ペルー
2012年02月12日
家族のために日本で生きる
沖縄を創る人 第33回
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(下)
鶴見から20年ぶりに故郷ペルーに戻った平敷兼長さんは、ペルーでも電気工事で生計を立てようと考えた。しかし日本で高度な電気工事技術を身につけた平敷さんの目に映ったペルーの電気工事のレベルは低く、やる気が失せた。電気工事だけでは実入りが少ないことも分かった。
そこで平敷さんは、電気工事を含めて、住宅のリフォームを丸ごと請け負う仕事を始めた。日本で電気工事の仕事をしながら見ようみまねで身につけた建築工事のノウハウがここで生かされた。とはいえ、リフォームの仕事だけでは、将来に大きな期待ができそうにないという思いが募っていった。
「ラーメンはどうかな、と思ったんです」
ペルーでは日本食の寿司店が成功を収めていた。日本のラーメンも人気が高い、という情報が入ってきた。
「どうせやるなら、豚を養うところから始めて、ラーメンまでやったらどうだろう」
平敷さんは夢を膨らませていった。
昨年12月、妻の親族に不幸があったため、家族で日本に来た。南半球は12月から夏休みなので、子供たちもその期間は学校に行かなくていい。向こうで生まれた長女も含めて、一家5人で2年ぶりに日本に来た。
年が明けたら、また一家でペルーに戻る予定だった。ところが、1月になって家族の中で「小さな激震」が起きた。日本生まれの長男が旧友と会った後に「ぼくは日本で大学まで行きたい」と言い出したのだ。
「ショックでした。ペルーに戻るつもりでしたから」
南米は景気がいいのは確かだが、治安はよくない。
「ペルーだと、やはり子供が外で自由に遊べないですし、バスも危ないので乗れません。日本生まれの長男にペルーでの生活はきつかったのでしょう」
子供の安全は何にも代えられないと思った、という。
「大学という子供の将来を考えても、日本の方がいいかもしれないなと考えるようになりました」
平敷さんは再び日本で暮らす道を選ぶことにした。平敷さん自身の両親はペルー在住だが、ブラジル出身の妻の家族は日本に戻ってきていることもあり、妻は賛成してくれた。
「子供と妻が日本で、となったら、もう抵抗できませんよね」
とはいえ、日本で電気工事の仕事環境が厳しいことに変わりはない。東日本大震災で日本の景気はさらに悪くなっているように見える。
平敷さんは、まずは電気工事士の免許取得に挑戦するつもりだ。電気工事会社は、電気工事士の資格を持つ仲間の協力で経営している。だが、厳しい時代には、人を頼りにせず、自らが資格を持っていなければならないと考えている。
平敷さんにとってハードルが高いのは日本語の書き言葉。20年の日本生活のおかげで会話は自由にできるようになったが、漢字での読み書きは簡単ではない。だが、家族のために日本での生活を選んだ平敷さんは、厳しいことも含めて、これまでやってこなかったこともやるハラを固めている。
スペイン語で育った日系仲間は周囲にたくさんいる。そんな仲間とスペイン語で時々おしゃべりしてストレスを解消する。「これが、妻がブラジル出身仲間とおしゃべりする席だと言葉はポルトガル語になるんです」と平敷さんは笑う。
沖縄には一度だけ行った。浦添出身の親族が今は石垣島にいるので、あいさつに行った。
「タクシーに乗って行き先の家の名前を言ったら、住所も言わないのにすぐ連れていってくれたのが、ちょっとびっくりでした」
