2011年10月
2011年10月30日
麺のオールラウンドプレーヤー
沖縄とアジアの食 第7回 ブン
ベトナム麺といえば、ブンの話をしないわけにはいかない。ツルツルした優しい食感が特徴の丸い米麺。日本の素麺より少し太い。食感はかなり違う。
ベトナムにはいろいろな麺があるが、その中でもブンは、最もたくさん消費されているのではないかと思う。市場の麺専門店には中央付近にドンと置かれているし、食べるシーンも多彩だ。前々回と前回で書いたフーティウやフォーは、日本のラーメンのようなどんぶり入り汁麺として食べられるのが普通。ブンは、汁麺ももちろんあるが、別の形で出くわすことが多い。
例えば、茶碗にブンを入れて、ちょっとおかずをのせ、まるでごはんのように食べる。あるいは、ハノイ料理で有名なブンチャーは、肉だんごなどが入ったつけ汁にブンをひたして食べる。ブンは、麺のオールラウンドプレーヤーなのだ。
そうそう、ブンは、鍋料理にもしばしば沿えられて登場する。これは目からウロコの素晴らしい食べ方なので、ちょっと詳しく説明しよう。
ベトナムの人々は大の鍋好き。常夏の国ながら、氷の入ったビールを片手に、海鮮や肉、そしてたっぷりの青野菜が入ったいろいろな種類の鍋をつつく。日本では、鍋は冬場の料理ということになっているが、ベトナムで鍋を食べると、そうした固定観念がいとも簡単に崩れてしまう。30度を超す蒸し暑さの中でも、文句なしに鍋はうまい。
ブンは、そんな鍋の必需品。鍋の材料がグツグツ煮えてきた頃合いを見はからって、鍋の横で皿に盛られて待機しているブンを、めいめいの取り皿に少量とる。それから食べたい鍋材料を入れ、スープを注ぐ。つまり、取り皿のスープの中に、肉や魚や野菜といった鍋材料に混じって、少量のブンがいつもあるのだ。
いただきますー。鍋材料と一緒にブンを口に入れる。これがうまい。おかずだけを食べるよりも、おかずをごはんと一緒に口に入れた方がおいしく感じることがあるが、あれと似ているかもしれない。鍋材料だけでももちろんうまいが、そこにブンの優しい食感が加わると、妙においしく感じられるのだ。
ブンは、コシがまるでない。コシのない米麺としては前々回のフォーが代表選手だが、ブンのコシのなさもフォーに負けていない。それで十分うまいのは、鍋もののスープとの相性がいいからかも。フォーのような薄い平麺ではないが、スープと一体化するという意味では、ブンはフォーにひけをとらない。水分の多さも、スープとの一体感に大いに貢献している。水分が多く、粘りがないので、炭水化物特有の「重たさ」がない。
自分でブンを作っている、という市場のおばさんに聞いた話では、ブンは、米を水にひたして柔らかくしたものをひいてシトギにし、それを穴の開いた容器から、沸騰させた湯に落として作るという。
市場では、ゆでられた状態の大量のブンが売られている。麺同士がくっつきそうだが、意外に簡単に離れる。
ツルツルした優しい口当たりは、フォーと同じく、アミロース主体の長粒米がもたらす「さらり感」のなせるわざ。この、さらり感はあまり自己主張しない。鍋の取り皿の中で、鍋材料たちに主役の座を譲りながら控えめな脇役を果たすのにうってつけだ。だが、鍋を何度か食べていると、脇役ながら、鍋を食べる時にはどうしてもこのブンが欲しくなるから不思議。
丸麺と言えば、もう一つ、印象的なベトナム麺を。バインカン。ブンほど量が食べられているわけではないと思うが、ホーチミン市ではこれを売りにしている店をときどき見かけた。南部一帯でよく食べられているとも聞いた。ブンよりずっと太く、日本のうどんくらいある。タピオカが多めに入っているのが最大の特徴で、タピオカ独特の粘りと透明感がある。
前々回のフォーで「薄さが命」と書いた。バインカンを食べると、アミロース中心の米麺が太くなった時に出てくるはずの歯触りの「もたつき」を、粘りの強いタピオカを多めに配合することでうまく回避していることがよく分かる。さらに、汁にとろみをつけて、麺の食感に一歩近づけながら、麺から汁が滑り落ちにくいようにして一体感を高めている。なんとも巧み。
ベトナムのそんな知恵は食文化のあちこちに垣間見える。うまいものを追求するベトナムの情熱には、脱帽するしかない。
ベトナム麺といえば、ブンの話をしないわけにはいかない。ツルツルした優しい食感が特徴の丸い米麺。日本の素麺より少し太い。食感はかなり違う。
