フォー
2017年03月05日
【感動アジアCafe】魚醤とジュディカ [3/6放送予定]
FMうるまで毎週月曜夜8時30分に放送している万鐘ももと庵プレゼンツ「感動アジアCafe」。明日3/6(月)の放送は、アジアの魚醤についておしゃべりします。
伝統的なカメ仕込みの魚醤(ベトナム・ファンティエット)
「てぃーあんだアジアストリートフード」のコーナーでお話しする魚醤。アジア料理に欠かせない本命中の本命、です。
ここでクイズを。ももと庵のメニューのうち、魚醤を使っていないものは何品あるでしょうか。正解は番組で。
ももと庵の魚醤メニューの代表格は、やはりフォーでしょうね。
ももと庵の鶏肉フォー
日本で唯一、アジアンポップスを紹介する「わくわくアジアンポップミュージック」のコーナー。今回は、インドネシアの中堅ボーカリスト、ジュディカJudikaです。「天空に抜ける声」を楽しんでいただきます。
ジュディカ
FMうるまは、スマホやパソコンを使えば、どこにいても聴けます。
方法1 ラジオ日本、日本ラジオ、Tunein Radio、myTuner Radio、ListenRadioなど、各種のラジオアプリで「FMうるま」を検索する(Tunein Radioの場合は「fmuruma」と英文字で検索して下さい)
方法2 専用アプリ「FM聴forFMうるま」をダウンロードする。アプリを開くだけで鳴り出すのでカンタン!
どうぞお楽しみに。
伝統的なカメ仕込みの魚醤(ベトナム・ファンティエット)
「てぃーあんだアジアストリートフード」のコーナーでお話しする魚醤。アジア料理に欠かせない本命中の本命、です。
ここでクイズを。ももと庵のメニューのうち、魚醤を使っていないものは何品あるでしょうか。正解は番組で。
ももと庵の魚醤メニューの代表格は、やはりフォーでしょうね。
ももと庵の鶏肉フォー
日本で唯一、アジアンポップスを紹介する「わくわくアジアンポップミュージック」のコーナー。今回は、インドネシアの中堅ボーカリスト、ジュディカJudikaです。「天空に抜ける声」を楽しんでいただきます。
ジュディカ
FMうるまは、スマホやパソコンを使えば、どこにいても聴けます。
方法1 ラジオ日本、日本ラジオ、Tunein Radio、myTuner Radio、ListenRadioなど、各種のラジオアプリで「FMうるま」を検索する(Tunein Radioの場合は「fmuruma」と英文字で検索して下さい)
方法2 専用アプリ「FM聴forFMうるま」をダウンロードする。アプリを開くだけで鳴り出すのでカンタン!
どうぞお楽しみに。
2016年09月05日
2016年08月22日
2016年08月17日
2011年10月16日
ヒラヒラ感がたまらない
沖縄とアジアの食 第5回 フォー
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。
ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。
食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。
生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。
日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。
ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。
食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。
生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。
日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。
2011年10月09日
肉はいつまでもつか
沖縄とアジアの食 第4回 肉扱いの文化
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。
2010年03月29日
[第162話 食、南] 風で麺を締める
第45話で紹介した沖縄そばづくりについて再び。今回は、製造工程の写真を中心にみてみよう。沖縄そばは生麺のまま流通しているのではなく「ゆで麺」で売られているが、それでもかなりのコシがある。ゆでて時間が経っても「のびない」のは、なぜだろうか。
沖縄県内では、沖縄そばの生麺は売られていない。少なくとも沖縄県民が普通に買い物をする小売店やスーパーにはない。沖縄そばは必ずゆで麺で売られている。名うての沖縄そば専門店も、ほぼ例外なくゆで麺を使う。
東京のスーパーでも、うどんや中華麺のゆで麺が売られているが、コシ、歯ごたえという意味では、やはり生麺のゆでたてには一歩ひけをとる。これと対照的に、ゆでてだいぶ時間が経った沖縄そばのゆで麺には立派なコシがある。どうしたらあの独特のコシが持続するのだろうか。
沖縄そばの製造工程を、豊見城市の亀浜製麺所で見せてもらった。こねた生地をのして細く切る。こね方、のし方も出来上がりのコシの強さに大きな影響を与えるが、今回はそこの話はパスして、ゆでた後、どうするかに焦点を絞ろう。
