの主役、NHK時代劇では仲間由紀恵が演じる孫寧温こと真鶴もその一人。科試を10代でパスし、時代の荒波に飲み込まれそうになる琉球王府の舵取りを担った天才官僚という設定だ。
自前で作る、という意味では、人材だけでなく、生産物もそうだった。古琉球時代の朝貢貿易は、基本的に中継貿易で、琉球は自前の生産物を販売するよりも、他の場所で仕入れたものを別の場所で売る方が中心だった。話はちょっと遡るが、上里さんが古琉球時代の中継貿易の面白いエピソードを教えてくれた。
「1500年代の初め、マラッカにいたポルトガル人トメ・ピレスの記録の中に、琉球人はタマネギなどの野菜をよく売っている、という記述があります。当時の琉球でタマネギは生産も消費もされていなかったと考えられるので、どこかで生産されたものを別の場所に持っていって売っていたのではないかと思います」
話を近世琉球に戻せば、薩摩侵攻後の琉球王国は江戸幕府の鎖国体制に組み込まれ、独自の貿易はできなくなる。外から買えないとなれば、不足は自分で生産して補うしかない。その結果、この時代は、サトウキビで作った砂糖や泡盛が日本などに輸出された。事実、当時の江戸には琉球泡盛がかなり出回っていたらしい。
この時代の琉球王国を代表する人物といえば、1700年代に活躍した蔡温(さいおん)が有名。宰相職である三司官まで上り詰めた第一級の行政マンであり、希代の政治家・エンジニアでもあった蔡温は、小国である琉球がどうしたら生き延びられるかに知恵を絞り続けたという。
「国が小さくても貧しくても、心配いらない、と。そのためには、優先順位を間違えるな、大局を見ろ、と蔡温は説きました。琉球がうまくやってこれた時代は、自分たちの不足をしっかり認識していたことが成功の要因だったのではないかと思います」
上里さんの視線は、現在の沖縄が置かれている難しい立場にオーバーラップしていく。
「自分たちの弱みが何なのかを自覚できれば、その不足をいかに補うかが見出せます。逆に、中国や日本本土になくて沖縄にあるものは何かを考えることも重要だと思います」
上里さんは、前々回で紹介した宮城直人さんの「先端医療特区構想」はとても沖縄的だと話す。米軍基地が存在している現実をふまえ、それを逆手にとって、むしろ活用しながら自らの力量を高め、沖縄振興の起爆剤にしてしまおうというしたたかな発想。西の中国と北の日本に挟まれ、欧米の圧力さえかぶりながら、そのような現実を受け入れつつ、自分の足で立つことを模索し続けた琉球人の生き方に相通ずるものがあるということだろう。
「そうした沖縄的発想を実施できる体制になっているかどうか。非常に気になるところです」
上里さんはそう付け加えた。
[上里隆史さんとつながる] まず上里さん自身のブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」。上里さんの多彩な活動ぶりのほか、琉球史のエピソードなど面白い話題が満載。著書は「目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム」(ボーダーインク刊)、「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」(同)など。来年1月には絵本「たくさんのふしぎ 琉球という国があった」(福音館書店刊)が出版される。上里さんが時代考証を担当したNHKのBS時代劇「テンペスト」の番組案内はこちら
歴史家 上里隆史さん(下)
在野の歴史家、上里隆史さんが語る琉球王国。1300年代から1500年代の古琉球を軸にした前回に続き、今回は、1600年代以降の近世の琉球王国を語ってもらおう。
薩摩の侵攻は1609年だが、その前に国際情勢の大きな変化があった。それは明の海禁政策の後退だ。明の海禁政策は、海外貿易を国の管理下に置いたので、これがきちんと機能している時は、自由な民間貿易はできなかった。
前回述べた1300-1500年代の古琉球時代の国際貿易は、この管理システムの内側で行われた朝貢貿易だった。日本や琉球を含む数多くの国が明と朝貢貿易を行った。明は琉球を重用し、数多くの船を与えるなどして優遇した。那覇港のにぎわいも、こうした朝貢貿易がもたらしたものだった。ところがー。
上里さんが言う。
「海禁がゆるみ、民間の貿易が盛んになってくると、競争力のない官製貿易システムは負けてしまうんです」
