沖縄

2008年05月12日

[第55話 沖縄] 赤瓦の景観が美しい分譲住宅

 赤瓦に真っ白いしっくい。沖縄の伝統家屋は、南国の青い空によく映える。かつてはそんな家並みが作り出す景観がさぞ美しかったに違いない。最近の建物は同系色の素材を使うこともなく、統一感のある景観は見られない。と思っていたら、景観づくりを意識した先駆例があった。

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 豊見城市渡橋名にある「エコシティとはしな」。沖縄県住宅供給公社が、戸建て分譲住宅として整備・販売したいくつかの地域の一つだ。

 エコシティとはしなの住宅総数は140戸。これだけの数がまとまって意匠をそろえると、それなりの統一景観になる。統一されている意匠は外壁の白と屋根の赤瓦。住宅のデザインは17種類あり、多様でバラバラの印象だが、かえってそれが町並みのリアリティを醸し出しているといえそうだ。
 
 むろん、エコシティとはしなは、住民の総意で景観づくりをしたケースではなく、公社のイニシアチブによる分譲で、言ってみれば「上からの景観づくり」。が、とにもかくにも、統一景観を実際に作り出しているので、百聞は一見にしかずの宣伝効果は確実にあるだろう。

 各戸の屋根に置かれているのは「重ね瓦」と呼ばれる平らな瓦が多い。伝統的な丸みのある本瓦が、雄雌を交互に組み合わせて排水機能を持たせているのとは違って、重ね瓦はただ貼付けてあるだけで、特に機能性はない。デザインのための瓦、といってよい。重ね瓦の場合、しっくいは使わない。

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 住宅供給公社はエコシティとはしなを分譲する際に、建築協定を購買者と結び、事実上の規制の網をかけている。購買者は先々、改装などをするにしても、この協定を守らなければならない。例えば、家は2階建まで。後退距離と呼ばれる家の壁から隣りの敷地との境界までの距離は1.5m以上。これらが地域全体のゆったり感や景観を演出する。屋根と外壁の色については「地域全体の調和を図るよう努めるものとする」という一項が協定にある。

 エコシティの名の通り、景観づくりだけでなく、植栽を工夫したり、透水性の高い敷石を採用するなど、環境との共生をキーコンセプトにしている。車とどう共存するかも考えられていて、ハンプと呼ばれる地面の盛り上がりをところどころに設けて事実上の速度制限をかけ、子供やお年寄りが安心して歩ける空間を作っている。

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 エコシティとはしなと似た環境共生型の分譲住宅があるのは、南風原町宮平、西原町池田、北谷町美浜の3カ所。これらは平成元年から徐々に建てられてきた。既に、戸建て住宅の提供事業から住宅供給公社が手を引いたため、公社による同じような分譲住宅はこれ以上増えることはない。これからの沖縄の景観づくりは、民間デベロッパーの動きと、既存の集落での地元民による景観統一の努力に焦点が移る。

 とはいえ、地域全体に規制をかけることができるのは行政と、それを支える住民意識だけ。今後、徐々に返還が進んでいく米軍用地の再開発を計画する際にも、こうした規制の仕方がますます重要になってくるだろう。規制効果がほとんど見られず、目を覆いたくなるような乱開発が繰り広げられている那覇新都心の轍を踏まないためにも。

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2008年04月24日

[第52話 沖縄] 歴史の荒波に翻弄された王女

 世界遺産に登録された勝連城跡を訪れる人は年々増えている。だが、この勝連城を舞台に何が起きたのか、知る人は少ない。古琉球の世界は、沖縄の学校でもさほど詳しく教えないし、ましてや本土では全く扱わないからだ。これでは、あまりに背景知識がなさすぎて、せっかくの世界遺産も歴史のロマンを感じるところまではなかなかいかない。

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 勝連城跡のふもとには資料室がある。そこにはパネルなどで解説が用意されているが、やや教科書的。もっと楽しく歴史のロマンを感じる方法はないものかー。と探してみたら、格好の本があった。

 与並岳生作「琉球王女 百十踏揚(ももと・ふみあがり)」。勝連城最後の城主阿摩和利(あまわり)の妻となった首里王朝の王女百十踏揚を主人公に、怒濤の時代を描いた長編歴史小説。上下2段組、761ページのズシリと重い大作だ。

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 阿摩和利と首里王朝との確執は、歴史ファンにはたまらないエピソードに満ちているが、何しろ15世紀のこと。残された史料が限られており、それも伝承が中心のため、論証は困難な部分が多い。が、逆に、史料の隙き間を想像力で補っていくという別の楽しみがあるともいえる。この作品も、史実と想像とのバランスの上に大河ドラマが展開され、読み手は古琉球の世界へグイグイと引き込まれていく。

