インドネシア
2014年08月28日
アリ・ラッソのツヤのある甲高い声
アジア歌手シリーズは、久しぶりのインドネシア編。ベテランポップ歌手のアリ・ラッソを紹介します。
代表曲のひとつ、3枚目のアルバム「見る、聞く、考える」に収められている「アルティ・チンタ(愛の意味)」からどうぞ。
僕の心臓が鼓動している限り、あなたは僕のもの
僕の血が流れている限り、僕の愛は終わらない
このサビの部分を、当たり前のように聴衆が歌っていますね。
アリ・ラッソは、なめらかな高い声。声量はそれほどでもないですが、ツヤのある甲高い声が、赤いピアノの作曲家アンディ・リアント率いるオーケストラの厚みのあるサウンドを突き抜けていく感じがなんとも爽快です。
アリ・ラッソは1973年生まれの41歳。
インドネシアのポピュラー音楽史にその名を刻み、3年前に解散したロックバンドDewa19のリードボーカルを1991年から99年まで務めたことで知られます。
ソロになったアリ・ラッソは、ヒットを出し続ける一方、映画主題歌を歌うなど、芸の幅を広げていきました。
その映画主題歌「メンゲジャール・マタハリ(太陽を追いかけて)」と「カムラ・サトゥ・サトゥニャ(あなた一人だけ)」を同じライブ画像で続けてどうぞ。
「太陽を追いかけて」では、曲の途中でバックの演奏メンバー紹介をしていますが、最後に紹介される赤いピアノのアンディ・リアントが映画「太陽を追いかけて」の音楽監督を務めました。
最近はスローテンポのラブソングが増えていて、あのツヤのある甲高い声はあまり強調されていません。でもアリ・ラッソといえば、Dewa19時代からの元気なイメージが強いようで、観客もその時代の歌が出てくると大喜び。2曲目のカムラ・サトゥ・サトゥニャは、インドネシアの人々にとっては、そんな懐かしの1曲です。
カムラ・サトゥ・サトゥニャの歌い出しでは、アリ・ラッソが気持ちを入れて声を出そうとするより先に観客の唱和が一気に盛り上がってしまい、本人がそれをちょっと抑えてやり直しする場面も。
このコンサートでは、アンディ・リアントのピアノソロに導かれてスローに歌い始めるようスペシャルアレンジされていますが、カムラ・サトゥ・サトゥニャは本来、アタマからノリノリの曲。歌い出しを聞いたとたん、みんなのウタゴコロが爆発してしまったんですね。
代表曲のひとつ、3枚目のアルバム「見る、聞く、考える」に収められている「アルティ・チンタ(愛の意味)」からどうぞ。
僕の心臓が鼓動している限り、あなたは僕のもの
僕の血が流れている限り、僕の愛は終わらない
このサビの部分を、当たり前のように聴衆が歌っていますね。
アリ・ラッソは、なめらかな高い声。声量はそれほどでもないですが、ツヤのある甲高い声が、赤いピアノの作曲家アンディ・リアント率いるオーケストラの厚みのあるサウンドを突き抜けていく感じがなんとも爽快です。
アリ・ラッソは1973年生まれの41歳。
インドネシアのポピュラー音楽史にその名を刻み、3年前に解散したロックバンドDewa19のリードボーカルを1991年から99年まで務めたことで知られます。
ソロになったアリ・ラッソは、ヒットを出し続ける一方、映画主題歌を歌うなど、芸の幅を広げていきました。
その映画主題歌「メンゲジャール・マタハリ(太陽を追いかけて)」と「カムラ・サトゥ・サトゥニャ(あなた一人だけ)」を同じライブ画像で続けてどうぞ。
「太陽を追いかけて」では、曲の途中でバックの演奏メンバー紹介をしていますが、最後に紹介される赤いピアノのアンディ・リアントが映画「太陽を追いかけて」の音楽監督を務めました。
最近はスローテンポのラブソングが増えていて、あのツヤのある甲高い声はあまり強調されていません。でもアリ・ラッソといえば、Dewa19時代からの元気なイメージが強いようで、観客もその時代の歌が出てくると大喜び。2曲目のカムラ・サトゥ・サトゥニャは、インドネシアの人々にとっては、そんな懐かしの1曲です。