[平敷兼長さんとつながる] ペルーの日系人社会については、例えば、沖縄系のフェルナンド仲宗根さんが編集している日系人新聞を読むと、その一端がかいま見える。一方、川崎・鶴見かいわいは、日系移民2、3世や沖縄出身者が多いことで知られる。例えば東京外大の受田宏之准教授の報告を読むと、そんな様子がよく分かる。このレストランガイドによると、鶴見や川崎にはペルーやブラジルなどの南米料理店もいろいろある。世界各地の沖縄移民数については、沖縄県のまとめが便利。
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(下)
鶴見から20年ぶりに故郷ペルーに戻った平敷兼長さんは、ペルーでも電気工事で生計を立てようと考えた。しかし日本で高度な電気工事技術を身につけた平敷さんの目に映ったペルーの電気工事のレベルは低く、やる気が失せた。電気工事だけでは実入りが少ないことも分かった。
そこで平敷さんは、電気工事を含めて、住宅のリフォームを丸ごと請け負う仕事を始めた。日本で電気工事の仕事をしながら見ようみまねで身につけた建築工事のノウハウがここで生かされた。とはいえ、リフォームの仕事だけでは、将来に大きな期待ができそうにないという思いが募っていった。
「ラーメンはどうかな、と思ったんです」
ペルーでは日本食の寿司店が成功を収めていた。日本のラーメンも人気が高い、という情報が入ってきた。
「どうせやるなら、豚を養うところから始めて、ラーメンまでやったらどうだろう」
平敷さんは夢を膨らませていった。
昨年12月、妻の親族に不幸があったため、家族で日本に来た。南半球は12月から夏休みなので、子供たちもその期間は学校に行かなくていい。向こうで生まれた長女も含めて、一家5人で2年ぶりに日本に来た。
年が明けたら、また一家でペルーに戻る予定だった。ところが、1月になって家族の中で「小さな激震」が起きた。日本生まれの長男が旧友と会った後に「ぼくは日本で大学まで行きたい」と言い出したのだ。
「ショックでした。ペルーに戻るつもりでしたから」
南米は景気がいいのは確かだが、治安はよくない。
「ペルーだと、やはり子供が外で自由に遊べないですし、バスも危ないので乗れません。日本生まれの長男にペルーでの生活はきつかったのでしょう」
子供の安全は何にも代えられないと思った、という。
「大学という子供の将来を考えても、日本の方がいいかもしれないなと考えるようになりました」
平敷さんは再び日本で暮らす道を選ぶことにした。平敷さん自身の両親はペルー在住だが、ブラジル出身の妻の家族は日本に戻ってきていることもあり、妻は賛成してくれた。
「子供と妻が日本で、となったら、もう抵抗できませんよね」
とはいえ、日本で電気工事の仕事環境が厳しいことに変わりはない。東日本大震災で日本の景気はさらに悪くなっているように見える。
平敷さんは、まずは電気工事士の免許取得に挑戦するつもりだ。電気工事会社は、電気工事士の資格を持つ仲間の協力で経営している。だが、厳しい時代には、人を頼りにせず、自らが資格を持っていなければならないと考えている。
平敷さんにとってハードルが高いのは日本語の書き言葉。20年の日本生活のおかげで会話は自由にできるようになったが、漢字での読み書きは簡単ではない。だが、家族のために日本での生活を選んだ平敷さんは、厳しいことも含めて、これまでやってこなかったこともやるハラを固めている。
スペイン語で育った日系仲間は周囲にたくさんいる。そんな仲間とスペイン語で時々おしゃべりしてストレスを解消する。「これが、妻がブラジル出身仲間とおしゃべりする席だと言葉はポルトガル語になるんです」と平敷さんは笑う。
沖縄には一度だけ行った。浦添出身の親族が今は石垣島にいるので、あいさつに行った。
「タクシーに乗って行き先の家の名前を言ったら、住所も言わないのにすぐ連れていってくれたのが、ちょっとびっくりでした」
