ブラジル
2012年02月05日
電気工事を現場で一から学ぶ
沖縄を創る人 第32回
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(上)
沖縄出身の移民やその2世、3世はハワイや南米を中心に世界各地にたくさんいる。オキナワの遺伝子を宿した人々がどんな生き方をしているのか。万鐘本店では機会があれば、そんな人々にも登場してもらうことにする。今回は南米ペルー出身の平敷兼長さん。
ペルーは、ブラジルの西側の太平洋岸に位置する。日本の3.4倍の国土に約3000万人が暮らす。かつてはインカ帝国の中心地だったことで知られ、南米各国の中でも、アルゼンチンなどは欧州系住民が多いが、ペルーは先住民や、先住民とスペイン人との混血の人々の人口比が高い。
外務省や沖縄県によると、ペルーの日系人は約10万人で、日系人人口ではブラジル、米国に次いで3位。ペルー日系人10万人のうち約7万人が沖縄系と推計されている。
平敷さんもそんな1人。首都リマで生まれ育った。祖父が浦添市の出身、父は2世、母はペルー出身。
高校を卒業した1989年に日本に来た。当時、ペルーはフジモリ大統領時代の直前。景気は悪く、治安もよくなかった。
「あの頃、若い日系はみな日本に出稼ぎに行くという雰囲気がありましたね」
ペルーではほとんどスペイン語だった。日本語といえば「おばあちゃんの沖縄方言くらい」。リマでも日本語学校で毎日1時間くらいずつ日本語を習ってはいたのだが、当時は日本語にあまり興味が湧かず、本気で身につけようとは考えていなかった。だから、来日当初は、言葉で苦労した。
だが、日本のテレビを見ていたら、どこかで聞いたことのある音だと感じた。平敷さんの中に、知らず知らずのうちに日本語の音が入っていたのかもしれない。こうしてテレビを見ながら、平敷さんは日本語を徐々に磨いていった。
まず東京の車の部品メーカーで3年間、働いた。その後、横浜市鶴見区のガラス工場に。ここで5年ほど勤務した。この間に、ブラジル生まれで、やはり日本で働いていた日系女性と結婚した。
2002年から5年間は、同じ鶴見区で沖縄出身者が経営する電気工事会社で働いた。ここでの仕事が、平敷さんのその後を方向づける職業経験になった。
電気工事会社での仕事は楽しかった。電気の勉強をしたことはなかったので、現場で仕事をしながら、一から先輩に教えてもらった。電気は目に見えないが、先輩は電気のすべてを、イロハから教えてくれた。
建物を建設する際に電気を配線するという仕事が多かったため、電気配線の技術に加えて、建築工事の技術も現場で見ながら自然に学んでいった。
「横でずっと見ているんで、どうやったらいいのか、だんだん分かってくるんです」。もし大学に行っていたら工学系を勉強していたはず、と平敷さんは振り返る。
やがて平敷さんは独立し、仲間と電気工事会社を作った。だが、不景気の時代。電気の仕事は建設需要に大きく影響される。仕事の見通しに自信が持てる状況では全くなかった。
一方、南米は、平敷さんが出て来た頃とは様変わり。ブラジルを先頭に、経済がどんどん成長している。平敷さんの同級生の中には、高卒後もペルーにとどまって大学に進み、20年後の今、4000ドルもの高額の月収を得る人が現れた。神奈川にいた南米出身の日系人仲間の中には、ブラジルで会社を立ち上げる人も出てきた。
そんな中で平敷さんもペルーに戻ることを決意。一緒に電気工事会社をやっていた兄に経営を委ね、妻と日本生まれの長男、次男を連れてペルーに戻った。2009年。日本に来てから20年が過ぎていた。
続きは2/12(日)に。
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(上)