官製事業は民間事業の勢いにはかなわない、というのは、いつの世でも同じらしい。
では純民間貿易が琉球で盛んになったかというと、そうはならなかった。ここに「もう一つの国際情勢の変化」が大きな影響を与えた。1609年の薩摩の侵攻がそれ。薩摩の侵攻によって、琉球は江戸幕府の鎖国体制下に組み込まれてしまった。貿易による繁栄とは正反対の、鎖国の世が訪れたのだ。
こうした一連の国際情勢の変化によって、国際貿易港として繁栄した那覇は、その輝きを失ってしまう。琉球王府も、かつてのように、外国人人材をそのまま活用することはできなくなった。
「そうなった時に初めて、琉球では、自前の人材育成システムが構築されていきました」と上里さん。
自前の人材育成システムの中心にあったのが「科試(こうし)」と呼ばれる人材登用試験。500~600人の受験者の中から1人くらいしか受からない超難関で、合格者は、合格の翌日から、琉球王府の高度な政策文書を起案する即戦力として働いた。
テンペストの主役、NHK時代劇では仲間由紀恵が演じる孫寧温こと真鶴もその一人。科試を10代でパスし、時代の荒波に飲み込まれそうになる琉球王府の舵取りを担った天才官僚という設定だ。
自前で作る、という意味では、人材だけでなく、生産物もそうだった。古琉球時代の朝貢貿易は、基本的に中継貿易で、琉球は自前の生産物を販売するよりも、他の場所で仕入れたものを別の場所で売る方が中心だった。話はちょっと遡るが、上里さんが古琉球時代の中継貿易の面白いエピソードを教えてくれた。
「1500年代の初め、マラッカにいたポルトガル人トメ・ピレスの記録の中に、琉球人はタマネギなどの野菜をよく売っている、という記述があります。当時の琉球でタマネギは生産も消費もされていなかったと考えられるので、どこかで生産されたものを別の場所に持っていって売っていたのではないかと思います」
話を近世琉球に戻せば、薩摩侵攻後の琉球王国は江戸幕府の鎖国体制に組み込まれ、独自の貿易はできなくなる。外から買えないとなれば、不足は自分で生産して補うしかない。その結果、この時代は、サトウキビで作った砂糖や泡盛が日本などに輸出された。事実、当時の江戸には琉球泡盛がかなり出回っていたらしい。
この時代の琉球王国を代表する人物といえば、1700年代に活躍した蔡温(さいおん)が有名。宰相職である三司官まで上り詰めた第一級の行政マンであり、希代の政治家・エンジニアでもあった蔡温は、小国である琉球がどうしたら生き延びられるかに知恵を絞り続けたという。
「国が小さくても貧しくても、心配いらない、と。そのためには、優先順位を間違えるな、大局を見ろ、と蔡温は説きました。琉球がうまくやってこれた時代は、自分たちの不足をしっかり認識していたことが成功の要因だったのではないかと思います」
上里さんの視線は、現在の沖縄が置かれている難しい立場にオーバーラップしていく。
「自分たちの弱みが何なのかを自覚できれば、その不足をいかに補うかが見出せます。逆に、中国や日本本土になくて沖縄にあるものは何かを考えることも重要だと思います」
上里さんは、前々回で紹介した宮城直人さんの「先端医療特区構想」はとても沖縄的だと話す。米軍基地が存在している現実をふまえ、それを逆手にとって、むしろ活用しながら自らの力量を高め、沖縄振興の起爆剤にしてしまおうというしたたかな発想。西の中国と北の日本に挟まれ、欧米の圧力さえかぶりながら、そのような現実を受け入れつつ、自分の足で立つことを模索し続けた琉球人の生き方に相通ずるものがあるということだろう。
「そうした沖縄的発想を実施できる体制になっているかどうか。非常に気になるところです」
上里さんはそう付け加えた。
[上里隆史さんとつながる] まず上里さん自身のブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」。上里さんの多彩な活動ぶりのほか、琉球史のエピソードなど面白い話題が満載。著書は「目からウロコの琉球・沖縄史―最新歴史コラム」(ボーダーインク刊)、「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」(同)など。来年1月には絵本「たくさんのふしぎ 琉球という国があった」(福音館書店刊)が出版される。上里さんが時代考証を担当したNHKのBS時代劇「テンペスト」の番組案内はこちら