2012年01月

2012年01月22日

腰を据えてこそ見えてくる熟練の世界

沖縄を創る人 第31回
 大垣精工(株)沖縄工場長 大森正末さん(下)


 リスク分散と、金属加工に最適の摂氏22度を実現しやすい気候。金型製造の大手、大垣精工が沖縄に進出した理由を、工場長の大森正末さんが話してくれた。実際に1年やってみてどうだっただろうか。

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 「人材は非常にいいです。沖縄職業能力開発大学校、通称ポリテクカレッジの卒業生を1人採用しましたが、ものづくりが好きな青年で、一生懸命やっています」

 「間違えずに、正確に作るためには、ひとつの線を通していく論理性の高さが求められるのですが、彼はそれができる」

 「今の沖縄はあまりものづくりのイメージがありませんが、昔はそういう伝統があったと聞きました。米軍支配下では自由なものづくりが許されなかったということなのか、あるいは設備投資の余力がなかったということなのか、そのあたりはまだよく分かりません」

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 ともあれ、一年間、様子を見たところでは、沖縄は金型製造人材の供給については大丈夫、というのが大森さんの結論だ。

 困ったのは材料の確保だった。金型に使われる材料は超硬合金。高価な素材なので、長期の在庫は避けたい。だが、台風が来たりすると交通が乱れて材料が入ってこなくなる。

 この1年は触媒用ハニカム金型の製造だけだったため、使う材料が少量だった。沖縄が製造拠点として「いける」となれば、将来は他の様々な金型を沖縄で製造していくことになる。そうなると、一定のまとまった量の材料を入れることができるようになる。多様な製品を作る段階になった時には、アジアと至近距離にある沖縄の位置が有利に働くかもしれないという。

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 沖縄のコストの安さも強みだろう。大森さんは言う。

 「2000年くらいまでは、世界の金型の半分くらいは日本が作っていたんです。自動車メーカーなどが、海外に製造拠点を移してコストを下げていったので、金型もコストダウンを強いられました。とにかく安くないとダメ、ということなんですね」

 「しかし金型の場合は、人が長い時間をかけて継承していく技術が中核です。職場をどんどん移るのが当たり前のような海外では、人を育てるのがなかなか大変です」

 「国内で、しかも安く」となった時、物価の安い沖縄は有利な位置に立てる可能性があるということだろう。

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 大森さん自身、熊本の中学を卒業後、夜間の学校に通いながら、この道ひとすじでやってきた。じっくりと腰を据え、深く根を下ろしてこそ見えてくる熟練の世界。沖縄の人材が、そのような熟練を要するものづくりに向いているとすれば、沖縄の産業振興の新たな手がかりがそこに見出せるかもしれない。

 [大森正末さんとつながる] まず大森さんが所属する大垣精工のHP。会社の姿に加え、さまざまな製造技術も解説されていて興味深い。上田勝弘社長のインタビュー動画もある。その上田社長が会長を務める日本金型工業会のHPには、金型とは、といった一般的な説明から、輸出統計データまでいろいろな情報が満載だ。例えば、海外に進出した金型企業が世界のどこに立地しているかがグーグルマップで見られたり、10年後の金型産業のあるべき姿を模索した「金型産業ビジョン」なども読める。大垣精工沖縄工場に隣接する沖縄県金型技術研究センターについてはこちらを。 

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2012年01月15日

1ミクロンの精度で金型づくり

沖縄を創る人 第30回
 大垣精工(株)沖縄工場長 大森正末さん(上)


 「これを作っているんです」。大垣精工沖縄工場の大森正末工場長が指さした製品は、びっしりと微細な穴が空いた、見るからに硬質な金属の固まりだった。穴のエッジの鋭さは、この金属の固まりがどれほど精巧に作られたものかをよく物語っている。精度1ミクロン、つまり1000分の1ミリほどの誤差しか許されない。

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 金型(かながた)。自動車やパソコンなどの金属部品、プラスチック部品などを作るための型のこと。大森さんが見せてくれたのは、自動車のマフラーに入っている触媒を作るためのハニカム金型と呼ばれるものだ。この金型から生産される触媒は、自動車や二輪車などが排出する有害な一酸化炭素や窒化酸化物などを浄化し、きれいな空気にする。

 大森さんの工場が作っているのは、触媒それ自体ではなく、触媒を作るための金型だ。金型を発注したユーザーが、精巧な金型からセラミックの素材を押し出して触媒を作っていく。ハニカムというのは、蜂の巣のような六角形の小さな形状が空いている構造で、四角よりも触媒が作用する面が増えて効率が高まる。

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 金型はミクロンの精度が要求されるから、削るにしても、穴を開けるにしても、旋盤やボール盤を手で動かすような方法では作れない。金型の多くはNC(数値制御)で加工する。つまり、機械の動きを座標軸に落とし込んで数値化して機械を動かすのだ。ものづくりと言うと、文字通り、手で何かを作り出すイメージがあるが、高い精度が求められる金型の製造現場はNC加工にならざるをえない。