沖縄出身の移民やその2世、3世はハワイや南米を中心に世界各地にたくさんいる。オキナワの遺伝子を宿した人々がどんな生き方をしているのか。万鐘本店では機会があれば、そんな人々にも登場してもらうことにする。今回は南米ペルー出身の平敷兼長さん。
ペルーは、ブラジルの西側の太平洋岸に位置する。日本の3.4倍の国土に約3000万人が暮らす。かつてはインカ帝国の中心地だったことで知られ、南米各国の中でも、アルゼンチンなどは欧州系住民が多いが、ペルーは先住民や、先住民とスペイン人との混血の人々の人口比が高い。
外務省や沖縄県によると、ペルーの日系人は約10万人で、日系人人口ではブラジル、米国に次いで3位。ペルー日系人10万人のうち約7万人が沖縄系と推計されている。
平敷さんもそんな1人。首都リマで生まれ育った。祖父が浦添市の出身、父は2世、母はペルー出身。
高校を卒業した1989年に日本に来た。当時、ペルーはフジモリ大統領時代の直前。景気は悪く、治安もよくなかった。
「あの頃、若い日系はみな日本に出稼ぎに行くという雰囲気がありましたね」
ペルーではほとんどスペイン語だった。日本語といえば「おばあちゃんの沖縄方言くらい」。リマでも日本語学校で毎日1時間くらいずつ日本語を習ってはいたのだが、当時は日本語にあまり興味が湧かず、本気で身につけようとは考えていなかった。だから、来日当初は、言葉で苦労した。
だが、日本のテレビを見ていたら、どこかで聞いたことのある音だと感じた。平敷さんの中に、知らず知らずのうちに日本語の音が入っていたのかもしれない。こうしてテレビを見ながら、平敷さんは日本語を徐々に磨いていった。
まず東京の車の部品メーカーで3年間、働いた。その後、横浜市鶴見区のガラス工場に。ここで5年ほど勤務した。この間に、ブラジル生まれで、やはり日本で働いていた日系女性と結婚した。
2002年から5年間は、同じ鶴見区で沖縄出身者が経営する電気工事会社で働いた。ここでの仕事が、平敷さんのその後を方向づける職業経験になった。
電気工事会社での仕事は楽しかった。電気の勉強をしたことはなかったので、現場で仕事をしながら、一から先輩に教えてもらった。電気は目に見えないが、先輩は電気のすべてを、イロハから教えてくれた。
建物を建設する際に電気を配線するという仕事が多かったため、電気配線の技術に加えて、建築工事の技術も現場で見ながら自然に学んでいった。
「横でずっと見ているんで、どうやったらいいのか、だんだん分かってくるんです」。もし大学に行っていたら工学系を勉強していたはず、と平敷さんは振り返る。
やがて平敷さんは独立し、仲間と電気工事会社を作った。だが、不景気の時代。電気の仕事は建設需要に大きく影響される。仕事の見通しに自信が持てる状況では全くなかった。
一方、南米は、平敷さんが出て来た頃とは様変わり。ブラジルを先頭に、経済がどんどん成長している。平敷さんの同級生の中には、高卒後もペルーにとどまって大学に進み、20年後の今、4000ドルもの高額の月収を得る人が現れた。神奈川にいた南米出身の日系人仲間の中には、ブラジルで会社を立ち上げる人も出てきた。
そんな中で平敷さんもペルーに戻ることを決意。一緒に電気工事会社をやっていた兄に経営を委ね、妻と日本生まれの長男、次男を連れてペルーに戻った。2009年。日本に来てから20年が過ぎていた。
続きは2/12(日)に。
2008年03月25日
[第47話 食、南] 帰郷者が手作りするブラジルおやつ
沖縄はおやつが豊富。サーターアンダーギーやイモ天ぷらのようなおなじみの顔ぶれ以外にも、ターンムパイなど、新しく生み出されて既に市民権を得たおやつがある。ブラジルおやつも、そんな新しいおやつの世界を広げてくれる。今回は、ブラジル帰郷者の仲本隆信さん、まさみさん夫妻が手作りするブラジルおやつをご紹介。
