2013年11月
2013年11月19日
百十踏揚、勝連の阿摩和利に嫁ぐ
勝連城の歴史ロマン、その3回目。いよいよ百十踏揚(ももと・ふみあがり)が勝連城の阿摩和利のもとに嫁ぎます。テキストは、与並岳生「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。
(嫁ぐ百十踏揚が上陸した南風原の港を勝連城の頂上から見る)
「お国の花」と讃えられるほどに美しく成長した百十踏揚(ももと・ふみあがり)。踏揚は、父の琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)にとって、目の中に入れても痛くない愛娘でした。
その一方、首里王府は、第1回で書いた志魯・布里の乱で焼失した首里城をようやく再建して、面目を保ちながらどうにか明の冊封使を迎え入れるなど、乱れた国を必死で安定させようとしていました。
首里にとっての不安要因は、なんといっても勝連でした。独自の海外貿易で大きな財をなし、天下をうかがう阿摩和利の力を首里は本気で恐れていたのです。
尚泰久の懐刀だった重臣の金丸は、いくさを避け、平和裏に勝連を抑えるには、王女の百十踏揚を阿摩和利に嫁がせるしかないと尚泰久に進言します。政略結婚です。
尚泰久は悩みますが、国の安定のために私情を捨て、意を決して、百十踏揚に勝連に嫁ぐよう言います。
天下をも狙っている梟雄(きょうゆう=悪党の首領)などと言われている阿摩和利。百十踏揚は、しかし、健気にもこれを受け入れました(阿摩和利の妻だった前按司の娘は、転落死した父の後を追って身投げしていました)。
1456年の春ーー。吉日を選んで、朝日の中を輿入れ行列が首里城を出発します。総勢200人あまりの、絵巻のような行列は、首里から東進して与那原へ。与那原の港で、迎えに来ていた勝連の輿入れ船に乗り、海路、勝連に向かいます。
船が着いたのは、勝連南風原(かつれん・はえばる)の港。そこで南風原親方の出迎えを受けた後、百十踏揚一行は、目の前にそびえ立つ勝連城に向かいます。勝連城には正門の南風原御門(はえばる・うじょう)から入りました(南風原港から南風原御門までの道は、ちょうどももと庵の目の前。下の地図をごらん下さい)。
南風原御門をくぐった先の広い城庭の中央に、豪華な金襴衣装をまとった阿摩和利が待っていました。
輿が下ろされ、踏揚が降り立つと、ほう……、というどよめきが。「お国の花」と讃えられる百十踏揚のあでやかさに、居並ぶ人々は目を奪われたようでした。
いよいよ2人が初めて顔を合わせる場面。与並さんの著書から引用させていただきましょう。
(とうとう、来た……)
もはや、引き返せない気持ちで、踏揚は輿の前に立った。ここまで来たら、覚悟を決めるほかないのだが……、それでもまだ、目を上げる勇気はなかった。
眼前には、その人――阿摩和利按司がいるはずだ。
どんなお姿の方であろうか……。恐れと期待に身が震えてくるのを抑えきれなかった。
(中略)
ひたひた……という、迫ってくる気配を感じた。
それが止まった。
踏揚は身を固くした。
「阿摩和利でござる。遠路、ご苦労でござった」
いきなり、声が落ちた。邪気の声……を聞くのではないかと、恐ろしい思いに息を詰めていたのだが、意外にも、涼やかな声であった。
天下を狙う梟雄とうわさされていた阿摩和利です。さぞや荒々しい怖い顔だろう、黒々としたひげをたくわえた厳めしい顔立ちに違いない、と想像していた百十踏揚。ところがーー
目の前に立っていたその人は、意外にも若々しく、口髭は立ててはいるものの、顎髭もなく、火に焼けた精悍な顔立ちながら、照れたような微笑を湛えて、何となく優しさを漂わせていたのである。
(まさか、このお方が……)
と、疑う気持ちさえ湧いた。
(踏揚が入った勝連城正門「南風原御門」跡付近から太平洋を臨む)
勝連は田舎だが、みな踏揚の輿入れを喜んでいるので、どうぞ気を楽にしてお過ごし下さい、と阿摩和利は踏揚に語りかけます。
王女に対する敬いを込めた言葉遣いながら、言葉は何だかブツ切りに、調子っぱずれだった。
「はい……」
と、踏揚は答えたが、心はすっかり和んでいた。
(こんなお方だったのだわ……)
安堵感が湧いた。
こうして勝連城での阿摩和利と百十踏揚の新しい生活が始まったのでした。
