2013年06月14日
今もこんこんと水が湧く浜川ガー
勝連城跡の周辺にはいくつかの歴史スポットがあります。ももと庵に近いところでは、ももと庵の正面から下に降りる細い坂道を行った先に、「浜川ガー」があります。ガーというのは沖縄語で湧き水のこと。
勝連城の7代目城主だった浜川按司には、真鍋樽(マナンダルー)という名の娘がいました。絶世の美女、と言われたマナンダルーの髪は、身長の1.5倍もの長さだったといいます。マナンダルーはこの浜川ガーで、棹に髪をかけながら髪を洗ったのだそうです。
7代目城主ですから、首里と対峙することになる10代目城主の阿麻和利の時代より少し前です。14世紀の終わりか15世紀の初め頃でしょうか。
このガー、ひんやりした水が今もこんこんと湧いています。流れ出した水は周辺の畑の灌水などにも使われています。
マナンダルーの話が15世紀初めとしても、既に600年以上が経過しています。もちろん、マナンダルーの逸話がその頃ということで、ガーそれ自体はもっと以前から湧いていたと考える方が自然でしょう。となると、このガーには700年、800年という長い歴史があることになります。いやそれ以上かも。
この間に、アジア貿易で繁栄していた勝連は首里の琉球王朝に滅ぼされ、その琉球王朝は明治の日本に滅ぼされ、日本になった沖縄は今度は沖縄戦でアメリカにやられました。
そんな激動の歴史の中でも、この水はおそらく止むことなくずっと湧き続けていて、人々の毎日の暮らしを潤してきたわけですね。
時が止まったような静かなガーで、ひんやりとした湧き水に手をひたしながら、そんなことをつらつら考えていると、何とも不思議な感覚に陥ります。
勝連城の7代目城主だった浜川按司には、真鍋樽(マナンダルー)という名の娘がいました。絶世の美女、と言われたマナンダルーの髪は、身長の1.5倍もの長さだったといいます。マナンダルーはこの浜川ガーで、棹に髪をかけながら髪を洗ったのだそうです。
7代目城主ですから、首里と対峙することになる10代目城主の阿麻和利の時代より少し前です。14世紀の終わりか15世紀の初め頃でしょうか。
このガー、ひんやりした水が今もこんこんと湧いています。流れ出した水は周辺の畑の灌水などにも使われています。
マナンダルーの話が15世紀初めとしても、既に600年以上が経過しています。もちろん、マナンダルーの逸話がその頃ということで、ガーそれ自体はもっと以前から湧いていたと考える方が自然でしょう。となると、このガーには700年、800年という長い歴史があることになります。いやそれ以上かも。
この間に、アジア貿易で繁栄していた勝連は首里の琉球王朝に滅ぼされ、その琉球王朝は明治の日本に滅ぼされ、日本になった沖縄は今度は沖縄戦でアメリカにやられました。
そんな激動の歴史の中でも、この水はおそらく止むことなくずっと湧き続けていて、人々の毎日の暮らしを潤してきたわけですね。
時が止まったような静かなガーで、ひんやりとした湧き水に手をひたしながら、そんなことをつらつら考えていると、何とも不思議な感覚に陥ります。