[平敷兼長さんとつながる] ペルーの日系人社会については、例えば、沖縄系のフェルナンド仲宗根さんが編集している日系人新聞を読むと、その一端がかいま見える。一方、川崎・鶴見かいわいは、日系移民2、3世や沖縄出身者が多いことで知られる。例えば東京外大の受田宏之准教授の報告を読むと、そんな様子がよく分かる。このレストランガイドによると、鶴見や川崎にはペルーやブラジルなどの南米料理店もいろいろある。世界各地の沖縄移民数については、沖縄県のまとめが便利。
2012年02月05日
電気工事を現場で一から学ぶ
沖縄を創る人 第32回
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(上)
沖縄出身の移民やその2世、3世はハワイや南米を中心に世界各地にたくさんいる。オキナワの遺伝子を宿した人々がどんな生き方をしているのか。万鐘本店では機会があれば、そんな人々にも登場してもらうことにする。今回は南米ペルー出身の平敷兼長さん。
ペルーは、ブラジルの西側の太平洋岸に位置する。日本の3.4倍の国土に約3000万人が暮らす。かつてはインカ帝国の中心地だったことで知られ、南米各国の中でも、アルゼンチンなどは欧州系住民が多いが、ペルーは先住民や、先住民とスペイン人との混血の人々の人口比が高い。
外務省や沖縄県によると、ペルーの日系人は約10万人で、日系人人口ではブラジル、米国に次いで3位。ペルー日系人10万人のうち約7万人が沖縄系と推計されている。
平敷さんもそんな1人。首都リマで生まれ育った。祖父が浦添市の出身、父は2世、母はペルー出身。
高校を卒業した1989年に日本に来た。当時、ペルーはフジモリ大統領時代の直前。景気は悪く、治安もよくなかった。
「あの頃、若い日系はみな日本に出稼ぎに行くという雰囲気がありましたね」
ペルーではほとんどスペイン語だった。日本語といえば「おばあちゃんの沖縄方言くらい」。リマでも日本語学校で毎日1時間くらいずつ日本語を習ってはいたのだが、当時は日本語にあまり興味が湧かず、本気で身につけようとは考えていなかった。だから、来日当初は、言葉で苦労した。
だが、日本のテレビを見ていたら、どこかで聞いたことのある音だと感じた。平敷さんの中に、知らず知らずのうちに日本語の音が入っていたのかもしれない。こうしてテレビを見ながら、平敷さんは日本語を徐々に磨いていった。
まず東京の車の部品メーカーで3年間、働いた。その後、横浜市鶴見区のガラス工場に。ここで5年ほど勤務した。この間に、ブラジル生まれで、やはり日本で働いていた日系女性と結婚した。
2002年から5年間は、同じ鶴見区で沖縄出身者が経営する電気工事会社で働いた。ここでの仕事が、平敷さんのその後を方向づける職業経験になった。
電気工事会社での仕事は楽しかった。電気の勉強をしたことはなかったので、現場で仕事をしながら、一から先輩に教えてもらった。電気は目に見えないが、先輩は電気のすべてを、イロハから教えてくれた。
建物を建設する際に電気を配線するという仕事が多かったため、電気配線の技術に加えて、建築工事の技術も現場で見ながら自然に学んでいった。
「横でずっと見ているんで、どうやったらいいのか、だんだん分かってくるんです」。もし大学に行っていたら工学系を勉強していたはず、と平敷さんは振り返る。
やがて平敷さんは独立し、仲間と電気工事会社を作った。だが、不景気の時代。電気の仕事は建設需要に大きく影響される。仕事の見通しに自信が持てる状況では全くなかった。