写真はコシンヤ。仲本夫妻の店の名前にもなっている。ジャガイモのコロッケのようだが、日本の肉屋の定番コロッケとは違う。日本のコロッケはジャガイモの中にひき肉や玉ネギがパラパラ散っているが、コシンヤは、肉類があんの形で中心部にまとまって入っているので、普通のコロッケよりもそれらの味がはっきり分かる。
仲本さんのコシンヤは、牛肉、鶏肉、チーズの3種類。衣がむやみに厚くてバリバリに仕上がっていたり、化学調味料で濃い味がついているようなコロッケが多いが、このコシンヤは手づくりのやさしい味。ブラジルのおふくろの味、なのかもしれない。
次は小麦生地で作る3種。左からエスフィーア、パスティス、サルテンヤ。
まずサルテンヤは、パイ生地で鶏肉あんを包んで焼いたもの。生地の合わせ目をひねって模様をつける。肉あんにはパウミットというココナツの若芽をブラジルでは入れるが、沖縄では手に入らないので、仲本さんは代わりにタケノコを使っている。
エスフィーアは、パンのような生地に、牛肉あんが入っている。イタリアンパセリの香りがアクセント。仲本さんはイタリアンパセリを自宅で栽培して、エスフィーアに入れている。
パスティスは中に肉を入れたものだが、その応用ということで、仲本さんは沖縄のターウムを入れたものも作っている。ほんのりと甘く、もっちりしたターウムと、歯ごたえのあるパスティスの生地がいいコンビネーションを見せる。
仲本さんはうるま市に生まれたが、1959年、高校生の時に家族とともにブラジルに渡った。ブラジルはサンパウロ郊外で野菜販売の商売をしていたが、治安が悪化した1986年にまさみさんらと帰国。今から8年前に現在の店コシンヤを始めた。
沖縄は、かつて多くの人々が海を超え、南米各国に渡った。中でもブラジルは現在南米各国にいる沖縄系移民24万人の半分以上の14万人余りが暮らす。仲本さんのような帰郷者もいて、ブラジルと沖縄の草の根のかけはしになっている。
コシンヤは、うるま市田場1557-8、電話973-3074。土日祝休。午前は店舗で作りながら販売し、午後はうるま市役所地下玄関前で移動販売している。
コシンヤとターウムパイ(パスティスの応用)は常備しているが、サルテンヤ、エスフィーアは作らない日もある。欲しい場合は、あらかじめ電話して、いつ作るか尋ねてから行くとよい。
写真はコシンヤ。仲本夫妻の店の名前にもなっている。ジャガイモのコロッケのようだが、日本の肉屋の定番コロッケとは違う。日本のコロッケはジャガイモの中にひき肉や玉ネギがパラパラ散っているが、コシンヤは、肉類があんの形で中心部にまとまって入っているので、普通のコロッケよりもそれらの味がはっきり分かる。
仲本さんのコシンヤは、牛肉、鶏肉、チーズの3種類。衣がむやみに厚くてバリバリに仕上がっていたり、化学調味料で濃い味がついているようなコロッケが多いが、このコシンヤは手づくりのやさしい味。ブラジルのおふくろの味、なのかもしれない。
次は小麦生地で作る3種。左からエスフィーア、パスティス、サルテンヤ。
まずサルテンヤは、パイ生地で鶏肉あんを包んで焼いたもの。生地の合わせ目をひねって模様をつける。肉あんにはパウミットというココナツの若芽をブラジルでは入れるが、沖縄では手に入らないので、仲本さんは代わりにタケノコを使っている。
エスフィーアは、パンのような生地に、牛肉あんが入っている。イタリアンパセリの香りがアクセント。仲本さんはイタリアンパセリを自宅で栽培して、エスフィーアに入れている。
パスティスは中に肉を入れたものだが、その応用ということで、仲本さんは沖縄のターウムを入れたものも作っている。ほんのりと甘く、もっちりしたターウムと、歯ごたえのあるパスティスの生地がいいコンビネーションを見せる。
仲本さんはうるま市に生まれたが、1959年、高校生の時に家族とともにブラジルに渡った。ブラジルはサンパウロ郊外で野菜販売の商売をしていたが、治安が悪化した1986年にまさみさんらと帰国。今から8年前に現在の店コシンヤを始めた。