与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン、楽天、セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。
(嫁ぐ百十踏揚が上陸した南風原の港を勝連城の頂上から見る)
「お国の花」と讃えられるほどに美しく成長した百十踏揚(ももと・ふみあがり)。踏揚は、父の琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)にとって、目の中に入れても痛くない愛娘でした。
その一方、首里王府は、第1回で書いた志魯・布里の乱で焼失した首里城をようやく再建して、面目を保ちながらどうにか明の冊封使を迎え入れるなど、乱れた国を必死で安定させようとしていました。
首里にとっての不安要因は、なんといっても勝連でした。独自の海外貿易で大きな財をなし、天下をうかがう阿摩和利の力を首里は本気で恐れていたのです。
尚泰久の懐刀だった重臣の金丸は、いくさを避け、平和裏に勝連を抑えるには、王女の百十踏揚を阿摩和利に嫁がせるしかないと尚泰久に進言します。政略結婚です。
尚泰久は悩みますが、国の安定のために私情を捨て、意を決して、百十踏揚に勝連に嫁ぐよう言います。
天下をも狙っている梟雄(きょうゆう=悪党の首領)などと言われている阿摩和利。百十踏揚は、しかし、健気にもこれを受け入れました(阿摩和利の妻だった前按司の娘は、転落死した父の後を追って身投げしていました)。
1456年の春ーー。吉日を選んで、朝日の中を輿入れ行列が首里城を出発します。総勢200人あまりの、絵巻のような行列は、首里から東進して与那原へ。与那原の港で、迎えに来ていた勝連の輿入れ船に乗り、海路、勝連に向かいます。
船が着いたのは、勝連南風原(かつれん・はえばる)の港。そこで南風原親方の出迎えを受けた後、百十踏揚一行は、目の前にそびえ立つ勝連城に向かいます。勝連城には正門の南風原御門(はえばる・うじょう)から入りました(南風原港から南風原御門までの道は、ちょうどももと庵の目の前。下の地図をごらん下さい)。
南風原御門をくぐった先の広い城庭の中央に、豪華な金襴衣装をまとった阿摩和利が待っていました。
輿が下ろされ、踏揚が降り立つと、ほう……、というどよめきが。「お国の花」と讃えられる百十踏揚のあでやかさに、居並ぶ人々は目を奪われたようでした。
いよいよ2人が初めて顔を合わせる場面。与並さんの著書から引用させていただきましょう。
(とうとう、来た……)
もはや、引き返せない気持ちで、踏揚は輿の前に立った。ここまで来たら、覚悟を決めるほかないのだが……、それでもまだ、目を上げる勇気はなかった。
眼前には、その人――阿摩和利按司がいるはずだ。
どんなお姿の方であろうか……。恐れと期待に身が震えてくるのを抑えきれなかった。
(中略)
ひたひた……という、迫ってくる気配を感じた。
それが止まった。
踏揚は身を固くした。
「阿摩和利でござる。遠路、ご苦労でござった」
いきなり、声が落ちた。邪気の声……を聞くのではないかと、恐ろしい思いに息を詰めていたのだが、意外にも、涼やかな声であった。
天下を狙う梟雄とうわさされていた阿摩和利です。さぞや荒々しい怖い顔だろう、黒々としたひげをたくわえた厳めしい顔立ちに違いない、と想像していた百十踏揚。ところがーー
目の前に立っていたその人は、意外にも若々しく、口髭は立ててはいるものの、顎髭もなく、火に焼けた精悍な顔立ちながら、照れたような微笑を湛えて、何となく優しさを漂わせていたのである。
(まさか、このお方が……)
と、疑う気持ちさえ湧いた。
(踏揚が入った勝連城正門「南風原御門」跡付近から太平洋を臨む)
勝連は田舎だが、みな踏揚の輿入れを喜んでいるので、どうぞ気を楽にしてお過ごし下さい、と阿摩和利は踏揚に語りかけます。
王女に対する敬いを込めた言葉遣いながら、言葉は何だかブツ切りに、調子っぱずれだった。
「はい……」
と、踏揚は答えたが、心はすっかり和んでいた。
(こんなお方だったのだわ……)
安堵感が湧いた。
こうして勝連城での阿摩和利と百十踏揚の新しい生活が始まったのでした。
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2013年11月13日
阿摩和利、誕生!
