勝連

2015年01月09日

ベトナム少数民族の布を店内に

 寒い日が続きますね。沖縄でも最低気温13度とかなので、南の住人にとっては「激寒」。そんな中で、ももと庵の店内に、ベトナム中部の少数民族が作った美しい布を2枚、張ってみました。

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 1枚は赤地に紫色など、もう1枚は濃いめの青地にピンクなどでそれぞれ模様が織られています。ホーチミン市の雑貨店で見つけたもの。

 きれいな色合い。繊細な模様。

 それから、糸と織りの加減でしょうけど、表面の独特の光り具合がまたいい。素朴ながらもどこかゴージャスな雰囲気を漂わせています。ももと庵の雰囲気も、ちょっとだけグレードアップしました。

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 あっ、と気づかれた方もいるでしょう。そう、これ、ももと庵のメニューブックの表紙に使った布と同じモチーフなんです。こちらの記事をどうぞ

 この模様、沖縄伝統のミンサー織りにそっくり。5つのマス目と4つのマス目の組み合わせですね。

 その昔、琉球王国のアジア貿易の時代にはベトナムと交易していましたから、ひょっとしたら、そこでマス目デザインの接点があったかもしれない、と考えると、ちょっと楽しくなります。

 当時は、ももと庵がある勝連も独自のアジア貿易で繁栄していました。勝連もベトナムとなにか接点があったかもしれませんね。

 そうそう、勝連城跡からは、ベトナム産の焼き物がいろいろ出土していますから、布のデザインはともかく、なんらかの接点があったことは間違いないんじゃないかと。

 勝連とベトナム・・・。想像が膨らみます。

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2013年12月15日

渦巻く思惑

 しばらく間が空いてしまいましたが、勝連城歴史ロマンの第4回をお届けします。これまで同様、テキストは与並岳生「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。

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 勝連を抑えて平和を保ちたいという父、尚泰久(しょう・たいきゅう)王の意向により、勝連城主の阿摩和利(あまわり)に嫁いだ王女・百十踏揚(ももと・ふみあがり)。

 首里に弓引くやもしれぬと悪いうわさばかりだった阿摩和利に、戦々恐々の思いで輿入れした百十踏揚でした。が、思いがけぬ阿摩和利の優しさ、誠実さに包まれて、しばし、平穏で幸せな日々を送ることができました。

 しかしー。歴史の歯車は密かに回っていたのです。

 1457年。尚泰久王妃、つまり百十踏揚の母が病死します。その百日の喪が明ける頃になると、微妙な変化が現れました。

 側室が継妃となり、亡くなった王妃の父、つまり尚泰久王の岳父だった中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)と王との間にすきま風が流れ始めます。体調不良を理由に、護佐丸の王朝行事への欠席が続くようになりました。

 尚泰久王には懐刀と呼べる有能な部下がいました。その名は金丸(かなまる)。金丸は伊是名島出身の流れ者で、実力のみでのし上がってきた能吏でした。

 しかし、金丸は護佐丸から煙たがられていました。王の岳父で天下一の武将と讃えられた護佐丸が本気になれば、王の懐刀として国政を取り仕切る金丸といえども排除される可能性があることを、金丸は非常に恐れていました。

 王妃が亡り、首里に現れなくなった護佐丸について、金丸は密偵から情報を得ます。中城城で軍事訓練を強化したり、他の按司たちと連絡をとり合っているというのです。

 護佐丸が謀反を企んでいるー。もし護佐丸が勝連の阿摩和利に声をかけて連合が成立したら、首里といえども危ない。そうなれば自分は真っ先に血祭りに上げられるだろう。

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 急がねばならぬー。金丸は、阿摩和利を密かに首里に呼び、護佐丸謀反の読みを伝えます。

 まさか、と絶句する阿摩和利に、たたみかけるように、金丸は根拠を挙げます。王朝行事への欠席続き、軍事訓練の強化、娘の王妃が亡き後、側室が継妃となったこと、尚泰久王に対する批判の言辞が伝わってくること、などなど。