 加工の際にはいろいろな要素が入り込んでくるから、どういう時に何が起きるか、まさに現場を熟知した技術者がそうした経験をすべてプログラムに織り込んで加減していかねばならない。そこには経験に裏打ちされた熟練と、繊細で緻密な感覚が要求される。

 データだけあればプログラムはできそうに思えるが、さにあらず。日本人ならではの精巧なものづくりを象徴する産業として金型産業がしばしばマスコミに登場する背景には、金型製造特有のこうした特性がある。

 「金型産業は人を育てる必要があります。アジア諸国から研修生をたくさん受け入れてきましたが、彼らはどんどん会社を移る。金型を作る会社の立場からすると、せっかく人を育ててもすぐにどこかに行ってしまうのでは困るわけです」と大森さん。

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 大垣精工は金型製造の大手で、上田勝弘社長は日本金型工業会会長として全国591社をリードする存在だ。その大垣精工がなぜ沖縄に進出したのだろうか。大森さんが言う。

 「まずリスク分散です」

 岐阜の本社で長らく操業してきた同社は、リスク分散のため、まず長崎に工場を作り、次いで昨年1月、沖縄に工場を作った。地震などの天災や原発災害が決して言葉だけのものではないことは、昨年3月以降、ほとんどすべての日本人が自覚したところだ。

 「例えば、うちのハードディスクのサスペンション部品は、日本で2社、世界で4社しか製造技術を持たない超精密部品です」

 もし製造拠点が1カ所に集中していて、そこが災害でやられたら、その影響ははかり知れない。東北のものづくり拠点の被災が、世界の自動車産業を停滞させたことは記憶に新しい。沖縄は地震が比較的少ないのがリスク分散上の魅力になっている。

 加えて、沖縄の温暖な自然環境が金型づくりに向いている面も見逃せない。

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 「材料金属の安定的な加工には摂氏22度が最適です。本土では寒い時期には2度、3度になるので、22度にするにはかなりの暖房費がかかります。沖縄は寒くても13度とか14度でしょう」

 「夏も、本土だったら38度になったりしますが、沖縄は33度くらいにしかなりません」

 加工をする部屋は「恒温室」と呼ばれ、室温が22度プラスマイナス1度に保たれている。沖縄なら、それほどコストをかけずに「22度」を周年実現できるというわけだ。

 続きは1/22(日)に。


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2012年01月08日

家族に支えられ、ラオスで人材育成

沖縄を創る人 第29回
 アイ・シー・ネット(株)コンサルタント 平良那愛さん(下)


 タイの小中高校での計2年間の教員生活、オーストラリアの大学院でマイノリティーの研究、結婚と出産を経て、20代後半だった平良那愛さんは、ODAプロジェクトの現場を担う途上国開発コンサルタントとして働き始めた。

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 途上国開発コンサルタントとは、どんなことをするのだろうか。

 「日本のODAの実施機関であるJICA(国際協力機構)などから委託されて、プロジェクトの現場を動かします」と平良さん。

 JICAはODAプロジェクトを計画し、予算を確保するが、JICAの職員自身が現場に貼り付くわけではない。実際に現場で走り回ってプロジェクトを推進する人々がいる。彼らは農業、教育、保健、インフラ整備などの各分野の官民の専門家で、その一翼を担うのが途上国開発コンサルタントというわけだ。

 アイ・シー・ネットに入社した平良さんの最初の赴任地はラオスだった。ラオスは、タイの東隣りに位置する内陸国。経済成長著しいアセアン諸国の中では最も貧しい国に属する。

 社会文化面はタイとの共通点が多い。言葉もタイ語がかなり通じる。

 平良さんが従事したODAプロジェクトは、ラオス行政官の公共事業に関する能力向上を目指すものだった。平良さんは、インフラ整備などの公共事業計画をどのように審査すればいいか、その方法などを、中央の関係省庁、地方の関係機関などで研修した。

 「南から北まで、すべての県を回りました」

 ラオスは全国で4000件の公共事業が実施されているが、事業の計画・審査からモニタリング評価までの運営監理システムが整備されていないこと、資源配分や事業の優先度付け、実施監理・評価が適切に行われていないことが課題だった。

 平良さんはコンサルタントチームのメンバーとともに、研修の計画を作り、教材を準備し、全国を回って行政官を相手に研修を続けた。地道な作業だが、ラオスがこれから発展していくには不可欠の取り組みといえる。

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 平良さんのそんな仕事を支えてくれるのが、家族。日本で知り合った中国人の夫は、平良さんの赴任とともに、ラオスについてきてくれた。