 あらすじはこうだ。首里城の国王、尚泰久(しょう・たいきゅう)は、琉球を統一した尚巴志以来の不安定な王権を安定させることを目指していた。当時、勝連は首里の支配下に入っているとはまだいえなかった。

 流れ者から身を起こし、持ち前の才覚で、ついには勝連城の主となった阿摩和利は地元民から大いに慕われていた。その阿摩和利ににらみを効かせるため、尚泰久は、首里と勝連の中間にある中城に護佐丸(ごさまる)を配した。護佐丸は、尚巴志に仕え、統一の戦闘で天下にその名をとどろかせた武将で、尚泰久の岳父でもあった。

 首里に対峙して天下をうかがう勝連の阿摩和利を懐柔するため、尚泰久は臣下の金丸の進言を受け入れ、「国の花」と言われた愛娘の百十踏揚を阿摩和利に嫁がせる。尚泰久は明からの使節による冊封を控えており、何としてもいくさを回避したかった。冊封は、中国皇帝が周辺諸国の君主と形式上の君臣関係を結ぶこと。

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 百十踏揚が阿摩和利に嫁いでからは、首里と勝連との緊張は解け、しばしの平和が訪れた。やがて護佐丸の娘の王妃が病死し、護佐丸の首里王家との縁がやや薄らぐ中で、金丸は、自分を排除しようとする護佐丸に危険を感じる。護佐丸をなきものにしようと企んだ金丸は、「護佐丸謀反」を尚泰久王を含む周囲に信じさせることに成功する。

 金丸は、護佐丸征討軍の総大将に、王婿である阿摩和利を据える。百十踏揚は、自分の祖父である護佐丸を夫の阿摩和利が討とうとするのを必死で止めようとしたが、護佐丸謀反を信じ込んだ阿摩和利は聞き入れない。

 しかし、護佐丸討伐の闘いの最中に、護佐丸の軍使から届けられた手紙には、驚くべき事実が記されていた。なんと、阿摩和利は護佐丸の落とし胤だったというのだ。阿摩和利は戦闘を中止しようとしたが、護佐丸は南から攻める首里軍にやられてしまう。

 阿摩和利は金丸の陰謀にようやく気づき、「父」の滅亡に自ら手を貸した罪にさいなまれる。その苦悩する姿を見た百十踏揚は、阿摩和利を許す。しかし金丸は、謀略に気づいたであろう阿摩和利をすかさず次の標的にして「謀反人」に仕立て上げる。挙兵直前に首里軍の武将鬼大城が百十踏揚を勝連城から強引に脱出させ、夫阿摩和利に添い遂げる決意だった彼女の心は再び切り裂かれる。

 首里城に戻らされた百十踏揚は、父の尚泰久に金丸の陰謀と護佐丸、阿摩和利の無実を必死で訴えるが、聞き入れられず、首里軍はついに阿摩和利を討つ―。

 こうして、身も心もボロボロにされた百十踏揚は、今度は、こともあろうに、最愛の夫阿摩和利討伐の総大将を務めた鬼大城に嫁がされる。時が過ぎ、尚泰久亡き後、後継の王の専横ぶりに危機感を覚えた金丸は、ついに王を廃し、自ら玉座に上る。その結果、前王統の血をひく百十踏揚は再び追われる立場に―。

 歴史の荒波に翻弄され続けた王女百十踏揚の真情を横糸、金丸を軸とする権力の思惑・陰謀とそれをめぐる男たちの動きを縦糸に、この歴史物語は展開していく。

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 「護佐丸は忠臣、阿摩和利は逆臣」というのが従来の琉球史の単純な解釈だった。しかし、護佐丸の家系が後の琉球王朝の高官を数多く輩出するなど、青史を編む立場だったのに対し、阿摩和利には子供がいなかったため、後代に阿摩和利が正当化される機会がなかった、と作者の与並さんは言う。

 護佐丸、阿摩和利親子説などの新解釈も交えながら、与並さんの筆は、状況の変化とともに移ろいゆく登場人物の心の機微と、思惑、思い込み、さらには、それら登場人物同士の生死をかけたギリギリのやりとりをたんねんに描く。

 与並さんがしばしば口にする「つじつまが合う」とは、史実と史実が符合するというだけの意味ではない。利害、思惑、愛憎まで含めて、登場人物の考えと行動が「必然」と思えるだけの物語が構築されて初めて「つじつま」が合い、読み手の胸に落ちるのだ。「琉球王女 百十踏揚」には、そうした物語としての説得力がある。

 「琉球王女 百十踏揚」はかつて地元紙「琉球新報」に連載されて大きな反響を呼んだ。それに加筆した単行本は、新星出版刊、3200円。沖縄県内は置いている書店が多い。本土でも書店で取り寄せできる。新星出版ではインターネット直販を近く始める予定。新星出版は、那覇市港町2-16-1、電話098-866-0741。