ベトナムにはいろいろな麺があるが、その中でもブンは、最もたくさん消費されているのではないかと思う。市場の麺専門店には中央付近にドンと置かれているし、食べるシーンも多彩だ。前々回と前回で書いたフーティウやフォーは、日本のラーメンのようなどんぶり入り汁麺として食べられるのが普通。ブンは、汁麺ももちろんあるが、別の形で出くわすことが多い。
例えば、茶碗にブンを入れて、ちょっとおかずをのせ、まるでごはんのように食べる。あるいは、ハノイ料理で有名なブンチャーは、肉だんごなどが入ったつけ汁にブンをひたして食べる。ブンは、麺のオールラウンドプレーヤーなのだ。
そうそう、ブンは、鍋料理にもしばしば沿えられて登場する。これは目からウロコの素晴らしい食べ方なので、ちょっと詳しく説明しよう。
ベトナムの人々は大の鍋好き。常夏の国ながら、氷の入ったビールを片手に、海鮮や肉、そしてたっぷりの青野菜が入ったいろいろな種類の鍋をつつく。日本では、鍋は冬場の料理ということになっているが、ベトナムで鍋を食べると、そうした固定観念がいとも簡単に崩れてしまう。30度を超す蒸し暑さの中でも、文句なしに鍋はうまい。
ブンは、そんな鍋の必需品。鍋の材料がグツグツ煮えてきた頃合いを見はからって、鍋の横で皿に盛られて待機しているブンを、めいめいの取り皿に少量とる。それから食べたい鍋材料を入れ、スープを注ぐ。つまり、取り皿のスープの中に、肉や魚や野菜といった鍋材料に混じって、少量のブンがいつもあるのだ。
いただきますー。鍋材料と一緒にブンを口に入れる。これがうまい。おかずだけを食べるよりも、おかずをごはんと一緒に口に入れた方がおいしく感じることがあるが、あれと似ているかもしれない。鍋材料だけでももちろんうまいが、そこにブンの優しい食感が加わると、妙においしく感じられるのだ。
ブンは、コシがまるでない。コシのない米麺としては前々回のフォーが代表選手だが、ブンのコシのなさもフォーに負けていない。それで十分うまいのは、鍋もののスープとの相性がいいからかも。フォーのような薄い平麺ではないが、スープと一体化するという意味では、ブンはフォーにひけをとらない。水分の多さも、スープとの一体感に大いに貢献している。水分が多く、粘りがないので、炭水化物特有の「重たさ」がない。
自分でブンを作っている、という市場のおばさんに聞いた話では、ブンは、米を水にひたして柔らかくしたものをひいてシトギにし、それを穴の開いた容器から、沸騰させた湯に落として作るという。
市場では、ゆでられた状態の大量のブンが売られている。麺同士がくっつきそうだが、意外に簡単に離れる。
ツルツルした優しい口当たりは、フォーと同じく、アミロース主体の長粒米がもたらす「さらり感」のなせるわざ。この、さらり感はあまり自己主張しない。鍋の取り皿の中で、鍋材料たちに主役の座を譲りながら控えめな脇役を果たすのにうってつけだ。だが、鍋を何度か食べていると、脇役ながら、鍋を食べる時にはどうしてもこのブンが欲しくなるから不思議。
丸麺と言えば、もう一つ、印象的なベトナム麺を。バインカン。ブンほど量が食べられているわけではないと思うが、ホーチミン市ではこれを売りにしている店をときどき見かけた。南部一帯でよく食べられているとも聞いた。ブンよりずっと太く、日本のうどんくらいある。タピオカが多めに入っているのが最大の特徴で、タピオカ独特の粘りと透明感がある。
前々回のフォーで「薄さが命」と書いた。バインカンを食べると、アミロース中心の米麺が太くなった時に出てくるはずの歯触りの「もたつき」を、粘りの強いタピオカを多めに配合することでうまく回避していることがよく分かる。さらに、汁にとろみをつけて、麺の食感に一歩近づけながら、麺から汁が滑り落ちにくいようにして一体感を高めている。なんとも巧み。
ベトナムのそんな知恵は食文化のあちこちに垣間見える。うまいものを追求するベトナムの情熱には、脱帽するしかない。
2011年10月23日
歯応え麺と透明スープ
沖縄とアジアの食 第6回 フーティウ
前回のフォーに続いて、ベトナム麺を続けたい。今回は主に南部で食べられているフーティウ。写真はホーチミン市のタイビン市場に近いフーティウ屋のフーティウ。麺の歯応え、透明感のある琥珀色のスープとも申し分ない。
フーティウ屋の看板をよく見ると、フーティウナンバン、と書かれている。ナンバンはカンボジアの首都プノンペンのこと。プノンペン風フーティウ、といった意味合いらしい。