 金丸は尚泰久王にも同様の見方を伝えます。当初は、護佐丸による排除を恐れている金丸の讒言ではないか、と疑っていた尚泰久王でしたが、理路整然とした金丸の説明に次第に説得されていきます。

 阿摩和利を使って護佐丸を討つー。金丸の思惑が、こうして次第に現実味を帯びてきました。

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2013年12月07日

「民謡で今日拝なびら」に出ました

 沖縄の最長寿番組、RBCラジオの「民謡で今日拝なびら(ちゅう・うがなびら)」に昨日、ゲスト出演してきました。

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 番組のホスト上原直彦さんの話術とまとめ方はなんとも巧み。それにおんぶしながら、万鐘の南向きアジア地図ももと庵のことについて、あれこれおしゃべりしました。

 南向きアジア地図については、進む方向が前で、それは下ではなく、上向きに表示されるのが普通であること、その結果、南を上にするとアジア各国が非常によく見えてくること、沖縄がアジアへの玄関になっていることも一目で分かることを説明。

 ももと庵で鶏の唐揚げにかけているパインだれが、沖縄のパインとアジアの魚醤のコラボでできていることなどもお話ししました。アジアと沖縄のいいところを合わせると何か新しいものが生み出せるのでは、と。

 上原直彦さんは、1963年から実に50年以上、月曜から金曜まで、毎日、この番組を生放送しています。

 ディレクターが「ではよろしくお願いします」とドアを閉めた後、スタジオ内は、上原直彦さんとゲストの2人だけ。でも、へんな緊張感はなく、リラックスした日常感が漂っています。

 音楽の送出やマイクの切り替え操作なども上原直彦さんが全部1人で。CMタイムの間などに、次の準備をチャチャッとすませて、トイレにも立つ余裕は、さすがに52年の大ベテラン。

 トークは、台本はおろか、打ち合わせらしい打ち合わせもなしのぶっつけ本番。あらぬ方向に話が飛んでしまいそうになるのを、上原さんが上手に軌道修正しながら着地させて下さいました。ありがとうございました。

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2013年11月19日

百十踏揚、勝連の阿摩和利に嫁ぐ

 勝連城の歴史ロマン、その3回目。いよいよ百十踏揚(ももと・ふみあがり)が勝連城の阿摩和利のもとに嫁ぎます。テキストは、与並岳生「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。

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(嫁ぐ百十踏揚が上陸した南風原の港を勝連城の頂上から見る)


 「お国の花」と讃えられるほどに美しく成長した百十踏揚(ももと・ふみあがり)。踏揚は、父の琉球国王・尚泰久(しょう・たいきゅう)にとって、目の中に入れても痛くない愛娘でした。

 その一方、首里王府は、第1回で書いた志魯・布里の乱で焼失した首里城をようやく再建して、面目を保ちながらどうにか明の冊封使を迎え入れるなど、乱れた国を必死で安定させようとしていました。

 首里にとっての不安要因は、なんといっても勝連でした。独自の海外貿易で大きな財をなし、天下をうかがう阿摩和利の力を首里は本気で恐れていたのです。

 尚泰久の懐刀だった重臣の金丸は、いくさを避け、平和裏に勝連を抑えるには、王女の百十踏揚を阿摩和利に嫁がせるしかないと尚泰久に進言します。政略結婚です。

 尚泰久は悩みますが、国の安定のために私情を捨て、意を決して、百十踏揚に勝連に嫁ぐよう言います。

 天下をも狙っている梟雄(きょうゆう=悪党の首領)などと言われている阿摩和利。百十踏揚は、しかし、健気にもこれを受け入れました(阿摩和利の妻だった前按司の娘は、転落死した父の後を追って身投げしていました)。