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2008年04月18日

[第51話 沖縄] 豊漁祈る平安座島のサングヮチャー

 数多くの伝統行事が行われる平安座島で、年間最大の行事サングヮチャーが行われた。島人は強い日差しの中で歌い、舞って、海の安全と豊漁を祈った。

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 旧暦3月3日から5日に行われるからサングヮチャー(「サングヮツの行事」の意)。潮干狩りをするハマウリ(浜降り)が沖縄各地では行われるが、平安座島では、この日に、集落を挙げて海の安全と豊漁を祈願する。

 初日は海難事故で亡くなった身内を慰霊する日。それぞれの家族ごとに浜に出て、海難の方角へ向かって慰霊する。

 中日にあたる旧3月4日、行事は最大の盛り上がりを見せる。ことしの新暦では4月9日。昼を過ぎた頃から、それまでの雨混じりの曇天が、ウソのようにみるみる晴れ、雲の合間から強い日差しが差し始めた。午後1時、平安座公民館の裏手にある東川上商店前の路上。数多くの観光客やマスコミ関係者などが見守る中で、まず下條義明自治会長がサングヮチャー3日間の概要を説明した。

 初めに三線片手の地方(じかた)の男たちと音取り(ニードゥイ)の女たちが「三月の歌」を歌って奉納。うちの1人がさらにモリを手に舞い、マクブとタマンを突き刺してトゥダヌイユした。トゥダはモリ、イユは魚(ウオ)だから、トゥダヌイユは直訳すれば「モリの魚」。

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 突く際に、太鼓や手拍子で、マクブとタマンが歌詞に織り込まれた漁の歌を歌う。黒く体を塗った男たちや、かぶりものをした男たちも入ってきて、慶びの踊りを次々に舞った。このマクブとタマンは翌日、解体して、神官であるノロに献上してから、おつゆにして、島人にふるまわれる。

 ひととおりの神事が終わると、魚をかたどった神輿をかついで、島の少し沖にあるナンザ岩に向けて行進。引き潮の際には、ナンザ岩まで歩いて渡れるのだ。おばあたちは男たちが岩に渡るのを見送り、男たちが岩で祈りを捧げる。ナンザ岩では、下條自治会長が、ニライの海にいるすべての魚が平安座に押し寄せてきてほしい、と神に豊漁を祈願した。

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 こうした行事が終わると、重箱などに詰めたポーポーを持ち寄って、祝宴が始まる。ポーポーは、小麦粉と黒砂糖を水で溶き、その生地を薄くのばして焼いたものをくるくると丸めたお菓子。サングヮチャーの日は、各家庭でポーポーをたくさん作る。

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 島人の話では、サングヮチャーのポーポーは、小麦を丸ごとひいた全粒粉で作るので、独特の舌ざわりになる。かつて、この時期は麦の収穫期にあたっていたため、サングヮチャーの食べ物としてポーポーが定着したという。

 ところで、こうした薄焼きをくるくる丸めたお菓子には、もう一つある。白い生地を焼いて、甘い味噌を中に入れて巻いたものがそれだ。正しくはこちらがポーポーではないかと言う人が多い。中国語で炮炮(パオパオ)がポーポーになったのだとすれば、中にあんが入っているのがポーポーで、何も入っていないのはチンビンが正解、というわけだ。

 ただ、面白いことに、この混乱は平安座島だけでなく、全沖縄に見られる。言葉としてポーポーの方が印象に残りやすいため、薄焼きを丸めたものは、中身のあるなしにかかわらず、みなポーポーということに徐々になってきたのかもしれない。

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2008年04月06日

[第49話 沖縄] ANA那覇ハブ(下) 沖縄に何が起きるか

 前回、説明したように、那覇空港が貨物ハブになれば、ANA全日空が東京や関西を含むアジア各地で集荷したすべての荷物は那覇に集まってきて、那覇空港で積み替えられ、那覇からアジア各地に出て行くことになる。

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 全日空がアジア各地とハブとの時間距離を「4時間」としたのは、前回説明した通りだが、それには理由がある。アジア各地から那覇行きの貨物便が出るのは、その日の集荷が終わった夜9時頃。4時間圏なら午前1時頃には那覇に着く。そこで2時間で積み替え作業をすれば、午前3時に那覇を出発でき、4時間飛んで午前7時には目的地に到着する。つまり4時間圏内ならば、前日に集荷したものが、人々が寝ている間に那覇経由で運ばれて、翌朝には目的地に着くから「差し出し日の翌日配達」が可能になる。それより遠いと、こうしたスピード輸送は難しい。