一方、南米は、平敷さんが出て来た頃とは様変わり。ブラジルを先頭に、経済がどんどん成長している。平敷さんの同級生の中には、高卒後もペルーにとどまって大学に進み、20年後の今、4000ドルもの高額の月収を得る人が現れた。神奈川にいた南米出身の日系人仲間の中には、ブラジルで会社を立ち上げる人も出てきた。
そんな中で平敷さんもペルーに戻ることを決意。一緒に電気工事会社をやっていた兄に経営を委ね、妻と日本生まれの長男、次男を連れてペルーに戻った。2009年。日本に来てから20年が過ぎていた。
続きは2/12(日)に。
ペルー出身沖縄3世 平敷兼長さん(上)
沖縄出身の移民やその2世、3世はハワイや南米を中心に世界各地にたくさんいる。オキナワの遺伝子を宿した人々がどんな生き方をしているのか。万鐘本店では機会があれば、そんな人々にも登場してもらうことにする。今回は南米ペルー出身の平敷兼長さん。
ペルーは、ブラジルの西側の太平洋岸に位置する。日本の3.4倍の国土に約3000万人が暮らす。かつてはインカ帝国の中心地だったことで知られ、南米各国の中でも、アルゼンチンなどは欧州系住民が多いが、ペルーは先住民や、先住民とスペイン人との混血の人々の人口比が高い。
外務省や沖縄県によると、ペルーの日系人は約10万人で、日系人人口ではブラジル、米国に次いで3位。ペルー日系人10万人のうち約7万人が沖縄系と推計されている。
平敷さんもそんな1人。首都リマで生まれ育った。祖父が浦添市の出身、父は2世、母はペルー出身。
高校を卒業した1989年に日本に来た。当時、ペルーはフジモリ大統領時代の直前。景気は悪く、治安もよくなかった。
「あの頃、若い日系はみな日本に出稼ぎに行くという雰囲気がありましたね」
ペルーではほとんどスペイン語だった。日本語といえば「おばあちゃんの沖縄方言くらい」。リマでも日本語学校で毎日1時間くらいずつ日本語を習ってはいたのだが、当時は日本語にあまり興味が湧かず、本気で身につけようとは考えていなかった。だから、来日当初は、言葉で苦労した。
だが、日本のテレビを見ていたら、どこかで聞いたことのある音だと感じた。平敷さんの中に、知らず知らずのうちに日本語の音が入っていたのかもしれない。こうしてテレビを見ながら、平敷さんは日本語を徐々に磨いていった。
まず東京の車の部品メーカーで3年間、働いた。その後、横浜市鶴見区のガラス工場に。ここで5年ほど勤務した。この間に、ブラジル生まれで、やはり日本で働いていた日系女性と結婚した。
2002年から5年間は、同じ鶴見区で沖縄出身者が経営する電気工事会社で働いた。ここでの仕事が、平敷さんのその後を方向づける職業経験になった。
電気工事会社での仕事は楽しかった。電気の勉強をしたことはなかったので、現場で仕事をしながら、一から先輩に教えてもらった。電気は目に見えないが、先輩は電気のすべてを、イロハから教えてくれた。
建物を建設する際に電気を配線するという仕事が多かったため、電気配線の技術に加えて、建築工事の技術も現場で見ながら自然に学んでいった。
「横でずっと見ているんで、どうやったらいいのか、だんだん分かってくるんです」。もし大学に行っていたら工学系を勉強していたはず、と平敷さんは振り返る。
やがて平敷さんは独立し、仲間と電気工事会社を作った。だが、不景気の時代。電気の仕事は建設需要に大きく影響される。仕事の見通しに自信が持てる状況では全くなかった。
一方、南米は、平敷さんが出て来た頃とは様変わり。ブラジルを先頭に、経済がどんどん成長している。平敷さんの同級生の中には、高卒後もペルーにとどまって大学に進み、20年後の今、4000ドルもの高額の月収を得る人が現れた。神奈川にいた南米出身の日系人仲間の中には、ブラジルで会社を立ち上げる人も出てきた。
