カンプーのそっくりさん阿摩和利、誕生!

2013年11月07日

百十踏揚、誕生!

 ももと庵の目の前にドーンと迫る世界遺産・勝連城跡。「勝連城の歴史ロマン」と地元ではよく言うのですが、いったいどんな歴史だったのでしょうか。ハイライトと言える15世紀の勝連城歴史ロマンのさわりを、何回かに分けて書いてみたいと思います。

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 主役は、琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)の娘にして、勝連城主の阿麻和利(あまわり)に嫁いだ百十踏揚(ももと・ふみあがり)。

 ももと庵のご本尊ともいうべき、百十踏揚の波瀾の生涯を描いた与並岳生さんの歴史小説「琉球王女・百十踏揚」がテキストです。むろんこの本は歴史小説。与並さんの深い歴史的学識と豊かな想像力によって構成されています。

 著者の与並岳生さんにお願いして、今回は特別に引用の許可をいただきました。ありがとうございます。


 初めて琉球を統一した尚巴志(しょう・はし)の7男で、当時、越来(ごえく)城主だった尚泰久(しょう・たいきゅう)。百十踏揚(ももと・ふみあがり)は、その長女として1440年ごろに生まれました。

 幼名は真鶴金(まづるがね)。母の正室は、勇猛果敢な武将としてその名をとどろかせた護佐丸(ごさまる)の娘でした。

 今の沖縄市のコザ十字路近くにあった越来城周辺は、当時は全くの農村。そんなところでのびのび育った真鶴金に、人生最初の一大転機が訪れます。

 時は1453年。首里の琉球国王、尚金福が病死した後、王位をめぐり、王子志魯(しろ)と王弟布里(ふり)との間に争いが起きます。これが、最後には城内での衝突に発展。

 与並さんの著書では、冷静さを失った志魯が城に火を放ち、その結果、首里城は焼失してしまいました。志魯は布里側に殺され、布里も王子に手をかけた罪を問われ、首里を追われます。

 志魯には9歳になる子がいましたが、乱れた琉球王朝を立て直すには無理、との家臣団の強い意見で、王弟だった尚泰久が王に即位したのです。

 こうして、娘の真鶴金も、越来城から首里城に移り住み、王女の立場となりました。

 琉球では、神事祭祀を司るのはすべて女性です。

 1456年、真鶴金に神名が授けられ、神女の資格が与えられました。この神名のことで、尚泰久王にはひとしおの思い入れがあったようです。

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 古謡「おもろ」の言葉から選びぬいた真鶴金の神名が「百十踏揚(ももと・ふみあがり)」でした。

 百十は、百に十を重ねる、つまりいついつまでも末永く、という意味。踏揚は「気高い」とか「栄える」の意です。

 神名を授ける儀式が、首里城内でとり行われました。

 踏揚は、白絹の胴衣下裳に白麻の神衣装をまとい、洗い髪を腰まで長々と流して、同じく白麻の神衣装を着けた母の王妃に伴われて首里城の京の内に入ります。

 高位の神女である首里大君が長いミセセル(託宣)を唱えた後、おもろを歌い、それに合わせて踏揚の神舞いが始まります。引用文中に出てくる「思戸(うみと)」は百十踏揚の世話係の女官です。


 舞いゆく踏揚の白い神衣装が、樹々の中を吹き抜ける涼風に、ゆるやかにひるがえり、木漏れ日の中を白く舞い流れていく様は、あたかも、白い蝶が、ひらひらと舞い流れていくようであった。
 その神舞いは首里大君がじきじきに手ほどきしたものだったが、天性であろうか、踏揚の舞いはまこと、神々しいまでの美しさで、王妃も、女官たちも、また居並ぶ神女たちも、その清らかで優美な舞いを、うっとりと見上げ、思戸もただ心奪われて、見惚れているばかりであった。
 おもろは続いていくーー。

 百十踏揚や
 あためとも 愛しや
 又君の踏揚や・・・

 ーー踏揚は舞い続ける。
 見上げる思戸は、その美しさ、神々しさに、胸が熱く込み上げ、涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。[同書p.89-90]



 こうして真鶴金は、名実ともに百十踏揚となったのです。踏揚、15歳のことでした。


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bansyold at 00:00│TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 勝連城跡周辺 

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