 この仕組みで最も有利な立場を享受できるのが沖縄になることは言うまでもない。沖縄以外のアジア各地発着の荷は、「沖縄まで」と「沖縄から」の2区間を動かす必要があるが、沖縄だけは発も着も1区間で済むからだ。料金体系は未定だが、1区間分なら安くなる可能性は十分あるし、少なくとも運ぶのにかかる時間は、沖縄だけが半分になる。アジア各地に商品を販売する場合はもちろんのこと、原材料などの買い付けをアジア各地からする場合も、沖縄にいれば、どの地域との間でもいち早く荷をやり取りすることが可能だ。

 例えば、沖縄のメーカーが現在は東京市場にしか出していなくても、このハブができたら香港市場や上海市場も、少なくとも物流の観点からは同じ位置づけのターゲットになりうる。あるいは、同じメリットを享受しようと、現在、羽田から荷を出している関東の業者が、那覇に製造拠点を移したり、新設することも十分考えられる。

 こんなケースもあるかもしれない。現在は日本国内3カ所の工場で同じ品を製造し、それぞれ近くの空港からアジアの3地域に輸出しているとする。単線方式の輸送システムしかなければそれでいいかもしれないが、那覇貨物ハブが使えるようになったら、製造拠点を沖縄1カ所に統合してコストを削減すれば競争力が高まる。写真は、各種優遇制度が用意されている沖縄特別自由貿易地域(うるま市州崎)。

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「ワンストップショッピング、ということですね」。全日空でこの事業を担当する貨物本部の清水良浩さんは、那覇1カ所からアジアの数多くの地域に荷を出せるメリットをそう表現する。ワンストップショッピングとは、多種類の欲しいものが1カ所で買えること。相手が広州だろうが、ソウルだろうが、大阪だろうが、沖縄1カ所でアジアのどこととも取り引きできるというわけだ。

 となれば、アジア各地への航空貨物輸出を前提とする企業は、沖縄に拠点を置くことを真剣に検討する必要があるのではないか。

 日本国内各地とのネットワークについては、全日空の場合、貨物専用便以外に、那覇発着の旅客便を併用できるのが強み。4月現在で東京、大阪が毎日片道9便ずつあるのをはじめとして、13の本土各都市との間に旅客の直行便を飛ばしている。写真は那覇空港でポケモンジェットに積み込まれる荷物。

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 航空貨物輸送向けの商品だから、重厚長大よりも、小さくて付加価値の高いものが向く。例えば、機械類ならその全体ではなく、中核部品だけといったように。それだけで勝負するとなれば、おのずとより高度な技術やずば抜けた品質が求められることになるが、逆にそういう世界なら、一点突破のベンチャーが沖縄に進出できる可能性もありそうだ。

 いま、航空貨物で実際にどんな品物が運ばれているのだろうか。交通関連が専門の米国コンサルティング会社マージグローバルの資料によると、2005年にアジア発アジア行きで運ばれた380万トンの航空貨物の内訳は、コンピューター関連18%、資本財17%、中間材料16%、冷蔵食品10%、一般消費材6%、衣料品4%などとなっている。

 清水さんは「うちは航空貨物輸送のインフラをご提供するわけです。そこに何を載せるかは荷主さん次第。可能性はまさに無限にあると思います」と話す。

 そう、今はもっぱら全日空の動きに注目が集まっているが、那覇貨物ハブが始まってからは、むしろ荷主としてこのインフラを利用することを視野に入れた各企業の企画力や営業力こそが問われる。それは、まずは地元沖縄の企業だろうし、沖縄進出の可能性を検討する日本本土やアジアの企業でもあるだろう。

 ANA那覇空港貨物ハブの開始予定は2009年度下半期。今回の記事を読まれた方の中にも、この1年半、忙しくなる人が出てくるのではないだろうか。

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2008年03月31日

[第48話 沖縄] ANA那覇ハブ(上) アジア成長で沖縄浮上

 ANA全日空が那覇空港を国際航空貨物の拠点空港にする、というニュースが流れたのは2007年7月。事業開始予定は2009年度下期だから、あと1年半しかない。

 「しかない」というのは、それまでに準備すべきことがいろいろありそうだから。「自分は関係ないけど」とおっしゃる方も、そう言わずに、今回と次回の記事を読んでいただきたい。ひょっとしたら、あなたも忙しくなるかもしれない。

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 全日空を含めた現在の日本の航空貨物輸送事業は、例えば関東の工場で作られた上海向けの製品を羽田発上海行きの便で運ぶ、という単線方式。これに対して今回のハブ方式は、各地の荷を1カ所にいったん集め、そこで目的地別に積み替えして、それぞれの目的地に飛行機を飛ばすというものだ。

 その「1カ所」がなぜ那覇なのか。沖縄の位置が中国にも韓国にも台湾にも近く、飛行距離と飛行時間が短くできるから、というのが答であることは容易に想像がつく。沖縄の地理的位置が有利なことについては、この万鐘本店でも、第19話のリムジンや第31話のブラジル石油公社の記事などで指摘してきた。