カムラ・サトゥ・サトゥニャの歌い出しでは、アリ・ラッソが気持ちを入れて声を出そうとするより先に観客の唱和が一気に盛り上がってしまい、本人がそれをちょっと抑えてやり直しする場面も。
このコンサートでは、アンディ・リアントのピアノソロに導かれてスローに歌い始めるようスペシャルアレンジされていますが、カムラ・サトゥ・サトゥニャは本来、アタマからノリノリの曲。歌い出しを聞いたとたん、みんなのウタゴコロが爆発してしまったんですね。
2013年07月22日
天空に抜けるジュディカの声
アジア実力派ボーカリスト、今回はインドネシアのジュディカ・シホタン Judika Sihotang をご紹介しましょう。
ヒット曲、アク・ヤン・テルサキティ Aku Yang Tersakiti (傷ついた心)を、まずはどうぞ。恋人が去ってしまった心の痛手を歌ったこの歌は、アルバム「セテンガ・マティ・メリンドゥ」に収められています。サビのフレーズが耳に残りますね。
この声。かすれ声ながら、キーが高いというだけでなく、よくのびる。のびて一気に高度を上げて、最後にフっと消える。天空に抜けていく声、とでも言いましょうか。
この曲のYou Tubeの再生回数を見てみると、その人気ぶりがよく分かります。アップされているいくつかのアク・ヤン・テルサキティの映像のうち、だれかのカバーではなく、ジュディカ本人が歌っているものを足すだけで軽く1200万回を超えてしまうんです。
2億4000万人を擁する世界4位の人口大国インドネシアとはいえ、1つの曲で1200万回以上の再生回数というのは、やはり大ヒットでしょう。
ジュディカはスマトラ島北部にある北スマトラ州の出身。北スマトラ州は人口1300万で、州都はメダンです。万鐘の南向き地図で、その周辺を切り取ってみました。ジュディカは同州ダイリ県の生まれ。ダイリ県は標高700m-1250mの山間地です。
ジュディカは1978年8月生まれですから、間もなく35歳。若い頃から才能を発揮し、ホテルなどで歌ったりしていました。学生の時にコンテストに出場し、北スマトラ州で1位、全国でも3位になりました。
2005年にテレビのスター誕生番組「インドネシアン・アイドル」に出場。優勝は逃したものの2位になり、その高い歌唱力を大いにアピールしたようです。
ジュディカの歌ヂカラを楽しめるスローナンバー、ク・タク・マンプ Ku Tak Mampu(忘れられない)を聞いてみましょうか。ヘッドフォンで聞いて下さい。残念ながら動画が見つからず、静止画ですが、お許しを。
ささやくようなマイナーの部分を終えて、メジャーの部分に入ると、去った恋人を忘れることができない、という歌詞ながら、どこか安らぎを覚えるメロディラインに。後半からは、「切々とした」という感じを超える盛り上がりをみせます。
ヒット曲、アク・ヤン・テルサキティ Aku Yang Tersakiti (傷ついた心)を、まずはどうぞ。恋人が去ってしまった心の痛手を歌ったこの歌は、アルバム「セテンガ・マティ・メリンドゥ」に収められています。サビのフレーズが耳に残りますね。
この声。かすれ声ながら、キーが高いというだけでなく、よくのびる。のびて一気に高度を上げて、最後にフっと消える。天空に抜けていく声、とでも言いましょうか。
この曲のYou Tubeの再生回数を見てみると、その人気ぶりがよく分かります。アップされているいくつかのアク・ヤン・テルサキティの映像のうち、だれかのカバーではなく、ジュディカ本人が歌っているものを足すだけで軽く1200万回を超えてしまうんです。
2億4000万人を擁する世界4位の人口大国インドネシアとはいえ、1つの曲で1200万回以上の再生回数というのは、やはり大ヒットでしょう。
ジュディカはスマトラ島北部にある北スマトラ州の出身。北スマトラ州は人口1300万で、州都はメダンです。万鐘の南向き地図で、その周辺を切り取ってみました。ジュディカは同州ダイリ県の生まれ。ダイリ県は標高700m-1250mの山間地です。
ジュディカは1978年8月生まれですから、間もなく35歳。若い頃から才能を発揮し、ホテルなどで歌ったりしていました。学生の時にコンテストに出場し、北スマトラ州で1位、全国でも3位になりました。