ホーチミンから南西に70kmほど行ったメコンデルタのティンザン省都ミトーが、フーティウ発祥の地とされる。この地域はカンボジアと同じクメール族が多く、彼らがフーティウを作り出したとされる。
フーティウにはいろいろな具が乗るが、一番シンプルなのは、だしをとるのに使った骨付きの豚肉をドカンと載せたもの。迫力満点で、麺よりもよほどボリュームがあるが、半分以上が骨なので、実際に食べる分量はそんなにドカンでもない。
アジア汁麺のお約束で、フーティウの場合も生野菜・香草が別皿でついてくる。手で適当なサイズにちぎってスープに放り込む。冒頭の写真の店では、セロリ、ニラ、モヤシなどが出てきた。セロリは日本で食べるものより、味も香りも強い。沖縄産のセロリが本土産よりも緑色が濃く、香りが強いのと似ている。
下の写真は、同じホーチミン市内の別のフーティウ屋。こちらの香草はシュンギクがメインで出てきた。シュンギクもベトナムでよく食べられる。
この店では豚肉を、麺と別に盛りつけてある。豚肉が多すぎて、麺の上に乗せると麺が押しつぶされるような印象になるのを避けるためだろう。野菜を含めると皿が3つもあって、普通なら1つのどんぶりに入って出てきそうな料理が、なんだがずいぶん豪華に見える。
麺のどんぶりには、麺以外に青ネギや揚げネギが散っている。スープはどこまでも透明。
さて、麺だが、こちらの写真を見てほしい。フォーとは全く違って、断面は正方形の角麺。太さ1mm角、といったところか。細くて繊細な麺だ。もちろん米麺だが、フォーがスープと一体になったヒラヒラ食感を楽しむのに対して、フーティウは歯ごたえがやや強い。
表現が難しいが、フーティウの歯ごたえは、歯を押し戻すような小麦麺のコシとは違う。前回、フォーの話で書いたように、アミロースでんぷん中心の長粒米が原料だから、粘りのようなものもほとんどない。とはいえ、一定の歯ごたえが感じられる。
製造工程を見たことはないが、書かれたものによると、フーティウにせよ、フォーにせよ、長粒種の米で作られる麺は、蒸してから冷ます際の冷まし方や乾燥方法によって歯ごたえが変わってくるらしい。
アミロースが多いでんぷんは、加熱によって糊化したでんぷんが、冷める過程で元に戻る「老化」が起きやすい。蒸した麺を冷ます過程を逆にうまく管理することで、あるレベルまで意図的に老化させ、目指す独特の歯ごたえを得ているのかもしれない。
それから、これは最近のことだろうと想像するが、米粉100%ではなく、タピオカ粉を少し混ぜているフーティウも売られていることが分かった。想像するに、ねらいは2つ。タピオカ独特の粘りを加えて、歯ごたえを強調したいのと、タピオカの方が値段が米より安いからだろう。
別の機会に詳しく取り上げたいと思っているが、タピオカでんぷんは、非常に個性的なでんぷん。独特の強い粘りがあるため、最近は、いろいろな麺や菓子類などに活用されている。
たとえば、日本では冷凍うどん。うどんは、本来は小麦100%で、小麦のグルテンによるコシが特徴なのだが、冷凍うどんのコシの一部は、実はタピオカでんぷんがもたらしている。あの、やや透明感を帯びた色合いも、タピオカでんぷんのなせる技だ。
話が脱線した。フーティウは、エビやレバーなどの具が乗ったタイプもよく見かける。生野菜・香草類をちぎって入れた後なので、散らかってしまっているが、実際に食べる時はこんな感じ。
スープは豚だしで、しつこさはまったくない。透明スープ好きにはたまらないおいしさ。
ただ、南部なので、味付けはやや甘め。もっとしょっぱいのが欲しい向きは、ベトナム式で、卓上のヌクマムを使うか塩を注文するかして、自分味に整えればいい。
かつてサイゴンと呼ばれたホーチミン市には、フーティウ屋があちこちにある。写真は、冒頭写真のフーティウを出す店。人気店のようで、食事時は混み合っている。
前回のフォーに続いて、ベトナム麺を続けたい。今回は主に南部で食べられているフーティウ。写真はホーチミン市のタイビン市場に近いフーティウ屋のフーティウ。麺の歯応え、透明感のある琥珀色のスープとも申し分ない。
フーティウ屋の看板をよく見ると、フーティウナンバン、と書かれている。ナンバンはカンボジアの首都プノンペンのこと。プノンペン風フーティウ、といった意味合いらしい。
ホーチミンから南西に70kmほど行ったメコンデルタのティンザン省都ミトーが、フーティウ発祥の地とされる。この地域はカンボジアと同じクメール族が多く、彼らがフーティウを作り出したとされる。