 しかし、だ。最近になって沖縄島がズズズッと移動して都合のよい位置に動いたわけでもないのに、なぜ今になって、こういう話が急浮上してきたのだろうか。

 「それは、航空貨物物流の環境が大きく変わってきたからなんです」と説明するのは、全日空でこの事業を担当している貨物本部事業戦略部主席部員の清水良浩さん。

 清水さんによると、これまで荷の動きは「日本発アジア向け」が主だったから、例えば日本の工場の近くの空港からアジアの目的地にシンプルに飛行機を飛ばせばそれでよかった。ところが、アジア各地の経済発展がこの20年くらいの間に進んだ結果、「アジア発アジア向け」の貨物需要が急速に増えて来た。「今後、主語が徐々に日本からアジアに変わっていくのではないでしょうか」と清水さんは語る。

 新たな主語になるアジアとは、1つ、2つの都市ではない。華北・華東・華南各経済圏の都市、台北、ソウル、バンコク、シンガポールといった複数の主語が舞台上に躍り出ている。むろん東京や大阪もその中で大きな位置を占めている。写真は経済発展著しいシンガポールの地下鉄駅。

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 全日空の見通しでは、アジア域内の航空貨物需要の総量は、2005年に380万トンだったのが、10年後の2015年には820万トンになるという。アジアの数多くの地域が、航空貨物の発地にも着地にもなるだけの大きな需要が見込めるというわけだ。

 こうなると、単線方式よりも、アジア各地からすべての荷物をどこか1カ所に集め、そこでアジア各地の行き先別に積み替えて飛行機を飛ばす方が合理的になる。この方式なら、単線方式にありがちな、時期によって荷が少なくてコストをカバーできないといったリスクがずっと小さくできるからだ。

 その「1カ所」は「アジア各地のどこにも近い場所」でなければならないから、日本では沖縄しかない。これは冒頭で述べた通り。次の図は飛行機で4時間の範囲を、万鐘お得意のグーグルアース活用南北逆さ地図の中で示しているが、例えば東京に拠点を置いたのではカバー範囲が北寄りになりすぎ、成長著しい中国南部などが遠くなってしまう。

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 こうして沖縄の地理的位置は、アジア各地の経済発展によって、航空貨物物流に関する限り、この10年ほどで急浮上した。次回はその那覇貨物ハブの正しい活用法について、4/6(日)に公開します。どうぞお楽しみに。

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2008年03月19日

[第46話 沖縄] 「人力」でスタートした海中道路建設

 沖縄本島中部東側に突き出している与勝半島と平安座(へんざ)島を結ぶ全長4.7kmの海中道路。青い海を眺めながらドライブを楽しむ人が多いが、この海中道路には驚くべき前史があった。今回は、離島の人々の心情を雄弁に物語るこの話題を。

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 海中道路は1971年、石油会社が平安座島に石油タンクを建設するのに伴って作られた。沖縄が日本本土に復帰する2年前のこと。これが現在利用されている道路だが、実はそれ以前にも、海中道路の建設が試みられていた。離島苦に悩む平安座島の人々が、なんと人力で海に石を置いて自力で道を造ろうとしたのである。

 下の2枚の白黒写真はいずれも平安座自治会に提供していただいた。1枚目の写真は、平安座島の女性たちが、石を頭に乗せて運んでいるところ。島から掘り出した石をこうして女性たちが運び、海に落としては道路の基盤を造っていった。

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 5km近い距離の海を人力で埋めて道を造ろうとは、普通なら、だれも考えないだろう。平安座の人々はなぜそれをやったのか。

 「離島苦というのは、実際に経験した者でないと分からないものですよ」と話すのは、平安座自治会長の下條義明さん。平安座島と沖縄本島とを何としても陸続きにして、不便な島の暮らしをラクに豊かにしたい―。その一念が、一見不可能とも思える人力による海中道路建設に人々を駆り立てたのだ。下條さんは子供のころ、埋め立て用の石を掘り出す作業を手伝わされた時の光景を、今も鮮明を覚えているという。
 
 平安座島と与勝半島屋慶名を結ぶのは浅瀬の海。干潮の時には砂地が顔を出す。道路が出来る前は渡船が主な交通手段だったが、干潮時だけはトラック輸送が行われていた。写真は、そのトラックが人や物資を乗せて出発するところ。1日のうちのわずかな時間とはいえ、こうして沖縄本島と島が陸続きになる光景を島人は毎日見ていた。このことも、人力で道を造ろうという動機づけになったに違いない。

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 かくして、1961年3月9日、人力による海中道路工事は始まった。島人総出で石を運び、道路は着々と建設が進んだ。が、7月、台風デルタの来襲で一部が流失。9月の台風ナンシーでは、島民の汗の結晶は無惨にもすべて破壊された。中心になって自力工事を推進した当時の玉栄政善自治会長は「憤怒のあまり失神寸前の態であった。悲嘆の涙は流れて止まず、呆然と立ちすくむ様であった」と、その無念さを記している。