2005年にテレビのスター誕生番組「インドネシアン・アイドル」に出場。優勝は逃したものの2位になり、その高い歌唱力を大いにアピールしたようです。
ジュディカの歌ヂカラを楽しめるスローナンバー、ク・タク・マンプ Ku Tak Mampu(忘れられない)を聞いてみましょうか。ヘッドフォンで聞いて下さい。残念ながら動画が見つからず、静止画ですが、お許しを。
ささやくようなマイナーの部分を終えて、メジャーの部分に入ると、去った恋人を忘れることができない、という歌詞ながら、どこか安らぎを覚えるメロディラインに。後半からは、「切々とした」という感じを超える盛り上がりをみせます。
2013年05月21日
太い筆のかすれ具合が魅力のアングン
アジア実力派ボーカリストの3回目です。インドネシア出身のアングン・チプタ・サスミ。世界的に活躍している歌手なので、ご存知の方もおられるでしょう。
インドネシア「出身」と書いたのは、ジャカルタ生まれで、歌手としてインドネシアで大きな成功をおさめた後にヨーロッパに移り住み、現在はフランス在住でヨーロッパなどで活躍しているからなんです。もちろん、インドネシアをはじめ、アジアでもコンサートを開いたり、アルバムを出したりしています。
まずは、アングンが欧州市場でその名をなした1997年の大ヒット曲からいきましょう。Snow on the Sahara(サハラ砂漠に降る雪)です。
前半で繰り返されるエスニック風味のフレーズと、転調した後の軽快なポップサウンド。なんとも不思議なつくりの曲ですが、完成度は非常に高いんじゃないでしょうか。フランスで大ヒットし、イタリアやスペインでもヒットチャート1位になりました。
エスニック風味といえば、画像に見えるアングンの手踊りの動きはバリのダンスを思い起こさせます。
アングンは1974年、ジャカルタ生まれのジャカルタ育ち。父は作家、母はジョグジャカルタの旧王室の出でした。
7歳の頃、歌の特訓を父から受け始め、なんと12歳でデビューアルバムを録音、ロック歌手として世に出ます。このアルバムは売れませんでしたが、3年後の15歳の時に出したシングル「ミンピ(夢)」がヒット。インドネシアで一躍、有名になりました。
アングンはこのミンピをその後も歌い続け、2006年にベストアルバムを発売した際、16年ぶりに再録音。その新バージョンがまたヒットしました。ではそのミンピのライブ映像をどうぞ。
アングンの声は、アルトより低いコントラアルト。ハスキーボイスが売りですが、声域は3.5オクターブ、声量も相当あります。
歌を書にたとえれば、声量は筆の太さ、歌い回しは運筆にあたるでしょうか。小筆でサラサラと書かれた書にも魅力はありますが、やはりインパクトが強いのは、太い筆で大きく書かれた作品ですね。
アングンの筆も太いです。太い筆で黒々と書かれた線の後半がかすれている、そのかすれ具合がまた魅力、そんな感じです。
このミンピ、よく聞いてみると、中学校の卒業式で歌われるような優しいメロディなんです。例えば夏川りみがピアノソロの伴奏で歌ったりしたら、たぶん、しみじみとした歌に聞こえるんじゃないか、と。
それをアングンが歌うと、一瞬にしてロックなアングンワールドが立ち上がります。
特に、2006年バージョンは、バックにピアノとチェロなどの弦楽器を強調し、ウェットで重厚なタッチの編曲になっています。この映像もそう。そこに、アングンの叩きつけるようなボーカルが乗っかって、なんとも強烈な世界を作り上げています。
この映像はインドネシアでのコンサートのようですね。母国で、母国のファンを前に、長年歌ってきた十八番をのびのびと歌うアングン。柔らかな表情がとても印象的です。
アングンの曲はアマゾンやiTunesでどうぞ。
インドネシア「出身」と書いたのは、ジャカルタ生まれで、歌手としてインドネシアで大きな成功をおさめた後にヨーロッパに移り住み、現在はフランス在住でヨーロッパなどで活躍しているからなんです。もちろん、インドネシアをはじめ、アジアでもコンサートを開いたり、アルバムを出したりしています。