沖縄は、かつて多くの人々が海を超え、南米各国に渡った。中でもブラジルは現在南米各国にいる沖縄系移民24万人の半分以上の14万人余りが暮らす。仲本さんのような帰郷者もいて、ブラジルと沖縄の草の根のかけはしになっている。
コシンヤは、うるま市田場1557-8、電話973-3074。土日祝休。午前は店舗で作りながら販売し、午後はうるま市役所地下玄関前で移動販売している。
コシンヤとターウムパイ(パスティスの応用)は常備しているが、サルテンヤ、エスフィーアは作らない日もある。欲しい場合は、あらかじめ電話して、いつ作るか尋ねてから行くとよい。
2007年12月24日
[第31話 沖縄、南] ブラジル石油公社、沖縄進出のココロ
11月初め、大きなニュースが流れた。ブラジルの国営石油公社ペトロブラスが沖縄・西原町の南西石油を買収したのだ。南西石油は、沖縄県内の2006年度企業売上高ランキングで堂々1位の大企業。ただ、製油所としては能力が小さく、設備も老朽化しているため、親会社のエクソンモービルは閉鎖を含めて将来を検討していた。
そんな南西石油をブラジルが買うって、どういう意味? 分からない時は当事者に聞くのが一番だ。早速、ペトロブラスの関係者に会って、今回の進出の背景を尋ねた。
ペトロブラス関係者によると、ブラジルの埋蔵原油はかなりの量に上る。特に、11月初旬に発表された埋蔵量80億バレルに上る巨大なテュビ海底油田の発見は、世界を驚かせた。この巨大油田によって、ブラジルは良質な軽質原油を大量に確保。世界市場での販路開拓は同国にとってますます重要な課題になった。
今回の沖縄進出は、南西石油の既存施設があったことが直接の理由のようだ。製油所を新設するとなれば、巨額の資金が必要になるし、行政や地域との交渉などにも労力と時間がかかる。
加えて、沖縄の「戦略的な地理的位置」が決め手になったことを、この関係者は指摘した。「沖縄は、台湾にも韓国にも中国にも日本本土にも近いでしょう」
ペトロブラスは、沖縄で精製した石油をこうしたアジア各地で販売しようと考えている。同社はこれまで、欧米など26カ国に石油を販売してきたが、アジアへの本格的展開はこれから。その皮切りの拠点として、有利な地理的位置にある沖縄を選んだというわけだ。
沖縄県内では、東京を意識した経済振興策ばかりが語られがちだが、もう少し視点を自由にしてアジア全体をながめる必要がありそうだ。ここで、第22話の南北逆さ地図をもう一度。
沖縄のこの優位な位置を活用してきたのは、これまで、皮肉なことに米軍だけだった。それが、今回のブラジルの進出によって、「アジア最前線、沖縄」が、民間経済活動の拠点として本格的に生かされる可能性が出てきた。
この機会を沖縄側がどう活用するか。軍事拠点から脱出し、「万国津梁、再び」を実現するうえで、ひとつの試金石になるだろう。
ペトロブラス関係者は、もう一つ、興味深い話を披露してくれた。同社が、沖縄でバイオエタノールの生産にも取り組む意欲を持っている、という話だ。
バイオエタノールはトウモロコシやサトウキビから作る燃料用アルコール。ブラジルは1975年から開発に取り組み、今や世界で唯一のバイオエタノール輸出国になった。
ブラジルでは、ガソリン100%でもエタノール100%でも、あるいはどんな比率の両者のミックスでもOKというFFV(Flexible Fuel Vehicle)車が8割を占める。ユーザーは市場価格を見て、安い燃料を選べるという。
従来はもっぱら石油を扱ってきたペトロブラスも、FFVの普及により、「25%エタノール入りガソリン」などを生産し始めている。同社が沖縄でのエタノール生産を視野に入れているのは、アジアでFFV時代が来れば、同社のガソリン販売チャンネルの中に、ブラジルにとって「もう一つの得意分野」であるエタノールをほぼそのまま組み入れることができるからだ。