 しかし島人はあきらめなかった。工法を再考し、翌1962年4月に工事を再開した。今度は資金をやりくりしてセメントを少しずつ買っては、コンクリートの道を再び自力で造り始めた。その年のうちに130mを構築。4年後には80mを増築した。まさに不屈の精神というほかない。そうこうしているうちに、石油会社の進出が決まり、現在の道路が建設された。

 いま沖縄で平安座島と言えば、伝統行事の島として名高い。自治会が正式に関与する行事だけで年間40以上、これに各家庭で行われている行事を加えると、70以上の伝統行事があるという。

 島が最大の盛り上がりを見せるのが、旧暦3月3日から5日に行われるサングヮチャー。ことしは新暦で4月8日から10日に当たる。海の安全と豊漁を祈るこの伝統行事には多くの観光客も訪れる。サングヮチャーはじめ、平安座の諸行事についての問い合わせは平安座自治会098-977-8127。

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2008年02月24日

[第42話 沖縄] 知念の山中で焼く粉引茶碗

 茶碗は、その微妙な形が面白い。ゆがんでいるようで、なんとも言えぬバランスを保っている。見る角度によって全く違う形に見えたりもする。この2つの茶碗は、白く粉を吹いたように見えるので、粉引(こびき)と呼ばれる。沖縄本島南部・知念の山の中にある涯山窯で出会った茶碗だ。

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 え、沖縄で粉引? 焼き物好きはそう思うだろう。粉引は、日本本土では珍しいものではないが、壺屋焼に代表される沖縄の焼き物にはあまり見られない。

 この茶碗を焼いているのは玉木弘一さん。玉木さんは沖縄の出身だが、若き日に京都で修行して、粉引などの技法を身につけた。沖縄に戻り、那覇で4年、知念で涯山窯を開いてから21年になる。

 沖縄の陶芸家が京都で身につけた技術で焼くー。現代の話だから別に驚くことではないが、数百年前、船しかなかった時代でも、芸術や文化の伝播や交流は、人から人へ、あるいはモノの流れを通じて、それなりに盛んだったのではないだろうか。むろん、そのスピードはゆっくりしたものだったろうが。

 焼き物の世界だけでも、例えば、琉球王国のアジア中継貿易で、沖縄がアジア各地で売っていたものは中国産の陶磁器が中心だった。沖縄の壺屋焼は、1600年代に朝鮮から招いた陶工によってもたらされた技法だ。タイ北部で出土する13―15世紀のふたつきの小鉢は、壺屋焼でおなじみの黒砂糖などを入れておく小鉢とよく似ている・・・と、文化伝播の事実やそれらしき形跡はいろいろある。

 話を涯山窯に戻そう。写真の左手前は、象嵌(ぞうがん)という技法で作った水差し。玉木さんによると、はんこを押し込んで模様をつけ、へこんだ部分に白い土を埋めて平らにし、釉薬をかけて焼く。小紋のような小さな模様の繰り返しが、端正な趣きを醸し出す。器の形が直線的なのでやや固い印象になるが、それがはんこ模様の繰り返しによく合う。

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 「何でも作っちゃうんです」。物静かな玉木さんが、茶目っ気たっぷりに言ったのは、デザイン系とも言うべき多様な生活雑器のこと。粉引の茶碗や水差しなどの茶道具類とは全く違った趣きの、ふだん使いのコーヒーカップや皿が、涯山窯のギャラリーにはたくさん並んでいる。製作の技法もさまざまだ。

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 ギャラリーを切り盛りするのは妻のあき子さん。玉木さんの作品をセンスよく並べるだけでなく、訪れる人々に作品についてていねいに説明してくれる。あき子さんがいれる香り高いコーヒーも魅力(300円)。毎年12月中旬には窯出しでにぎわうそうだ。

 涯山窯は、南城市知念字具志堅268-1、電話098-948-7644。水曜休。ギャラリーは10時30分から18時30分まで。国道331号線の斎場御嶽入り口から2.5kmほど糸満方向に行ったところの右手に「涯山窯」の小さな看板が出ているので、そこから山に上がる道を入っていく。

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2008年01月31日

[第38話 沖縄] 三線片手に歌える民謡広場

 検索エンジンで「三線教室」を調べると、全国各地の三線教室情報がズラリと出てくる。この勢いだと、習っている人たちの層も、入門者からセミプロ級まで、既にだいぶ厚くなっていることだろう。

 沖縄民謡も、ある程度うまくなってくれば、三線片手に人前で歌ってみたい、という気になるものだ。

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 沖縄には、コザを中心に民謡クラブがいくつかあるが、有名なプロの民謡歌手が経営する店がほとんど。言ってみれば有名歌手のライブハウスなので、セミプロはもちろん、初心者の出番など全くない。