まずは、アングンが欧州市場でその名をなした1997年の大ヒット曲からいきましょう。Snow on the Sahara(サハラ砂漠に降る雪)です。
前半で繰り返されるエスニック風味のフレーズと、転調した後の軽快なポップサウンド。なんとも不思議なつくりの曲ですが、完成度は非常に高いんじゃないでしょうか。フランスで大ヒットし、イタリアやスペインでもヒットチャート1位になりました。
エスニック風味といえば、画像に見えるアングンの手踊りの動きはバリのダンスを思い起こさせます。
アングンは1974年、ジャカルタ生まれのジャカルタ育ち。父は作家、母はジョグジャカルタの旧王室の出でした。
7歳の頃、歌の特訓を父から受け始め、なんと12歳でデビューアルバムを録音、ロック歌手として世に出ます。このアルバムは売れませんでしたが、3年後の15歳の時に出したシングル「ミンピ(夢)」がヒット。インドネシアで一躍、有名になりました。
アングンはこのミンピをその後も歌い続け、2006年にベストアルバムを発売した際、16年ぶりに再録音。その新バージョンがまたヒットしました。ではそのミンピのライブ映像をどうぞ。
アングンの声は、アルトより低いコントラアルト。ハスキーボイスが売りですが、声域は3.5オクターブ、声量も相当あります。
歌を書にたとえれば、声量は筆の太さ、歌い回しは運筆にあたるでしょうか。小筆でサラサラと書かれた書にも魅力はありますが、やはりインパクトが強いのは、太い筆で大きく書かれた作品ですね。
アングンの筆も太いです。太い筆で黒々と書かれた線の後半がかすれている、そのかすれ具合がまた魅力、そんな感じです。
このミンピ、よく聞いてみると、中学校の卒業式で歌われるような優しいメロディなんです。例えば夏川りみがピアノソロの伴奏で歌ったりしたら、たぶん、しみじみとした歌に聞こえるんじゃないか、と。
それをアングンが歌うと、一瞬にしてロックなアングンワールドが立ち上がります。
特に、2006年バージョンは、バックにピアノとチェロなどの弦楽器を強調し、ウェットで重厚なタッチの編曲になっています。この映像もそう。そこに、アングンの叩きつけるようなボーカルが乗っかって、なんとも強烈な世界を作り上げています。
この映像はインドネシアでのコンサートのようですね。母国で、母国のファンを前に、長年歌ってきた十八番をのびのびと歌うアングン。柔らかな表情がとても印象的です。
アングンの曲はアマゾンやiTunesでどうぞ。
2013年03月13日
シティのシャープな歌い回し
ももと庵や食の話題の箸休めに、アジアつながりで、アジアの実力派歌手を時々取り上げてみたいと思います。日本ではあまり知られていませんが、なかなかのボーカリストたちが各地で歌声を響かせているんです。
アジア実力派ボーカリスト、記念すべき初回は、マレーシアのシティ・ヌルハリーザ Siti Nurhaliza。
マレーシアはもちろん、隣国インドネシアでも知らない人はいないというスター歌手。英語版のウィキペディアをのぞくと、ものすごい情報量がドドドーンと出てきて、驚かされます。
まず比較的最近のものと思われるレコーディングの映像から。緊張感のあまりないふだん着感覚のスタジオの雰囲気とは裏腹に、細部まで神経の行き届いた歌唱です。曲は、1997年のセカンドアルバムに収められたヒット曲、アク・チンタ・パダム(Aku Cinta Padamu = I love you)。
これほどシンプルなメロディなのにこれほど聴かせてしまう「歌ヂカラ」というのは、ちょっとすごいんじゃないでしょうか。
声量たっぷりで張りのある高音域の声と、音階を降りたり上ったりする時のシャープな歌い回し。背後霊のように控えているディレクター氏?も、太鼓判のVサインを出していますね。
シティ・ヌルハリーザは、1979年、マレーシアはパハン州の生まれ。祖父や母が歌手で、彼女も家族と一緒に小さい頃から結婚式などで歌っていました。16歳でテレビのスター誕生番組で優勝、国際的なレコード会社4社から契約の誘いを受けました。