 「毎日、身近で励ましてくれる家族がいるというのは本当にすばらしいこと。子供の成長と一緒のキャリア形成ってステキじゃないですか」

 地方出張などでビエンチャンの自宅を留守にすることも多い。留守中、長男は夫がみてくれるが、事業家の夫も忙しい。そんな平良さん一家を支えてくれる人たちがいる。

 「ラオス人の”家族”がいるんです」

 借りている家の家主は、自分の兄弟たちの各所帯とともに、一つの敷地に家を持っている。平良さん一家は、家主ファミリー総勢3所帯が一緒に住んでいる一部を借りた。この3所帯+平良さん一家は、互いの玄関を開け放ち、子供たちはどこの家にも出入りして遊んだり、ごはんを食べさせてもらったりする家族のような関係だ。

 少し前までの沖縄の農村部と同じように、平良さんの長男は、自分の家だけでなく、この3つの家族の間で大きくなった。このラオス人"家族”は、平良さんが不在の時に何でも頼める心強い存在といえる。

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 平良さんはもっと子供が欲しい、と話す。

 「双子がいいですよね」

 アジアの気候や人の感じは沖縄に似ている、植物が一緒だし、空気感も似ている、と平良さん。

 「マレーシアの空港に降り立った時、ふるさとに帰った時のような波長を感じたことがあります」

 タイに惚れ込み、ラオスで人材育成に励む平良さんの根っこには、やはり沖縄で培われた感覚が息づいているようだ。

 [平良那愛さんとつながる] 平良さんが携わっているラオスのODAプロジェクトについてはJICAのHPが詳しい。こちらは、平良さんが所属するアイ・シー・ネット株式会社のHP

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2012年01月01日

体全部でタイを大好きに

沖縄を創る人 第28回
アイ・シー・ネット(株)コンサルタント 平良那愛さん(上)


 政府や国際機関が、開発途上国でさまざまな支援事業を行うODAプロジェクト。その現場を担うのが途上国開発コンサルタントと呼ばれる人々だ。平良さんは、専門の教育・人材育成に関するプロジェクトのスタッフや調査員として、途上国の現場で働いている。

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 平良さんは浦添の出身。中学3年から高校3年までの間は、父の転勤に伴って宮崎で過ごし、大学は首都圏へ。大学時代に、タイの学校で高校生に日本語を教えるボランティアをやったのが途上国との付き合いの始まりだった。

 先輩の勧めでボランティアに応募した。赴任して1カ月半ほどしたある夜。ベッドで、突然、とめどなく涙があふれてきた。

 「見るもの聞くもの、タイのすべてが素晴らしいと感じながら毎日を過ごしていました。五感全部が反応していたんですね。それこそ、臭いにも、味にも」

 感動のシャワーを毎日浴びていたのが徐々にたまってきて、それが、大粒の涙になってあふれ出たのだった。体全部でタイが心底好きになってしまったらしい。

 タイで働きたい―。大学卒業後は、とにかくタイで働く道はないか、そればかり考えた。

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 ボランティアで教えていたあの学校に働き口がないか。大学の恩師が「聞いてみたらいいんじゃないか」と言った。そううまい話はないだろうとは思ったが、ダメもとで電話をかけてみた。

 「仕事の口、何かありますかって聞いたら、ちょうどあるよ、って言われたんです」

 日本語教育のカリキュラムがなかったので作ってほしい、とのこと。うそのようなラッキーな話だった。二つ返事で引き受けた。

 タイでの教師生活は充実していた。赴任先の大学の附属学校は小中高一貫教育の完全独立採算で、学校の経費はすべて親が支払う授業料で賄われていた。つまり授業料はとても高く、それが払える富裕層の子弟が集まる学校だった。親の中には、リゾート地で名高いプーケット島やサムイ島に5つ星ホテルを何軒も経営している人もいた。

 充実した毎日だったが、時が経つにつれて、異なる世界をかいま見るようになった。きらびやかなデパートの入口には体の不自由な人が座り込んでいた。学校の近くにはスラム街もあった。経済成長著しいタイとはいえ、貧富の格差はまだまだ大きく、恵まれない境遇にいる人もたくさんいた。

 「いろいろな人に、どう思う?って聞いてみたんです」

 答えはさまざまだったが、仏教国タイでは、厳しい生活を強いられている人はそういう運命にある、という運命論を語る人が多かった。平良さんは、そういう受け止め方にどこか違和感を感じた。

 「このままここにいるのかな。ちょっと違うかな」。平良さんは自問し始めた。

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 2年間のタイでの教師生活を終えた後、平良さんは改めて途上国の社会開発を学び直そうとオーストラリアの大学院に留学した。そこではマイノリティーと開発の接点を研究した。

 「やはり沖縄出身であることがマイノリティーに関心を持つ背景にあったと思います」と平良さん。

 宮崎時代には、いじめられたりすることはなかったが、「沖縄って裸足なんでしょう」と言われたりしたこともあった。別のクラスから好奇心で平良さんを見にくる生徒もいた。 

 大学院を修了して日本に戻ってから、結婚し、出産。出産の後まもなく、途上国の開発プロジェクトを受託するコンサルティング会社の門を叩いた。


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