亀浜製麺所では、鍋から引き上げた麺を作業台にさーっと広げて、扇風機の強風を当てながら、手早く植物油をふりかける。風であら熱をとりながら、同時に、油が全体に均一に回るように、麺をほぐしていく。ひたすら素早く、手早く。まさに職人芸というべき手作業だ。
ほぐされ、あら熱がとれた麺は、機械にかけられた形で、さらに扇風機の風にさらされ、完全に冷やされる。冷却は風で。そうめんを冷やすように水にさらすことはしない。このようにして作られた沖縄そばは、ゆでた後の処理で形成されたコシが4、5日は持続する。
主役は風だ。風で冷やしながら、蒸気をどんどん飛ばしていくことで、水気を切る。この過程で麺が締まっていき、コシが出る。油は、ほぐしている間に麺同士がくっつかないようにするため。一定の水分を飛ばした後は、逆に麺の水分を守って、表面が乾かないようにする。
こうしてゆでた後に脱水冷却処理された沖縄そばは、時間が経過するにつれて熟成が進み、ゆでたてのコシとは微妙に違う独特の噛み応えが出てくる。第45話で「ポクポクした感じ」と説明したが、まさにこれこそが沖縄そばにしかない独特の食感なのだ。
話は変わる。汁麺の麺にはコシが必須と考えている人が日本には多いかもしれないが、コシのない汁麺もいろいろある。その多くは、沖縄そばと同じく、ゆで麺。
例えばベトナム北部でよく食べられるフォー(写真上)は、ひらひらした米の麺で、コシらしきものは全く感じられないが、うまい。同じくベトナムでフォーよりもポピュラーな存在であるブン(写真下)も、米麺のゆで麺で、コシらしいコシはないが、いろいろな汁に入れるとやはりおいしい。
そもそも麺にしてコシが出るのは小麦のグルテンがあるから。米粉にはそういう成分はほとんどないから、コシは初めから期待できない。しかし、フォーやブンを食べていてつくづく思うのは、麺の厚さや幅、舌ざわり、水分の含有量といったコシ以外の要素が全体の食感に大きな影響を与えているということ。米麺では、コシがほとんどなくても、十分おいしく感じられる。
日本では米の消費拡大のために米粉の活用が叫ばれているが、米麺でコシを出そうとするのはあまり意味がなさそうだ。それよりも、コシ以外の要素を研究し尽くして、汁によく合う米粉の麺を作り出そうとする方が前向きというもの。先輩格のおいしい米粉の汁麺は、インドシナ各国やタイに山ほどある。
沖縄県内では、沖縄そばの生麺は売られていない。少なくとも沖縄県民が普通に買い物をする小売店やスーパーにはない。沖縄そばは必ずゆで麺で売られている。名うての沖縄そば専門店も、ほぼ例外なくゆで麺を使う。
東京のスーパーでも、うどんや中華麺のゆで麺が売られているが、コシ、歯ごたえという意味では、やはり生麺のゆでたてには一歩ひけをとる。これと対照的に、ゆでてだいぶ時間が経った沖縄そばのゆで麺には立派なコシがある。どうしたらあの独特のコシが持続するのだろうか。
沖縄そばの製造工程を、豊見城市の亀浜製麺所で見せてもらった。こねた生地をのして細く切る。こね方、のし方も出来上がりのコシの強さに大きな影響を与えるが、今回はそこの話はパスして、ゆでた後、どうするかに焦点を絞ろう。
亀浜製麺所では、鍋から引き上げた麺を作業台にさーっと広げて、扇風機の強風を当てながら、手早く植物油をふりかける。風であら熱をとりながら、同時に、油が全体に均一に回るように、麺をほぐしていく。ひたすら素早く、手早く。まさに職人芸というべき手作業だ。
ほぐされ、あら熱がとれた麺は、機械にかけられた形で、さらに扇風機の風にさらされ、完全に冷やされる。冷却は風で。そうめんを冷やすように水にさらすことはしない。このようにして作られた沖縄そばは、ゆでた後の処理で形成されたコシが4、5日は持続する。
主役は風だ。風で冷やしながら、蒸気をどんどん飛ばしていくことで、水気を切る。この過程で麺が締まっていき、コシが出る。油は、ほぐしている間に麺同士がくっつかないようにするため。一定の水分を飛ばした後は、逆に麺の水分を守って、表面が乾かないようにする。
こうしてゆでた後に脱水冷却処理された沖縄そばは、時間が経過するにつれて熟成が進み、ゆでたてのコシとは微妙に違う独特の噛み応えが出てくる。第45話で「ポクポクした感じ」と説明したが、まさにこれこそが沖縄そばにしかない独特の食感なのだ。
話は変わる。汁麺の麺にはコシが必須と考えている人が日本には多いかもしれないが、コシのない汁麺もいろいろある。その多くは、沖縄そばと同じく、ゆで麺。
例えばベトナム北部でよく食べられるフォー(写真上)は、ひらひらした米の麺で、コシらしきものは全く感じられないが、うまい。同じくベトナムでフォーよりもポピュラーな存在であるブン(写真下)も、米麺のゆで麺で、コシらしいコシはないが、いろいろな汁に入れるとやはりおいしい。
そもそも麺にしてコシが出るのは小麦のグルテンがあるから。米粉にはそういう成分はほとんどないから、コシは初めから期待できない。しかし、フォーやブンを食べていてつくづく思うのは、麺の厚さや幅、舌ざわり、水分の含有量といったコシ以外の要素が全体の食感に大きな影響を与えているということ。米麺では、コシがほとんどなくても、十分おいしく感じられる。
日本では米の消費拡大のために米粉の活用が叫ばれているが、米麺でコシを出そうとするのはあまり意味がなさそうだ。それよりも、コシ以外の要素を研究し尽くして、汁によく合う米粉の麺を作り出そうとする方が前向きというもの。先輩格のおいしい米粉の汁麺は、インドシナ各国やタイに山ほどある。