勝連城の歴史ロマン、第2回は、主役の百十踏揚(ももと・ふみあがり)にちょっと休んでもらい、後に踏揚の夫となる勝連城主の阿摩和利(あまわり)について書きましょう。前回同様、テキストは与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。
阿摩和利の幼名は加那(かな)。現在の嘉手納で貧しい農家に私生児として生まれ、生母は「お前の父上様はさる高貴なお方」というナゾめいた言葉を残して、加那5歳の時に若くして没します。
加那は叔父一家に引き取られますが、ここも極貧。10歳前後で山の中に捨てられ、ついに放浪の身となりました。
川で魚を獲ったり、草の根を食べて飢えをしのぎながら、放浪を続けた加那。ヤマト(今の日本の本土)に向かう勝連船をあこがれをもって見ていたといいます。
14歳の時、その勝連に流れ着き、屋慶名(やけな)の港で船子として雇われました(屋慶名は、人気バンドYHのふるさとですね)。
16歳で初めてヤマト行きの船に乗り、京、鎌倉の華やかさに刺激を受けます。
勝連に戻った加那は、新しい工夫の漁網を開発するなどして、勝連での名声を高めていきました。やがて勝連城の重臣だった屋慶名親方に目をかけられ、その配下になります。武芸でも才能を見せました。
当時の勝連城主は茂知附按司(もちづき・あじ)。按司とは、地方のある領域に君臨する豪族、首長のことです。屋慶名親方のお供で茂知附按司に会った加那は、すっかり按司に気に入られ、後継者がいなかった按司から娘婿になるよう促されます。
茂知附按司は、海賊であり貿易商人でもあった倭冦の出身といわれ、当時の人脈を生かして貿易を振興し、勝連を繁栄に導きました。
しかし、その繁栄ぶりがやがて奢りを生み、茂知附は次第に、周囲の声を聞こうとしない独裁者になっていきました。晩年は酒びたりの日々だったといいます。
中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)、越来(ごえく)の尚泰久(しょう・たいきゅう)、江洲(えす)の尚布里(しょう・ふり)。この3者ににらまれ、いつ攻め入られてもおかしくない勝連は、それでも一定の緊張が続きました。
ところが、首里で国王が相次いで亡くなります。首里が勝連にかまっている余裕がなくなると、勝連の緊張も緩んでいきました。
ある月夜の晩。月見の宴で茂知附按司はしたたか酒に酔い、家臣が止めるのも聞かず、城壁の上によじ登り、バランスを失って自ら転落死してしまいました。
既に娘婿として「若按司」と呼ばれていた加那は、茂知附亡き後、勝連の按司となったのでした。
その際、按司らしい名前を、と屋慶名親方と南風原親方があれこれ考えます。「天から降ってきた若者」との茂知附按司の言葉をヒントに、あまうぃ(天降り)、それをさらに人名らしく「あまわり」とし、「阿摩和利」の字を当てました。
20代後半の若さと幼少時代の苦労を原動力に、阿摩和利は按司として激しく働き、勝連の繁栄を推し進めます。貿易のさらなる振興、港湾の整備、農業灌漑用のため池建設、農地の開墾、漁業の振興ー。
古謡おもろに、次のような意味の歌があります。
勝連の阿摩和利按司様は、立派な金の御杓(神具、権威の象徴)をお持ちだぞ。
このことを高らかに告げて、京、鎌倉までも誇ろうぞ。
肝高の阿摩和利按司様は、島を治める偉大な按司様ぞ、国を治める立派な按司様ぞ(与並岳生「琉球王女・百十踏揚」p.194)
後の首里王府とのいくさに破れた後、「逆臣」の汚名を着せられた阿摩和利は、琉球王国の正史の中で悪く描かれ続けてきました。
しかし、おもろに歌われている阿摩和利の功績を讃えるいくつかの歌の存在や、阿摩和利時代のものを含むおびただしい数の海外貿易品の勝連城跡からの出土によって、阿摩和利は勝連を大いに繁栄させ、人々の尊敬を集めた名按司だったとの理解が広がってきました。与並さんの著書も、そのような視点で書かれています。