 1456年の春ーー。吉日を選んで、朝日の中を輿入れ行列が首里城を出発します。総勢200人あまりの、絵巻のような行列は、首里から東進して与那原へ。与那原の港で、迎えに来ていた勝連の輿入れ船に乗り、海路、勝連に向かいます。

 船が着いたのは、勝連南風原(かつれん・はえばる)の港。そこで南風原親方の出迎えを受けた後、百十踏揚一行は、目の前にそびえ立つ勝連城に向かいます。勝連城には正門の南風原御門(はえばる・うじょう)から入りました(南風原港から南風原御門までの道は、ちょうどももと庵の目の前。下の地図をごらん下さい)。

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 南風原御門をくぐった先の広い城庭の中央に、豪華な金襴衣装をまとった阿摩和利が待っていました。

 輿が下ろされ、踏揚が降り立つと、ほう……、というどよめきが。「お国の花」と讃えられる百十踏揚のあでやかさに、居並ぶ人々は目を奪われたようでした。

 いよいよ2人が初めて顔を合わせる場面。与並さんの著書から引用させていただきましょう。


(とうとう、来た……)
 もはや、引き返せない気持ちで、踏揚は輿の前に立った。ここまで来たら、覚悟を決めるほかないのだが……、それでもまだ、目を上げる勇気はなかった。
 眼前には、その人――阿摩和利按司がいるはずだ。
 どんなお姿の方であろうか……。恐れと期待に身が震えてくるのを抑えきれなかった。
(中略)
 ひたひた……という、迫ってくる気配を感じた。
 それが止まった。
 踏揚は身を固くした。
「阿摩和利でござる。遠路、ご苦労でござった」
 いきなり、声が落ちた。邪気の声……を聞くのではないかと、恐ろしい思いに息を詰めていたのだが、意外にも、涼やかな声であった。


 天下を狙う梟雄とうわさされていた阿摩和利です。さぞや荒々しい怖い顔だろう、黒々としたひげをたくわえた厳めしい顔立ちに違いない、と想像していた百十踏揚。ところがーー


 目の前に立っていたその人は、意外にも若々しく、口髭は立ててはいるものの、顎髭もなく、火に焼けた精悍な顔立ちながら、照れたような微笑を湛えて、何となく優しさを漂わせていたのである。
(まさか、このお方が……)
と、疑う気持ちさえ湧いた。


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(踏揚が入った勝連城正門「南風原御門」跡付近から太平洋を臨む)


 勝連は田舎だが、みな踏揚の輿入れを喜んでいるので、どうぞ気を楽にしてお過ごし下さい、と阿摩和利は踏揚に語りかけます。


 王女に対する敬いを込めた言葉遣いながら、言葉は何だかブツ切りに、調子っぱずれだった。
「はい……」
 と、踏揚は答えたが、心はすっかり和んでいた。
(こんなお方だったのだわ……)
 安堵感が湧いた。


 こうして勝連城での阿摩和利と百十踏揚の新しい生活が始まったのでした。

 与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン楽天セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。


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2013年11月13日

阿摩和利、誕生!

 勝連城の歴史ロマン、第2回は、主役の百十踏揚(ももと・ふみあがり)にちょっと休んでもらい、後に踏揚の夫となる勝連城主の阿摩和利(あまわり)について書きましょう。前回同様、テキストは与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。

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 阿摩和利の幼名は加那(かな)。現在の嘉手納で貧しい農家に私生児として生まれ、生母は「お前の父上様はさる高貴なお方」というナゾめいた言葉を残して、加那5歳の時に若くして没します。

 加那は叔父一家に引き取られますが、ここも極貧。10歳前後で山の中に捨てられ、ついに放浪の身となりました。

 川で魚を獲ったり、草の根を食べて飢えをしのぎながら、放浪を続けた加那。ヤマト(今の日本の本土)に向かう勝連船をあこがれをもって見ていたといいます。

 14歳の時、その勝連に流れ着き、屋慶名(やけな)の港で船子として雇われました(屋慶名は、人気バンドYHのふるさとですね)。

 16歳で初めてヤマト行きの船に乗り、京、鎌倉の華やかさに刺激を受けます。

 勝連に戻った加那は、新しい工夫の漁網を開発するなどして、勝連での名声を高めていきました。やがて勝連城の重臣だった屋慶名親方に目をかけられ、その配下になります。武芸でも才能を見せました。