フーティウにはいろいろな具が乗るが、一番シンプルなのは、だしをとるのに使った骨付きの豚肉をドカンと載せたもの。迫力満点で、麺よりもよほどボリュームがあるが、半分以上が骨なので、実際に食べる分量はそんなにドカンでもない。
アジア汁麺のお約束で、フーティウの場合も生野菜・香草が別皿でついてくる。手で適当なサイズにちぎってスープに放り込む。冒頭の写真の店では、セロリ、ニラ、モヤシなどが出てきた。セロリは日本で食べるものより、味も香りも強い。沖縄産のセロリが本土産よりも緑色が濃く、香りが強いのと似ている。
下の写真は、同じホーチミン市内の別のフーティウ屋。こちらの香草はシュンギクがメインで出てきた。シュンギクもベトナムでよく食べられる。
この店では豚肉を、麺と別に盛りつけてある。豚肉が多すぎて、麺の上に乗せると麺が押しつぶされるような印象になるのを避けるためだろう。野菜を含めると皿が3つもあって、普通なら1つのどんぶりに入って出てきそうな料理が、なんだがずいぶん豪華に見える。
麺のどんぶりには、麺以外に青ネギや揚げネギが散っている。スープはどこまでも透明。
さて、麺だが、こちらの写真を見てほしい。フォーとは全く違って、断面は正方形の角麺。太さ1mm角、といったところか。細くて繊細な麺だ。もちろん米麺だが、フォーがスープと一体になったヒラヒラ食感を楽しむのに対して、フーティウは歯ごたえがやや強い。
表現が難しいが、フーティウの歯ごたえは、歯を押し戻すような小麦麺のコシとは違う。前回、フォーの話で書いたように、アミロースでんぷん中心の長粒米が原料だから、粘りのようなものもほとんどない。とはいえ、一定の歯ごたえが感じられる。
製造工程を見たことはないが、書かれたものによると、フーティウにせよ、フォーにせよ、長粒種の米で作られる麺は、蒸してから冷ます際の冷まし方や乾燥方法によって歯ごたえが変わってくるらしい。
アミロースが多いでんぷんは、加熱によって糊化したでんぷんが、冷める過程で元に戻る「老化」が起きやすい。蒸した麺を冷ます過程を逆にうまく管理することで、あるレベルまで意図的に老化させ、目指す独特の歯ごたえを得ているのかもしれない。
それから、これは最近のことだろうと想像するが、米粉100%ではなく、タピオカ粉を少し混ぜているフーティウも売られていることが分かった。想像するに、ねらいは2つ。タピオカ独特の粘りを加えて、歯ごたえを強調したいのと、タピオカの方が値段が米より安いからだろう。
別の機会に詳しく取り上げたいと思っているが、タピオカでんぷんは、非常に個性的なでんぷん。独特の強い粘りがあるため、最近は、いろいろな麺や菓子類などに活用されている。
たとえば、日本では冷凍うどん。うどんは、本来は小麦100%で、小麦のグルテンによるコシが特徴なのだが、冷凍うどんのコシの一部は、実はタピオカでんぷんがもたらしている。あの、やや透明感を帯びた色合いも、タピオカでんぷんのなせる技だ。
話が脱線した。フーティウは、エビやレバーなどの具が乗ったタイプもよく見かける。生野菜・香草類をちぎって入れた後なので、散らかってしまっているが、実際に食べる時はこんな感じ。
スープは豚だしで、しつこさはまったくない。透明スープ好きにはたまらないおいしさ。
ただ、南部なので、味付けはやや甘め。もっとしょっぱいのが欲しい向きは、ベトナム式で、卓上のヌクマムを使うか塩を注文するかして、自分味に整えればいい。
かつてサイゴンと呼ばれたホーチミン市には、フーティウ屋があちこちにある。写真は、冒頭写真のフーティウを出す店。人気店のようで、食事時は混み合っている。
2011年10月16日
ヒラヒラ感がたまらない
沖縄とアジアの食 第5回 フォー
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。
ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。
食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。
生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。
日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。
ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。
食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。
生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。
日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。
2011年10月09日
肉はいつまでもつか
沖縄とアジアの食 第4回 肉扱いの文化
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。
2011年10月02日
アグーはラードをとる豚だった
沖縄とアジアの食 第3回 M字のアジア地豚
ラードといえば、アグーと呼ばれる沖縄在来種の豚は、ラードをとるための豚だった。沖縄の昔の暮らしでラードがいかに大切な食品だったかは、前回、述べた通り。その大切なラードを供給してくれたのがアグーだった。
アグーは、体重80kgくらいの小さな体に、厚さ4、5cmもの背脂肪が載っている。西洋種の豚が、体重が110kgにもなるのに背脂は2cmに届かなかったりするのと全く対照的だ。
西洋種は、肉を少しでもたくさんとるために脂肪が薄くなるよう、長い時間をかけて改良されてきた。これに対してアグーはもともと脂がたっぷりあるからこそ重宝された。
戦後、アグーは西洋種と交配が進み、純系種が消えかけていたのを、さまざまな人々の努力で、ようやく純系種に近いとされる状態にまで「戻し交配」したところ。産肉を目指すとしたら、そのための改良はこれから、というのが実態だ。アグーに限ったことではないが、安定した系統の造成には、少なくとも20-30年かかる。
そもそもアグーはラードをとるための豚なので、肉は少ない。脂が多くて肉が少ないこと、にもかかわらず生育期間が、つまり餌代をはじめとする生産コストが2倍以上になること、さらに時間をかけても体はあまり大きくならないことを考え併せると、アグーの価格は、すぐ大きくなって肉が大量にとれる西洋種の豚肉の3、4倍になってしまう。いくら希少価値といっても、100gで400円もするような高い豚肉が売れるはずもない。
現実的な解決策として、経済性の高い西洋種とかけ合わせた豚を「アグー」の名前で売ることになる。出回っている「アグー」のほとんどは、アグーの血が一部入った西洋種との交配豚だ。
アグーは500-600年前に中国から入ってきたらしい。小型で毛が黒い。ラオスでもベトナムでも、アグーに似た地豚を見た。
2枚の写真はラオスで見た地の豚。2頭の豚とも雌で、いずれも乳がよく張っている。1枚目は毛が黒だが、下腹部は少し白い毛が混じっている。2枚目は、赤土の泥水を浴びたばかりなので、すっかりそんな色になっているが、毛は黒に少し白が混じっている。こちらは体が少し大きかった。体つきから見て、中国系の改良種の血が混じっているかもしれない。
2頭の豚とも、背中がくぼんで、横から見るとアルファベットの「M」のように見える。冒頭のアグーも、心なしかM字っぽい。昔のアグーの写真を見ると、もっとはっきりM字の形をしているものもある。下の写真はベトナムで見た地豚。やはり背中がくぼんでM字に見える。
アジアにはM字の豚があちこちにいるようだ。ラオスの豚もベトナムの豚も、アグーと同じく、ラードタイプの豚とみられる。途上国の田舎では、舎飼いではなく、放し飼い。そこらじゅうを歩き回ってはエサを探している。
アグーは、本来の役割、つまりラード作りに生かした方がいいように思う。アグーの脂の質は非常に優れている。融点が低く、口どけがよい。イベリコ豚と同じように、夏場は常温で脂が溶け出すほど。大げさに言えば、ラード観が変わってしまうくらいの、すっきりした脂だ。
一般の人が最もラードを身近に食べているのは、トンカツ専門店のトンカツだろう。トンカツ専門店のトンカツが香ばしく、サクサクした食感で、うまみが感じられる最大の理由は、揚げ油にラードを使うから。
でも、アグーの高級ラードを、揚げ油として大量に使うのはあまりにもったいない。そのまま食べる料理に使いたい。