与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン、楽天、セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。
阿摩和利の幼名は加那(かな)。現在の嘉手納で貧しい農家に私生児として生まれ、生母は「お前の父上様はさる高貴なお方」というナゾめいた言葉を残して、加那5歳の時に若くして没します。
加那は叔父一家に引き取られますが、ここも極貧。10歳前後で山の中に捨てられ、ついに放浪の身となりました。
川で魚を獲ったり、草の根を食べて飢えをしのぎながら、放浪を続けた加那。ヤマト(今の日本の本土)に向かう勝連船をあこがれをもって見ていたといいます。
14歳の時、その勝連に流れ着き、屋慶名(やけな)の港で船子として雇われました(屋慶名は、人気バンドYHのふるさとですね)。
16歳で初めてヤマト行きの船に乗り、京、鎌倉の華やかさに刺激を受けます。
勝連に戻った加那は、新しい工夫の漁網を開発するなどして、勝連での名声を高めていきました。やがて勝連城の重臣だった屋慶名親方に目をかけられ、その配下になります。武芸でも才能を見せました。
当時の勝連城主は茂知附按司(もちづき・あじ)。按司とは、地方のある領域に君臨する豪族、首長のことです。屋慶名親方のお供で茂知附按司に会った加那は、すっかり按司に気に入られ、後継者がいなかった按司から娘婿になるよう促されます。
茂知附按司は、海賊であり貿易商人でもあった倭冦の出身といわれ、当時の人脈を生かして貿易を振興し、勝連を繁栄に導きました。
しかし、その繁栄ぶりがやがて奢りを生み、茂知附は次第に、周囲の声を聞こうとしない独裁者になっていきました。晩年は酒びたりの日々だったといいます。
中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)、越来(ごえく)の尚泰久(しょう・たいきゅう)、江洲(えす)の尚布里(しょう・ふり)。この3者ににらまれ、いつ攻め入られてもおかしくない勝連は、それでも一定の緊張が続きました。
ところが、首里で国王が相次いで亡くなります。首里が勝連にかまっている余裕がなくなると、勝連の緊張も緩んでいきました。
ある月夜の晩。月見の宴で茂知附按司はしたたか酒に酔い、家臣が止めるのも聞かず、城壁の上によじ登り、バランスを失って自ら転落死してしまいました。
既に娘婿として「若按司」と呼ばれていた加那は、茂知附亡き後、勝連の按司となったのでした。
その際、按司らしい名前を、と屋慶名親方と南風原親方があれこれ考えます。「天から降ってきた若者」との茂知附按司の言葉をヒントに、あまうぃ(天降り)、それをさらに人名らしく「あまわり」とし、「阿摩和利」の字を当てました。
20代後半の若さと幼少時代の苦労を原動力に、阿摩和利は按司として激しく働き、勝連の繁栄を推し進めます。貿易のさらなる振興、港湾の整備、農業灌漑用のため池建設、農地の開墾、漁業の振興ー。
古謡おもろに、次のような意味の歌があります。
勝連の阿摩和利按司様は、立派な金の御杓(神具、権威の象徴)をお持ちだぞ。
このことを高らかに告げて、京、鎌倉までも誇ろうぞ。
肝高の阿摩和利按司様は、島を治める偉大な按司様ぞ、国を治める立派な按司様ぞ(与並岳生「琉球王女・百十踏揚」p.194)
後の首里王府とのいくさに破れた後、「逆臣」の汚名を着せられた阿摩和利は、琉球王国の正史の中で悪く描かれ続けてきました。
しかし、おもろに歌われている阿摩和利の功績を讃えるいくつかの歌の存在や、阿摩和利時代のものを含むおびただしい数の海外貿易品の勝連城跡からの出土によって、阿摩和利は勝連を大いに繁栄させ、人々の尊敬を集めた名按司だったとの理解が広がってきました。与並さんの著書も、そのような視点で書かれています。
与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン、楽天、セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。
2013年11月07日
百十踏揚、誕生!