そんな中で平敷さんもペルーに戻ることを決意。一緒に電気工事会社をやっていた兄に経営を委ね、妻と日本生まれの長男、次男を連れてペルーに戻った。2009年。日本に来てから20年が過ぎていた。
続きは2/12(日)に。
2011年03月06日
フォルクローレで沖縄民謡にめざめる
沖縄を創る人 第10回
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。
2010年03月14日
[第160話 食、南] コリアンダーたっぷりのペルー料理
生コリアンダーの葉をふんだんに使う南米ペルー家庭料理の店「ティティカカ」をご紹介。経営するのは、ペルー生まれの比嘉ルイスさん、マリーさん夫妻。ふるさとペルーの家庭の味を、両親の故郷沖縄で提供している。
沖縄移民は、ブラジルをはじめ、南米各地にたくさんいる。ブラジル移民帰国者が作るおやつの話は第47話で紹介した。ペルーも沖縄出身者とその子弟が多い。現在、ペルーに10万人いる日系人の7割は沖縄系。沖縄からペルーへの移住の歴史は古く、2006年には首都リマで「県人ペルー移住100周年記念式典」が盛大に開かれた。
ルイスさん、マリーさんの店ティティカカは、国際色豊かな沖縄市の一角にある。土日ともなれば、ペルー出身で沖縄在住の仲間がつどい、ふるさとの味に舌つづみを打つ。飾り気のない素朴な店内には、ペルーの人気歌手のビデオが流れ、ペルー直輸入の食材が並ぶ。
冒頭の写真が、アロス・コン・ポヨ、つまり鶏のせごはん。炭火焼きの鶏肉が、緑色のごはんの上に乗っている。この緑色が生コリアンダーの葉。さわやかな香りとかすかな苦みが特徴だ。このごはんは、生コリアンダーの葉と鶏肉、玉ネギ、ニンニクがたっぷり入った炊き込みごはん。結婚式などにもよく出るメニューという。
アロス・コン・ポヨのポヨ、つまり炭火焼の鶏が、実は、ティティカカの一番人気メニューらしい。25種類のスパイスを入れた漬け汁に前日から漬け込み、味をしみ込ませて、炭火でじっくりと焼く。パサつきがちなフライドチキンと違い、しっとりジューシー。炭火焼きの香りがたまらない。
こちらはセビッチェ・ペスカード、つまり魚のマリネ。白身の生魚にタマネギ、ニンニク、セロリといった芳香を放つ野菜類と生コリアンダーを混ぜ、レモン汁を注いで漬け込んだもの。香味野菜群が、独特の強いインパクトを醸し出す。
コハダやママカリのような魚の酢漬けが好きで、かつ、ネギ、ニンニクに目がないという人には最高だろう。ただし、ティティカカでは、セビッチェは土日限定メニュー。
最後にエストファド・デ・カルネとフリフォーレス。エストファド・デ・カルネは牛肉のシチュー。ごらんのように緑色をしているのは、そう、生コリアンダーがたっぷり入るから。トマト仕立てのビーフシチューよりも全体にさわやかな感じになっているのは、やはり生コリアンダーのせいだろう。
牛肉の相方を務めるフリフォーレスはマメ。マメの煮込みは、ペルーに限らず、中南米で広く食べられる。形が崩れるくらいコトコト煮込んだ豆と、炊いた白いごはんの組み合わせが多い。
国や地域によって使われる豆に違いがある。小豆のようなフリフォーレスも見かけるが、ペルーでは、この白いカナリオ豆が使われるという。よく煮ると、金時豆を煮た時のように粘りが出る。
目に鮮やかな紫色の飲み物は、チチャ・モラーダ。紫色のトウモロコシをゆでて色素を煮出し、レモンと砂糖などを加えたもの。赤ワインのような色合いだが、体によいポリフェノールはそのワインよりもずっと多く含まれているらしい。ちなみに、チチャは、同じトウモロコシを発酵させた地酒だが、チチャ・モラーダは発酵過程はない。アルコール分を全く含まないソフトドリンク。