 一方、カラオケでは、歌は歌えるが、自分で三線を演奏することができない。「歌三線(うたさんしん)」という言葉があるように、沖縄民謡は三線を弾きながら歌うのが基本。「歌だけ」では成り立たない。

 そんな中で、沖縄民謡の初心者でも気軽にステージに立たせてもらえる店が、うるま市にでき、民謡愛好家の間で人気を呼んでいる。

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 「民謡広場 嘉手久」。経営しているのは、自身もセミプロ民謡歌手の高江洲康栄さん。高江洲さんは、地元新聞社主催の民謡の新人賞、優秀賞、最高賞の各階段を順当に上り、現在は教師。師範の一つ手前のところにいる。そろそろCDを出したらどうか、という声が周囲から聞こえてくるが、自身は「まだまだ」と笑う。

 高江洲さんが民謡広場を始めたのは、そういう場がなくて自分自身が困ったから。「民謡クラブは、きちんと着物をつけた大先生がステージに立つから、われわれはとても出られない。でも、ステージで演奏する機会を積まないと、人前で演奏できるようにならないんですよ」と高江洲さん。

 民謡広場嘉手久では、午後8時の開店から1時間もすると、呼び水役として高江洲さん自身がまずミニステージに上がって、数曲演奏する。その後は、客が次々にステージに上がっては、三線片手に民謡をうなる。

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 嘉手久では、高江洲さんも着物をつけず、普段着のまま。「着物だと、どうしても堅苦しくなるでしょう」。客と同じ高さに立つことで、気軽にステージに出てもらいたい、という気配りだ。

 安さも魅力。有名歌手の民謡クラブは「ライブハウス+スナック」なので、しっかり飲めば1万5000円くらいかかることも珍しくない。嘉手久の場合は「お客さん自身が演奏を楽しむ場所だから」と高江洲さんは価格を大幅に抑えている。「かなり飲んでも5000円まではいきません」と妻の吉子さん。

 あそこならステージに立てる、という話を聞きつけて、沖縄民謡を習っている愛好家が遊びと練習を兼ねてやってくる。本土から来る人もたまにいるらしい。

 三線片手に一度人前で沖縄民謡を歌ってみたい、という人にお勧め。店内は沖縄方言が飛び交うが、気さくな高江洲さん夫妻は、だれでも気持ちよくもてなしてくれる。午後9時すぎに行って、泡盛をチビチビやりながら、高江洲さん夫妻や他の客と話していると、そのうち演奏が始まる。さあ、あなたもミニステージへ。もちろん、人の演奏を聞くだけでも楽しい。

 民謡広場嘉手久は、うるま市平良川111地階、電話098-973-1200。月曜定休。

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2008年01月13日

[第35話 沖縄] 沖縄宿の裏技 ウィークリーマンション

 敬老の日や体育の日を月曜日にしたために連休が増え、遠出しやすくなった。そのせいか、連休前後に「那覇のホテルがとれないで困っている」という話を旅行者からよく聞く。そんな時に那覇で快適に泊る裏技をご紹介。

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 多少をお金がかかっても休日気分を、という人には向かないかもしれないが、ビジネスがらみで来る人、プライバシーが守れて安心して泊れれば十分という人なら、ウィークリーマンションをお勧めする。那覇周辺はウィークリーマンションが増えてきたが、その草分け的存在が、県庁近くの泉崎にあるハーバービューマンションだ。

 受付の砂川康成さんによると、ここは週貸しで始めたが、1泊、2泊の短期滞在ニーズにも応えられるようにと、ホテルとしての営業許可も取得した。もちろんホテルではないので、ホテル仕様のフルサービスは受けられない。例えば、ホテルのような立派なロビーやフロントはないし、朝食を食べるところもない。

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 だが、室内には炊飯器やオーブントースター、電子レンジ、ガスコンロなどがあって、鍋類も用意されているから、自炊するのは問題ない。本格的に作らなくても、近くにコンビニやスーパーがあるから、ちょっと温めれば食べられるものを買ってきて、簡単にすませることができる。

 この調理機能をフル活用する手もある。料理好きの家族、グループなら、那覇・牧志の公設市場などで新鮮な魚や肉、島野菜を買ってきて、部屋でワイワイ調理しながら食べれば、好みのアレンジの沖縄料理がお値打ちに楽しめる(調味料類は自分で用意すること)。こういう場所を利用して、沖縄での生鮮食品の買い物と料理を主目的にした旅を企画するのも一興だろう。下の写真は、牧志公設市場1階で売られている色とりどりの魚たち。ちなみに、一番手前が最高級魚のアカジンミーバイ。高いが、刺身で食べたら脱帽のうまさだ。