ももと庵の目の前にドーンと迫る世界遺産・勝連城跡。「勝連城の歴史ロマン」と地元ではよく言うのですが、いったいどんな歴史だったのでしょうか。ハイライトと言える15世紀の勝連城歴史ロマンのさわりを、何回かに分けて書いてみたいと思います。
主役は、琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘にして、勝連城主の阿麻和利(あまわり)に嫁いだ百十踏揚(ももと・ふみあがり)。
ももと庵のご本尊ともいうべき、百十踏揚の波瀾の生涯を描いた与並岳生さんの歴史小説「琉球王女・百十踏揚」がテキストです。むろんこの本は歴史小説。与並さんの深い歴史的学識と豊かな想像力によって構成されています。
著者の与並岳生さんにお願いして、今回は特別に引用の許可をいただきました。ありがとうございます。
初めて琉球を統一した尚巴志(しょう・はし)の7男で、当時、越来(ごえく)城主だった尚泰久(しょう・たいきゅう)。百十踏揚(ももと・ふみあがり)は、その長女として1440年ごろに生まれました。
幼名は真鶴金(まづるがね)。母の正室は、勇猛果敢な武将としてその名をとどろかせた護佐丸(ごさまる)の娘でした。
今の沖縄市のコザ十字路近くにあった越来城周辺は、当時は全くの農村。そんなところでのびのび育った真鶴金に、人生最初の一大転機が訪れます。
時は1453年。首里の琉球国王、尚金福が病死した後、王位をめぐり、王子志魯(しろ)と王弟布里(ふり)との間に争いが起きます。これが、最後には城内での衝突に発展。
与並さんの著書では、冷静さを失った志魯が城に火を放ち、その結果、首里城は焼失してしまいました。志魯は布里側に殺され、布里も王子に手をかけた罪を問われ、首里を追われます。
志魯には9歳になる子がいましたが、乱れた琉球王朝を立て直すには無理、との家臣団の強い意見で、王弟だった尚泰久が王に即位したのです。
こうして、娘の真鶴金も、越来城から首里城に移り住み、王女の立場となりました。
琉球では、神事祭祀を司るのはすべて女性です。
1456年、真鶴金に神名が授けられ、神女の資格が与えられました。この神名のことで、尚泰久王にはひとしおの思い入れがあったようです。
古謡「おもろ」の言葉から選びぬいた真鶴金の神名が「百十踏揚(ももと・ふみあがり)」でした。
百十は、百に十を重ねる、つまりいついつまでも末永く、という意味。踏揚は「気高い」とか「栄える」の意です。
神名を授ける儀式が、首里城内でとり行われました。
踏揚は、白絹の胴衣下裳に白麻の神衣装をまとい、洗い髪を腰まで長々と流して、同じく白麻の神衣装を着けた母の王妃に伴われて首里城の京の内に入ります。
高位の神女である首里大君が長いミセセル(託宣)を唱えた後、おもろを歌い、それに合わせて踏揚の神舞いが始まります。引用文中に出てくる「思戸(うみと)」は百十踏揚の世話係の女官です。
舞いゆく踏揚の白い神衣装が、樹々の中を吹き抜ける涼風に、ゆるやかにひるがえり、木漏れ日の中を白く舞い流れていく様は、あたかも、白い蝶が、ひらひらと舞い流れていくようであった。
その神舞いは首里大君がじきじきに手ほどきしたものだったが、天性であろうか、踏揚の舞いはまこと、神々しいまでの美しさで、王妃も、女官たちも、また居並ぶ神女たちも、その清らかで優美な舞いを、うっとりと見上げ、思戸もただ心奪われて、見惚れているばかりであった。
おもろは続いていくーー。
百十踏揚や
あためとも 愛しや
又君の踏揚や・・・
ーー踏揚は舞い続ける。