沖縄では、エタノールを主にサトウキビから作ることになる。亜熱帯の自然特性を生かして、沖縄が自前のエネルギー源を持てるかもしれないというのは、さまざまなハードルを超えなければならないにしても、夢のある話だ。
来年は、日本からのブラジル移民100周年。ペトロブラス関係者も、この日伯の強いきずなが今回の進出の背景にあることを強調した。100周年という節目の年に、140万日系移民の1割を占める沖縄系移民の故郷沖縄に、ブラジル国営石油公社ペトロブラスが精油所を持つ―。大いに象徴的な出来事と言えそうである。
そんな南西石油をブラジルが買うって、どういう意味? 分からない時は当事者に聞くのが一番だ。早速、ペトロブラスの関係者に会って、今回の進出の背景を尋ねた。
ペトロブラス関係者によると、ブラジルの埋蔵原油はかなりの量に上る。特に、11月初旬に発表された埋蔵量80億バレルに上る巨大なテュビ海底油田の発見は、世界を驚かせた。この巨大油田によって、ブラジルは良質な軽質原油を大量に確保。世界市場での販路開拓は同国にとってますます重要な課題になった。
今回の沖縄進出は、南西石油の既存施設があったことが直接の理由のようだ。製油所を新設するとなれば、巨額の資金が必要になるし、行政や地域との交渉などにも労力と時間がかかる。
加えて、沖縄の「戦略的な地理的位置」が決め手になったことを、この関係者は指摘した。「沖縄は、台湾にも韓国にも中国にも日本本土にも近いでしょう」
ペトロブラスは、沖縄で精製した石油をこうしたアジア各地で販売しようと考えている。同社はこれまで、欧米など26カ国に石油を販売してきたが、アジアへの本格的展開はこれから。その皮切りの拠点として、有利な地理的位置にある沖縄を選んだというわけだ。
沖縄県内では、東京を意識した経済振興策ばかりが語られがちだが、もう少し視点を自由にしてアジア全体をながめる必要がありそうだ。ここで、第22話の南北逆さ地図をもう一度。
沖縄のこの優位な位置を活用してきたのは、これまで、皮肉なことに米軍だけだった。それが、今回のブラジルの進出によって、「アジア最前線、沖縄」が、民間経済活動の拠点として本格的に生かされる可能性が出てきた。
この機会を沖縄側がどう活用するか。軍事拠点から脱出し、「万国津梁、再び」を実現するうえで、ひとつの試金石になるだろう。
ペトロブラス関係者は、もう一つ、興味深い話を披露してくれた。同社が、沖縄でバイオエタノールの生産にも取り組む意欲を持っている、という話だ。
バイオエタノールはトウモロコシやサトウキビから作る燃料用アルコール。ブラジルは1975年から開発に取り組み、今や世界で唯一のバイオエタノール輸出国になった。
ブラジルでは、ガソリン100%でもエタノール100%でも、あるいはどんな比率の両者のミックスでもOKというFFV(Flexible Fuel Vehicle)車が8割を占める。ユーザーは市場価格を見て、安い燃料を選べるという。
従来はもっぱら石油を扱ってきたペトロブラスも、FFVの普及により、「25%エタノール入りガソリン」などを生産し始めている。同社が沖縄でのエタノール生産を視野に入れているのは、アジアでFFV時代が来れば、同社のガソリン販売チャンネルの中に、ブラジルにとって「もう一つの得意分野」であるエタノールをほぼそのまま組み入れることができるからだ。
沖縄では、エタノールを主にサトウキビから作ることになる。亜熱帯の自然特性を生かして、沖縄が自前のエネルギー源を持てるかもしれないというのは、さまざまなハードルを超えなければならないにしても、夢のある話だ。
来年は、日本からのブラジル移民100周年。ペトロブラス関係者も、この日伯の強いきずなが今回の進出の背景にあることを強調した。100周年という節目の年に、140万日系移民の1割を占める沖縄系移民の故郷沖縄に、ブラジル国営石油公社ペトロブラスが精油所を持つ―。大いに象徴的な出来事と言えそうである。