ルイスさんの両親は本部町、マリーさんの両親は那覇市の出身。二人はリマで育った。日本に来て、初めは川崎市で働いていたが、3人の子供たちがいずれも日本の大学を無事卒業。子育てが一段落したのを機に、昨年、両親のふるさと沖縄でティティカカを開いた。
ティティカカは沖縄市中央1-23-16、090-1344-3688、火曜定休。
沖縄移民は、ブラジルをはじめ、南米各地にたくさんいる。ブラジル移民帰国者が作るおやつの話は第47話で紹介した。ペルーも沖縄出身者とその子弟が多い。現在、ペルーに10万人いる日系人の7割は沖縄系。沖縄からペルーへの移住の歴史は古く、2006年には首都リマで「県人ペルー移住100周年記念式典」が盛大に開かれた。
ルイスさん、マリーさんの店ティティカカは、国際色豊かな沖縄市の一角にある。土日ともなれば、ペルー出身で沖縄在住の仲間がつどい、ふるさとの味に舌つづみを打つ。飾り気のない素朴な店内には、ペルーの人気歌手のビデオが流れ、ペルー直輸入の食材が並ぶ。
冒頭の写真が、アロス・コン・ポヨ、つまり鶏のせごはん。炭火焼きの鶏肉が、緑色のごはんの上に乗っている。この緑色が生コリアンダーの葉。さわやかな香りとかすかな苦みが特徴だ。このごはんは、生コリアンダーの葉と鶏肉、玉ネギ、ニンニクがたっぷり入った炊き込みごはん。結婚式などにもよく出るメニューという。
アロス・コン・ポヨのポヨ、つまり炭火焼の鶏が、実は、ティティカカの一番人気メニューらしい。25種類のスパイスを入れた漬け汁に前日から漬け込み、味をしみ込ませて、炭火でじっくりと焼く。パサつきがちなフライドチキンと違い、しっとりジューシー。炭火焼きの香りがたまらない。
こちらはセビッチェ・ペスカード、つまり魚のマリネ。白身の生魚にタマネギ、ニンニク、セロリといった芳香を放つ野菜類と生コリアンダーを混ぜ、レモン汁を注いで漬け込んだもの。香味野菜群が、独特の強いインパクトを醸し出す。
コハダやママカリのような魚の酢漬けが好きで、かつ、ネギ、ニンニクに目がないという人には最高だろう。ただし、ティティカカでは、セビッチェは土日限定メニュー。
最後にエストファド・デ・カルネとフリフォーレス。エストファド・デ・カルネは牛肉のシチュー。ごらんのように緑色をしているのは、そう、生コリアンダーがたっぷり入るから。トマト仕立てのビーフシチューよりも全体にさわやかな感じになっているのは、やはり生コリアンダーのせいだろう。
牛肉の相方を務めるフリフォーレスはマメ。マメの煮込みは、ペルーに限らず、中南米で広く食べられる。形が崩れるくらいコトコト煮込んだ豆と、炊いた白いごはんの組み合わせが多い。
国や地域によって使われる豆に違いがある。小豆のようなフリフォーレスも見かけるが、ペルーでは、この白いカナリオ豆が使われるという。よく煮ると、金時豆を煮た時のように粘りが出る。
目に鮮やかな紫色の飲み物は、チチャ・モラーダ。紫色のトウモロコシをゆでて色素を煮出し、レモンと砂糖などを加えたもの。赤ワインのような色合いだが、体によいポリフェノールはそのワインよりもずっと多く含まれているらしい。ちなみに、チチャは、同じトウモロコシを発酵させた地酒だが、チチャ・モラーダは発酵過程はない。アルコール分を全く含まないソフトドリンク。
ルイスさんの両親は本部町、マリーさんの両親は那覇市の出身。二人はリマで育った。日本に来て、初めは川崎市で働いていたが、3人の子供たちがいずれも日本の大学を無事卒業。子育てが一段落したのを機に、昨年、両親のふるさと沖縄でティティカカを開いた。
ティティカカは沖縄市中央1-23-16、090-1344-3688、火曜定休。