デビュー以来、ヒットを飛ばし続け、数え切れないほどの賞を受賞しています。まさに歌姫として生きるために生まれてきたような歩みです。
シティ・ヌルハリーザは、マレーの伝統的な曲と現代風のポップスの両方を歌ってきました。マレーの伝統的な曲調の歌の中から、アップテンポの曲チンタ・イニ(Cinta Ini)のコンサート映像をどうぞ。
ポップス系を歌う彼女の映像もYouTubeにはいろいろありますが、マレーシアの若手アーチストとして頭角を現している男性歌手ハフィースとのデュエット映像を見てみましょうか。曲はムアラ・ハティ(Muara Hati)。熱唱です。
シティのあふれ出る歌声が、ハフィースの高めの声とよく絡んで、すばらしいハーモニーを生み出していますね。
シティの曲はiTunesで売っています。
アジア実力派ボーカリスト、記念すべき初回は、マレーシアのシティ・ヌルハリーザ Siti Nurhaliza。
マレーシアはもちろん、隣国インドネシアでも知らない人はいないというスター歌手。英語版のウィキペディアをのぞくと、ものすごい情報量がドドドーンと出てきて、驚かされます。
まず比較的最近のものと思われるレコーディングの映像から。緊張感のあまりないふだん着感覚のスタジオの雰囲気とは裏腹に、細部まで神経の行き届いた歌唱です。曲は、1997年のセカンドアルバムに収められたヒット曲、アク・チンタ・パダム(Aku Cinta Padamu = I love you)。
これほどシンプルなメロディなのにこれほど聴かせてしまう「歌ヂカラ」というのは、ちょっとすごいんじゃないでしょうか。
声量たっぷりで張りのある高音域の声と、音階を降りたり上ったりする時のシャープな歌い回し。背後霊のように控えているディレクター氏?も、太鼓判のVサインを出していますね。
シティ・ヌルハリーザは、1979年、マレーシアはパハン州の生まれ。祖父や母が歌手で、彼女も家族と一緒に小さい頃から結婚式などで歌っていました。16歳でテレビのスター誕生番組で優勝、国際的なレコード会社4社から契約の誘いを受けました。
デビュー以来、ヒットを飛ばし続け、数え切れないほどの賞を受賞しています。まさに歌姫として生きるために生まれてきたような歩みです。
シティ・ヌルハリーザは、マレーの伝統的な曲と現代風のポップスの両方を歌ってきました。マレーの伝統的な曲調の歌の中から、アップテンポの曲チンタ・イニ(Cinta Ini)のコンサート映像をどうぞ。
ポップス系を歌う彼女の映像もYouTubeにはいろいろありますが、マレーシアの若手アーチストとして頭角を現している男性歌手ハフィースとのデュエット映像を見てみましょうか。曲はムアラ・ハティ(Muara Hati)。熱唱です。
シティのあふれ出る歌声が、ハフィースの高めの声とよく絡んで、すばらしいハーモニーを生み出していますね。
シティの曲はiTunesで売っています。
2013年01月07日
土鍋炊きアジアごはんの香り
アジア米ばなしの2回目は「白ごはん」です。
アジア産インディカ米のごはんは、日本米のごはんより粘りが少ないのが特徴ですが、おいしく炊かれたごはんは、噛んだ時にねっとりしたごはん粒の中に歯がヌーッと入っていく感じがしっかりあります。特に高級米は、さらっとはしていますが、柔らかい独特のねっとり感があり、決して「ぼそぼそ」ではありません。
もう20年近く前になりますが、日本で米が不作になり、タイから米を緊急輸入したことがありました。1993年のこと。その時は「ぼそぼそしていておいしくない」という感想を抱いた人が多かったようです。インディカ米のおいしい炊き方、食べ方を知らない日本人が圧倒的だったため、そういう残念な結果になりました。
インディカ米は、多めの水で柔らかめに炊くと、おいしくなります。