 当時の勝連城主は茂知附按司(もちづき・あじ)。按司とは、地方のある領域に君臨する豪族、首長のことです。屋慶名親方のお供で茂知附按司に会った加那は、すっかり按司に気に入られ、後継者がいなかった按司から娘婿になるよう促されます。

 茂知附按司は、海賊であり貿易商人でもあった倭冦の出身といわれ、当時の人脈を生かして貿易を振興し、勝連を繁栄に導きました。

 しかし、その繁栄ぶりがやがて奢りを生み、茂知附は次第に、周囲の声を聞こうとしない独裁者になっていきました。晩年は酒びたりの日々だったといいます。

 中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)、越来(ごえく)の尚泰久(しょう・たいきゅう)、江洲(えす)の尚布里(しょう・ふり)。この3者ににらまれ、いつ攻め入られてもおかしくない勝連は、それでも一定の緊張が続きました。

 ところが、首里で国王が相次いで亡くなります。首里が勝連にかまっている余裕がなくなると、勝連の緊張も緩んでいきました。

 ある月夜の晩。月見の宴で茂知附按司はしたたか酒に酔い、家臣が止めるのも聞かず、城壁の上によじ登り、バランスを失って自ら転落死してしまいました。

 既に娘婿として「若按司」と呼ばれていた加那は、茂知附亡き後、勝連の按司となったのでした。

 その際、按司らしい名前を、と屋慶名親方と南風原親方があれこれ考えます。「天から降ってきた若者」との茂知附按司の言葉をヒントに、あまうぃ(天降り)、それをさらに人名らしく「あまわり」とし、「阿摩和利」の字を当てました。

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 20代後半の若さと幼少時代の苦労を原動力に、阿摩和利は按司として激しく働き、勝連の繁栄を推し進めます。貿易のさらなる振興、港湾の整備、農業灌漑用のため池建設、農地の開墾、漁業の振興ー。

 古謡おもろに、次のような意味の歌があります。


 勝連の阿摩和利按司様は、立派な金の御杓(神具、権威の象徴)をお持ちだぞ。
 このことを高らかに告げて、京、鎌倉までも誇ろうぞ。
 肝高の阿摩和利按司様は、島を治める偉大な按司様ぞ、国を治める立派な按司様ぞ(与並岳生「琉球王女・百十踏揚」p.194)



 後の首里王府とのいくさに破れた後、「逆臣」の汚名を着せられた阿摩和利は、琉球王国の正史の中で悪く描かれ続けてきました。

 しかし、おもろに歌われている阿摩和利の功績を讃えるいくつかの歌の存在や、阿摩和利時代のものを含むおびただしい数の海外貿易品の勝連城跡からの出土によって、阿摩和利は勝連を大いに繁栄させ、人々の尊敬を集めた名按司だったとの理解が広がってきました。与並さんの著書も、そのような視点で書かれています。

 与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン楽天セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。


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2013年06月14日

今もこんこんと水が湧く浜川ガー

 勝連城跡の周辺にはいくつかの歴史スポットがあります。ももと庵に近いところでは、ももと庵の正面から下に降りる細い坂道を行った先に、「浜川ガー」があります。ガーというのは沖縄語で湧き水のこと。

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 勝連城の7代目城主だった浜川按司には、真鍋樽(マナンダルー)という名の娘がいました。絶世の美女、と言われたマナンダルーの髪は、身長の1.5倍もの長さだったといいます。マナンダルーはこの浜川ガーで、棹に髪をかけながら髪を洗ったのだそうです。