例えば、サラミソーセージの白い脂は豚のラードだが、そこにアグーのラードを使ったら、さぞおいしいサラミができるだろう。あるいは、シンプルなキャベツいため。フライパンにアグーのラードをひとさじ入れて加熱し、キャベツをよくいためて塩をふるだけ。加熱されたラードとそれで焼かれたキャベツの香り高さ。あきれるほどうまいはずだ。火を止める前にジャッと醤油をたらせば、ごはんに最高のおかずになる。
万鐘島ぶたのラードも、融点の低さとすっきりした感じはアグーに負けていない。商品化してはいないが、万鐘島ぶたのラードついてはこちらの過去記事をどうぞ。
ラードといえば、アグーと呼ばれる沖縄在来種の豚は、ラードをとるための豚だった。沖縄の昔の暮らしでラードがいかに大切な食品だったかは、前回、述べた通り。その大切なラードを供給してくれたのがアグーだった。
アグーは、体重80kgくらいの小さな体に、厚さ4、5cmもの背脂肪が載っている。西洋種の豚が、体重が110kgにもなるのに背脂は2cmに届かなかったりするのと全く対照的だ。
西洋種は、肉を少しでもたくさんとるために脂肪が薄くなるよう、長い時間をかけて改良されてきた。これに対してアグーはもともと脂がたっぷりあるからこそ重宝された。
戦後、アグーは西洋種と交配が進み、純系種が消えかけていたのを、さまざまな人々の努力で、ようやく純系種に近いとされる状態にまで「戻し交配」したところ。産肉を目指すとしたら、そのための改良はこれから、というのが実態だ。アグーに限ったことではないが、安定した系統の造成には、少なくとも20-30年かかる。
そもそもアグーはラードをとるための豚なので、肉は少ない。脂が多くて肉が少ないこと、にもかかわらず生育期間が、つまり餌代をはじめとする生産コストが2倍以上になること、さらに時間をかけても体はあまり大きくならないことを考え併せると、アグーの価格は、すぐ大きくなって肉が大量にとれる西洋種の豚肉の3、4倍になってしまう。いくら希少価値といっても、100gで400円もするような高い豚肉が売れるはずもない。
現実的な解決策として、経済性の高い西洋種とかけ合わせた豚を「アグー」の名前で売ることになる。出回っている「アグー」のほとんどは、アグーの血が一部入った西洋種との交配豚だ。
アグーは500-600年前に中国から入ってきたらしい。小型で毛が黒い。ラオスでもベトナムでも、アグーに似た地豚を見た。
2枚の写真はラオスで見た地の豚。2頭の豚とも雌で、いずれも乳がよく張っている。1枚目は毛が黒だが、下腹部は少し白い毛が混じっている。2枚目は、赤土の泥水を浴びたばかりなので、すっかりそんな色になっているが、毛は黒に少し白が混じっている。こちらは体が少し大きかった。体つきから見て、中国系の改良種の血が混じっているかもしれない。
2頭の豚とも、背中がくぼんで、横から見るとアルファベットの「M」のように見える。冒頭のアグーも、心なしかM字っぽい。昔のアグーの写真を見ると、もっとはっきりM字の形をしているものもある。下の写真はベトナムで見た地豚。やはり背中がくぼんでM字に見える。
アジアにはM字の豚があちこちにいるようだ。ラオスの豚もベトナムの豚も、アグーと同じく、ラードタイプの豚とみられる。途上国の田舎では、舎飼いではなく、放し飼い。そこらじゅうを歩き回ってはエサを探している。
アグーは、本来の役割、つまりラード作りに生かした方がいいように思う。アグーの脂の質は非常に優れている。融点が低く、口どけがよい。イベリコ豚と同じように、夏場は常温で脂が溶け出すほど。大げさに言えば、ラード観が変わってしまうくらいの、すっきりした脂だ。
一般の人が最もラードを身近に食べているのは、トンカツ専門店のトンカツだろう。トンカツ専門店のトンカツが香ばしく、サクサクした食感で、うまみが感じられる最大の理由は、揚げ油にラードを使うから。
でも、アグーの高級ラードを、揚げ油として大量に使うのはあまりにもったいない。そのまま食べる料理に使いたい。
例えば、サラミソーセージの白い脂は豚のラードだが、そこにアグーのラードを使ったら、さぞおいしいサラミができるだろう。あるいは、シンプルなキャベツいため。フライパンにアグーのラードをひとさじ入れて加熱し、キャベツをよくいためて塩をふるだけ。加熱されたラードとそれで焼かれたキャベツの香り高さ。あきれるほどうまいはずだ。火を止める前にジャッと醤油をたらせば、ごはんに最高のおかずになる。
万鐘島ぶたのラードも、融点の低さとすっきりした感じはアグーに負けていない。商品化してはいないが、万鐘島ぶたのラードついてはこちらの過去記事をどうぞ。