2011年06月19日
父娘の歴史が交錯する米軍基地を眼下に
沖縄を創る人 第23回
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。