お湯でゆで、余った湯を捨てる炊き方もあります。ただ、それをやると、せっかくの香りも弱まってしまい、もったいない気がします。米の1.3ー1.4倍の多めの水を入れ、日本の炊き方と同じようにフタをして水分を全部米に吸わせる方がいいようです。
それからアジアのごはんは温かいうちが命。冷めると食感が落ちますから、ぜひとも「炊きたて」を食べて下さい。
アジアの米の魅力の一つは、その香りにあります。特に香りの強い米は、香り米として高い値段で売られています。インドのバスマティ米、タイのホームマリ米。いずれも香り高い高級米として世界中に輸出されています。
ごはんを炊く時の香りがありますよね。あの香りが好きな人なら、アジアの香り米は大好きになるはずです。大いに食欲をそそられる香りです。
ベトナムでは、土鍋で炊いたごはんを売りにしている食堂を時々見かけました。ニオイアダンの葉を入れて炊き、さらに香りを強めている店もあります。
冒頭の写真がそれ。土鍋の炊きたてごはんは香りがよく、底の部分に少しおこげもついていて、その香ばしさがまたたまりません。
沖縄では、アダンはどこにでも生えていますが、ニオイアダンを入れてごはんを炊くというのは聞いたことがありません。
このニオイアダン、香り米の成分と同じものが豊富に含まれているんだそうです。インドネシア、マレーシア、シンガポール、ベトナムなどのアジア各国では、ごはんを炊く時だけでなく、ニオイアダンの葉の汁を入れて緑色の米粉のお菓子やスポンジケーキを作ったりもします。
ニオイアダンは香り米の香りと同じですから、それをお菓子にも使うということは、米の香りが心底好きということ。アジアのごはん文化は奥が深いです。
アジア産インディカ米のごはんは、日本米のごはんより粘りが少ないのが特徴ですが、おいしく炊かれたごはんは、噛んだ時にねっとりしたごはん粒の中に歯がヌーッと入っていく感じがしっかりあります。特に高級米は、さらっとはしていますが、柔らかい独特のねっとり感があり、決して「ぼそぼそ」ではありません。
もう20年近く前になりますが、日本で米が不作になり、タイから米を緊急輸入したことがありました。1993年のこと。その時は「ぼそぼそしていておいしくない」という感想を抱いた人が多かったようです。インディカ米のおいしい炊き方、食べ方を知らない日本人が圧倒的だったため、そういう残念な結果になりました。
インディカ米は、多めの水で柔らかめに炊くと、おいしくなります。
お湯でゆで、余った湯を捨てる炊き方もあります。ただ、それをやると、せっかくの香りも弱まってしまい、もったいない気がします。米の1.3ー1.4倍の多めの水を入れ、日本の炊き方と同じようにフタをして水分を全部米に吸わせる方がいいようです。
それからアジアのごはんは温かいうちが命。冷めると食感が落ちますから、ぜひとも「炊きたて」を食べて下さい。
アジアの米の魅力の一つは、その香りにあります。特に香りの強い米は、香り米として高い値段で売られています。インドのバスマティ米、タイのホームマリ米。いずれも香り高い高級米として世界中に輸出されています。
ごはんを炊く時の香りがありますよね。あの香りが好きな人なら、アジアの香り米は大好きになるはずです。大いに食欲をそそられる香りです。
ベトナムでは、土鍋で炊いたごはんを売りにしている食堂を時々見かけました。ニオイアダンの葉を入れて炊き、さらに香りを強めている店もあります。
冒頭の写真がそれ。土鍋の炊きたてごはんは香りがよく、底の部分に少しおこげもついていて、その香ばしさがまたたまりません。
沖縄では、アダンはどこにでも生えていますが、ニオイアダンを入れてごはんを炊くというのは聞いたことがありません。
このニオイアダン、香り米の成分と同じものが豊富に含まれているんだそうです。インドネシア、マレーシア、シンガポール、ベトナムなどのアジア各国では、ごはんを炊く時だけでなく、ニオイアダンの葉の汁を入れて緑色の米粉のお菓子やスポンジケーキを作ったりもします。
ニオイアダンは香り米の香りと同じですから、それをお菓子にも使うということは、米の香りが心底好きということ。アジアのごはん文化は奥が深いです。