見上げる思戸は、その美しさ、神々しさに、胸が熱く込み上げ、涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。[同書p.89-90]
こうして真鶴金は、名実ともに百十踏揚となったのです。踏揚、15歳のことでした。
与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はセブンネット、アマゾン、楽天などでお求め下さい。ももと庵でも扱っています。読み始めたら眠れません。
主役は、琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘にして、勝連城主の阿麻和利(あまわり)に嫁いだ百十踏揚(ももと・ふみあがり)。
ももと庵のご本尊ともいうべき、百十踏揚の波瀾の生涯を描いた与並岳生さんの歴史小説「琉球王女・百十踏揚」がテキストです。むろんこの本は歴史小説。与並さんの深い歴史的学識と豊かな想像力によって構成されています。
著者の与並岳生さんにお願いして、今回は特別に引用の許可をいただきました。ありがとうございます。
初めて琉球を統一した尚巴志(しょう・はし)の7男で、当時、越来(ごえく)城主だった尚泰久(しょう・たいきゅう)。百十踏揚(ももと・ふみあがり)は、その長女として1440年ごろに生まれました。
幼名は真鶴金(まづるがね)。母の正室は、勇猛果敢な武将としてその名をとどろかせた護佐丸(ごさまる)の娘でした。
今の沖縄市のコザ十字路近くにあった越来城周辺は、当時は全くの農村。そんなところでのびのび育った真鶴金に、人生最初の一大転機が訪れます。
時は1453年。首里の琉球国王、尚金福が病死した後、王位をめぐり、王子志魯(しろ)と王弟布里(ふり)との間に争いが起きます。これが、最後には城内での衝突に発展。
与並さんの著書では、冷静さを失った志魯が城に火を放ち、その結果、首里城は焼失してしまいました。志魯は布里側に殺され、布里も王子に手をかけた罪を問われ、首里を追われます。
志魯には9歳になる子がいましたが、乱れた琉球王朝を立て直すには無理、との家臣団の強い意見で、王弟だった尚泰久が王に即位したのです。
こうして、娘の真鶴金も、越来城から首里城に移り住み、王女の立場となりました。
琉球では、神事祭祀を司るのはすべて女性です。
1456年、真鶴金に神名が授けられ、神女の資格が与えられました。この神名のことで、尚泰久王にはひとしおの思い入れがあったようです。
古謡「おもろ」の言葉から選びぬいた真鶴金の神名が「百十踏揚(ももと・ふみあがり)」でした。
百十は、百に十を重ねる、つまりいついつまでも末永く、という意味。踏揚は「気高い」とか「栄える」の意です。
神名を授ける儀式が、首里城内でとり行われました。
踏揚は、白絹の胴衣下裳に白麻の神衣装をまとい、洗い髪を腰まで長々と流して、同じく白麻の神衣装を着けた母の王妃に伴われて首里城の京の内に入ります。
高位の神女である首里大君が長いミセセル(託宣)を唱えた後、おもろを歌い、それに合わせて踏揚の神舞いが始まります。引用文中に出てくる「思戸(うみと)」は百十踏揚の世話係の女官です。
舞いゆく踏揚の白い神衣装が、樹々の中を吹き抜ける涼風に、ゆるやかにひるがえり、木漏れ日の中を白く舞い流れていく様は、あたかも、白い蝶が、ひらひらと舞い流れていくようであった。
その神舞いは首里大君がじきじきに手ほどきしたものだったが、天性であろうか、踏揚の舞いはまこと、神々しいまでの美しさで、王妃も、女官たちも、また居並ぶ神女たちも、その清らかで優美な舞いを、うっとりと見上げ、思戸もただ心奪われて、見惚れているばかりであった。