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 入居時には新しいシーツが敷かれている。滞在中はベッドメーキングが標準サービスになっていないが、あらかじめ希望しておけば1回1000円でやってくれる。4、5日滞在するなら途中で1回やってもらえばいい。

 シングルで17平米、ツインで28平米あるから、よくあるビジネスホテルより広め。シングルで1泊5450円、ツイン2人で1泊7480円。リゾートっぽい雰囲気にこだわらず、こざっぱりした室内で泊れれば十分、という人にはピッタリだ。国際通りや那覇バスターミナルにも近くて便利。ただし、レンタカーを利用する場合、駐車できる台数は限られている。

 1週間以上滞在するなら、天久新都心にもウィークリーマンションがいくつかあるので、そこも同じように利用できる。ハーバービューマンションは那覇市泉崎2-101-3、098-855-8111。ホームページ http://www.okinawa-weekly.com/ からも予約可能。

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2007年12月24日

[第31話 沖縄、南] ブラジル石油公社、沖縄進出のココロ

 11月初め、大きなニュースが流れた。ブラジルの国営石油公社ペトロブラスが沖縄・西原町の南西石油を買収したのだ。南西石油は、沖縄県内の2006年度企業売上高ランキングで堂々1位の大企業。ただ、製油所としては能力が小さく、設備も老朽化しているため、親会社のエクソンモービルは閉鎖を含めて将来を検討していた。

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 そんな南西石油をブラジルが買うって、どういう意味? 分からない時は当事者に聞くのが一番だ。早速、ペトロブラスの関係者に会って、今回の進出の背景を尋ねた。

 ペトロブラス関係者によると、ブラジルの埋蔵原油はかなりの量に上る。特に、11月初旬に発表された埋蔵量80億バレルに上る巨大なテュビ海底油田の発見は、世界を驚かせた。この巨大油田によって、ブラジルは良質な軽質原油を大量に確保。世界市場での販路開拓は同国にとってますます重要な課題になった。

 今回の沖縄進出は、南西石油の既存施設があったことが直接の理由のようだ。製油所を新設するとなれば、巨額の資金が必要になるし、行政や地域との交渉などにも労力と時間がかかる。

 加えて、沖縄の「戦略的な地理的位置」が決め手になったことを、この関係者は指摘した。「沖縄は、台湾にも韓国にも中国にも日本本土にも近いでしょう」

 ペトロブラスは、沖縄で精製した石油をこうしたアジア各地で販売しようと考えている。同社はこれまで、欧米など26カ国に石油を販売してきたが、アジアへの本格的展開はこれから。その皮切りの拠点として、有利な地理的位置にある沖縄を選んだというわけだ。

 沖縄県内では、東京を意識した経済振興策ばかりが語られがちだが、もう少し視点を自由にしてアジア全体をながめる必要がありそうだ。ここで、第22話の南北逆さ地図をもう一度。

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 沖縄のこの優位な位置を活用してきたのは、これまで、皮肉なことに米軍だけだった。それが、今回のブラジルの進出によって、「アジア最前線、沖縄」が、民間経済活動の拠点として本格的に生かされる可能性が出てきた。

 この機会を沖縄側がどう活用するか。軍事拠点から脱出し、「万国津梁、再び」を実現するうえで、ひとつの試金石になるだろう。

 ペトロブラス関係者は、もう一つ、興味深い話を披露してくれた。同社が、沖縄でバイオエタノールの生産にも取り組む意欲を持っている、という話だ。

 バイオエタノールはトウモロコシやサトウキビから作る燃料用アルコール。ブラジルは1975年から開発に取り組み、今や世界で唯一のバイオエタノール輸出国になった。

 ブラジルでは、ガソリン100%でもエタノール100%でも、あるいはどんな比率の両者のミックスでもOKというFFV(Flexible Fuel Vehicle)車が8割を占める。ユーザーは市場価格を見て、安い燃料を選べるという。

 従来はもっぱら石油を扱ってきたペトロブラスも、FFVの普及により、「25%エタノール入りガソリン」などを生産し始めている。同社が沖縄でのエタノール生産を視野に入れているのは、アジアでFFV時代が来れば、同社のガソリン販売チャンネルの中に、ブラジルにとって「もう一つの得意分野」であるエタノールをほぼそのまま組み入れることができるからだ。

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 沖縄では、エタノールを主にサトウキビから作ることになる。亜熱帯の自然特性を生かして、沖縄が自前のエネルギー源を持てるかもしれないというのは、さまざまなハードルを超えなければならないにしても、夢のある話だ。

 来年は、日本からのブラジル移民100周年。ペトロブラス関係者も、この日伯の強いきずなが今回の進出の背景にあることを強調した。100周年という節目の年に、140万日系移民の1割を占める沖縄系移民の故郷沖縄に、ブラジル国営石油公社ペトロブラスが精油所を持つ―。大いに象徴的な出来事と言えそうである。

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