2010年03月21日
[第161話 農、南] 稲の品種改良に注ぐ情熱
沖縄本島の稲作地域と言えば金武町だが、名護市喜瀬にも田んぼがある。喜瀬の水田地域を回っていたら、小さな苗が植えられていた。沖縄本島では非常に珍しい稲作専業農家、比嘉菊敏さんの田んぼだった。比嘉さんは新しい品種を自ら作っている。
比嘉さんの田んぼに植えられていた小さな苗は黒米。定植は10日ほど前のことで、まだ本当に小さな苗だが、よく見ると、紫色の色素を帯びている部分が葉のところどころにある。黒米のアントシアニンの紫色は、子実だけではなく、葉にも現われるらしい。
第44話で書いたように、沖縄の稲作は八重山や伊平屋などの離島地域が中心で、沖縄本島では既に稲作自体が珍しいものになってしまった。わずかに残された金武町でも、その多くは自給用。
専業農家の比嘉さんは、当然ながら米を出荷している。黒米だけでなく、普通の白いうるち米も作る。田んぼではターンムも作っているから、正確には、稲作専業農家ではなく、「田んぼ専業農家」というべきだろう。
ことし比嘉さんは、新しい稲の苗を定植する予定だ。黒米の一種だが、うるち米ともかけ合わせたオリジナル品種。10年がかりで種を選抜し続け、ことしは500坪ほど定植できそうという。
その苗床を見せてもらった。「モミを割らないと玄米の色が分からないので、すべてモミを割って、玄米を選抜します。だから、この苗はすべて玄米から発芽させたものなんですよ」。播種はモミをまくのが普通なので、玄米から作られた苗の話にはびっくりした。
こうした品種改良を自分でやる農家は、沖縄に限らず、現在は非常に少ない。しかし、洋の東西を問わず、農業が始まったとされる2万年前から、品種を絶えず改良してきたのは常に農家だったのだ。
いま、品種改良は、農家の手から完全に離れている。品種改良を一手に引き受けているのは、米などの穀類なら農業試験場の技官、野菜類ならば民間の種会社。いずれも「育種の専門家」だ。
だが、目を海外に転じると、農家が品種改良を手がけるケースはまだある。そのほとんどは、開発途上国の、それも交通の不便な地域。そういう地域社会に関する文化人類学者らの報告書を読むと、農家による品種改良の話が時々顔を出す。
例えば、ペルーのリマにある国際イモセンターが出したある報告書によると、ネパールのある村では、女性の品種改良農家がいて、13種類のサツマイモの品種を改良し続けている。この品種は実が固いけど日持ちがいいので出荷用、この品種は見栄えは悪いが甘みが強いので自家用、この品種は水不足に強いので干ばつ対策用、この品種は甘みは今ひとつだが皮色がきれいなのでやはり出荷用、といった具合だ。その管理ぶりは、あきれるほど細かい。
品種改良は、無名の篤農家の手によって、文書の記録が残されるはるか以前から行われていた。例えば、第142話でも触れたが、中尾佐助の名著「栽培植物と農耕の起源」によると、バナナが現在のように種なしになったのは約5000年前に今のインドネシアあたりで品種改良が行われたから、と推測されるらしい。
いったいどんな農民がバナナを種なしにしたのだろうか。たまたま突然変異で種がなくなったバナナを見つけ、その理由を考え、そうする方法を考え考え・・・。いくつもの偶然、幸運、不運が重なり、長い時間がかかったに違いない。その間に登場する篤農家も、たくさん選手交代したことだろう。
二酸化炭素や騒音などを全く出さないゼロエミッションの電気自動車。日産自動車がその開発につぎ込んだ研究開発費は5000億円以上、と言われる。カルロス・ゴーン最高経営責任者がそれを明らかにしたのは昨年の東京モーターショーだった。
比嘉さんやネパールの女性のような名も無き篤農家と、世界規模の巨大企業では、注がれる資金のケタはもちろん全く違う。だが、技術革新に注ぐ情熱は、農業、工業を問わず、今も昔も変わらない。
もう一つの大きな違いは、育種の専門家や大企業による研究開発は大量生産のための研究開発であること。これに対して、農家による研究開発は、もっと細かく、多様だ。ネパール女性のサツマイモの例がそれを物語る。