おもろは続いていくーー。
百十踏揚や
あためとも 愛しや
又君の踏揚や・・・
ーー踏揚は舞い続ける。
見上げる思戸は、その美しさ、神々しさに、胸が熱く込み上げ、涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。[同書p.89-90]
こうして真鶴金は、名実ともに百十踏揚となったのです。踏揚、15歳のことでした。
与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はセブンネット、アマゾン、楽天などでお求め下さい。ももと庵でも扱っています。読み始めたら眠れません。
2013年11月01日
カンプーのそっくりさん
前回は、江戸時代の女性の髪をほうふつとさせるラオス女性の髪のまとめ方について書きました。今回は沖縄女性のヘアスタイルです。
伝統的とされる沖縄女性の髪型は、民謡歌手が今でもやっています。人気のネーネーズに登場してもらいましょう。
長い髪をまとめてくるくると巻いて、ほぼ頂上の部分にポンと乗せたヘアスタイル。こういう髪型にすることを沖縄では「カンプーを結う」と言います。最近はやりの琉装による結婚式でも、花嫁さんはカンプーを結って登場します。
もっとも、これをやるには、かなり長い髪が必要です。実際、ほどいた時に腰のあたりまで長さがないと、うまくカンプーが結えない、と聞きました。
現代の沖縄女性は、腰までの長い髪の持ち主はむしろ少ないので、カンプーを結う人の多くは、人工の髪を自髪の先につけてから結い上げるのだそうです。
さて、次にこの写真。カンプーと似ていますが、沖縄ではありません。
これ、ラオス北部の中国国境に近いところに住む少数民族の女性です。長い髪をまとめてくるくると巻き、頂上付近にポン、というあたり、沖縄のカンプーそっくり。
沖縄ではジーファーと呼ばれるかんざしを差して髪を止めるのですが、こちらも、銀の丸い飾りのついた何かで髪を止めているのが分かります。
ラオス北部の少数民族と沖縄に直接の接点があるとは思えません。腰まであるような長い髪をまとめようとすると似たようなやり方になる、ということなのかもしれませんね。
伝統的とされる沖縄女性の髪型は、民謡歌手が今でもやっています。人気のネーネーズに登場してもらいましょう。
長い髪をまとめてくるくると巻いて、ほぼ頂上の部分にポンと乗せたヘアスタイル。こういう髪型にすることを沖縄では「カンプーを結う」と言います。最近はやりの琉装による結婚式でも、花嫁さんはカンプーを結って登場します。
もっとも、これをやるには、かなり長い髪が必要です。実際、ほどいた時に腰のあたりまで長さがないと、うまくカンプーが結えない、と聞きました。
現代の沖縄女性は、腰までの長い髪の持ち主はむしろ少ないので、カンプーを結う人の多くは、人工の髪を自髪の先につけてから結い上げるのだそうです。
さて、次にこの写真。カンプーと似ていますが、沖縄ではありません。
これ、ラオス北部の中国国境に近いところに住む少数民族の女性です。長い髪をまとめてくるくると巻き、頂上付近にポン、というあたり、沖縄のカンプーそっくり。
沖縄ではジーファーと呼ばれるかんざしを差して髪を止めるのですが、こちらも、銀の丸い飾りのついた何かで髪を止めているのが分かります。
ラオス北部の少数民族と沖縄に直接の接点があるとは思えません。腰まであるような長い髪をまとめようとすると似たようなやり方になる、ということなのかもしれませんね。