これからの消費者の多様なニーズに応えることができるのは、案外、こうした農家による研究開発になってくるかもしれない。
比嘉さんの田んぼに植えられていた小さな苗は黒米。定植は10日ほど前のことで、まだ本当に小さな苗だが、よく見ると、紫色の色素を帯びている部分が葉のところどころにある。黒米のアントシアニンの紫色は、子実だけではなく、葉にも現われるらしい。
第44話で書いたように、沖縄の稲作は八重山や伊平屋などの離島地域が中心で、沖縄本島では既に稲作自体が珍しいものになってしまった。わずかに残された金武町でも、その多くは自給用。
専業農家の比嘉さんは、当然ながら米を出荷している。黒米だけでなく、普通の白いうるち米も作る。田んぼではターンムも作っているから、正確には、稲作専業農家ではなく、「田んぼ専業農家」というべきだろう。
ことし比嘉さんは、新しい稲の苗を定植する予定だ。黒米の一種だが、うるち米ともかけ合わせたオリジナル品種。10年がかりで種を選抜し続け、ことしは500坪ほど定植できそうという。
その苗床を見せてもらった。「モミを割らないと玄米の色が分からないので、すべてモミを割って、玄米を選抜します。だから、この苗はすべて玄米から発芽させたものなんですよ」。播種はモミをまくのが普通なので、玄米から作られた苗の話にはびっくりした。
こうした品種改良を自分でやる農家は、沖縄に限らず、現在は非常に少ない。しかし、洋の東西を問わず、農業が始まったとされる2万年前から、品種を絶えず改良してきたのは常に農家だったのだ。
いま、品種改良は、農家の手から完全に離れている。品種改良を一手に引き受けているのは、米などの穀類なら農業試験場の技官、野菜類ならば民間の種会社。いずれも「育種の専門家」だ。
だが、目を海外に転じると、農家が品種改良を手がけるケースはまだある。そのほとんどは、開発途上国の、それも交通の不便な地域。そういう地域社会に関する文化人類学者らの報告書を読むと、農家による品種改良の話が時々顔を出す。
例えば、ペルーのリマにある国際イモセンターが出したある報告書によると、ネパールのある村では、女性の品種改良農家がいて、13種類のサツマイモの品種を改良し続けている。この品種は実が固いけど日持ちがいいので出荷用、この品種は見栄えは悪いが甘みが強いので自家用、この品種は水不足に強いので干ばつ対策用、この品種は甘みは今ひとつだが皮色がきれいなのでやはり出荷用、といった具合だ。その管理ぶりは、あきれるほど細かい。
品種改良は、無名の篤農家の手によって、文書の記録が残されるはるか以前から行われていた。例えば、第142話でも触れたが、中尾佐助の名著「栽培植物と農耕の起源」によると、バナナが現在のように種なしになったのは約5000年前に今のインドネシアあたりで品種改良が行われたから、と推測されるらしい。
いったいどんな農民がバナナを種なしにしたのだろうか。たまたま突然変異で種がなくなったバナナを見つけ、その理由を考え、そうする方法を考え考え・・・。いくつもの偶然、幸運、不運が重なり、長い時間がかかったに違いない。その間に登場する篤農家も、たくさん選手交代したことだろう。
二酸化炭素や騒音などを全く出さないゼロエミッションの電気自動車。日産自動車がその開発につぎ込んだ研究開発費は5000億円以上、と言われる。カルロス・ゴーン最高経営責任者がそれを明らかにしたのは昨年の東京モーターショーだった。
比嘉さんやネパールの女性のような名も無き篤農家と、世界規模の巨大企業では、注がれる資金のケタはもちろん全く違う。だが、技術革新に注ぐ情熱は、農業、工業を問わず、今も昔も変わらない。
もう一つの大きな違いは、育種の専門家や大企業による研究開発は大量生産のための研究開発であること。これに対して、農家による研究開発は、もっと細かく、多様だ。ネパール女性のサツマイモの例がそれを物語る。
これからの消費者の多様なニーズに応えることができるのは、案外、こうした農家による研究開発になってくるかもしれない。