 7代目城主ですから、首里と対峙することになる10代目城主の阿麻和利の時代より少し前です。14世紀の終わりか15世紀の初め頃でしょうか。

 このガー、ひんやりした水が今もこんこんと湧いています。流れ出した水は周辺の畑の灌水などにも使われています。

 マナンダルーの話が15世紀初めとしても、既に600年以上が経過しています。もちろん、マナンダルーの逸話がその頃ということで、ガーそれ自体はもっと以前から湧いていたと考える方が自然でしょう。となると、このガーには700年、800年という長い歴史があることになります。いやそれ以上かも。

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 この間に、アジア貿易で繁栄していた勝連は首里の琉球王朝に滅ぼされ、その琉球王朝は明治の日本に滅ぼされ、日本になった沖縄は今度は沖縄戦でアメリカにやられました。

 そんな激動の歴史の中でも、この水はおそらく止むことなくずっと湧き続けていて、人々の毎日の暮らしを潤してきたわけですね。

 時が止まったような静かなガーで、ひんやりとした湧き水に手をひたしながら、そんなことをつらつら考えていると、何とも不思議な感覚に陥ります。

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2012年11月03日

勝連城跡から超高級の染付が

 前回は、勝連城の正門だった南風原御門側からの上がり方を紹介しました。今度は勝連城の歴史のナゾに少しだけ分け入ってみることにしましょう。

 勝連城跡からは、いろいろなものが出土しています。中でもすごいのは、中国の元(げん)の時代の染付(そめつけ)の破片が出たこと。

 「な、なにいっ! ゲ、ゲンのソメツケっ!」 その道の方なら驚きのあまり卒倒するくらいのシロモノなのだそうです。

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 卒倒する前に、染付について少々。染付というのは、鮮やかな紺色の絵が描かれている白い磁器のこと。写真のように、私たちがふだん使っている食器にもたくさんあります。

 勝連城跡から出た染付は、こうしたふだん使いの食器とは、ちょっと、いや、だいぶ違います。

 勝連城跡から出た染付は、染付という絵付けの技法が始まったとされる中国の元の時代のものなんです。「チンギスハン」「元寇」の元ですね。13世紀から14世紀に中国を支配しました。

 元時代の染付は、たんに染付の始まりだからということで珍重されているわけではありません。その後の時代の染付と比べても、精巧で絢爛豪華な模様の大型作品が多く、最高級品としてアジア各地や、遠くイスラム文化圏に輸出されていました。

 東京にある戸栗美術館が収蔵品の写真をホームページに載せています。このページの「2.中国陶磁」の「元時代」を開けてみて下さい。この皿の模様のスゴいこと。

 この美術館のブログに同じ皿の写真が載っています。模様がよく見えるこちらの写真を拝借しました。素人目にも、まったくため息が出るほどの精巧さです。

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 元の染付には、海中の魚の絵が描かれた大型の壺など、日本の重要文化財に指定されている作品もあります。

 最高級品である元の染付。日本で出土するのは、沖縄のグスク跡からが多く、中でも勝連城跡が圧倒的ということらしいんです。ということは?!?! ?!?!?!

 続きは次回に。


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2012年10月29日

勝連城にはもう1つの入口があった

 だいぶ秋めいてきました。勝連はよい天気が続いています。ももと庵の前の海も色あざやか。勝連城跡の石垣が、青空にくっきりと映えています。

 ももと庵があるのは、勝連城跡に来る人のほとんどが入る西原御門側とは反対の、南風原御門側です。

 西原御門側には、県道16号線があり、駐車場や休憩所もあるので、勝連城跡といえば、西原御門側から入るものと思っている方がほとんどでしょう。ところがー

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 ももと庵から出て右側にわずか30mほど行ったところに、こんな小さな入口があります。いかにも通用口といったふぜいの簡単な造りのこの入口が、南風原御門側から勝連城跡に上る道の入口なんです。

 南風原御門。「はえばるうじょう」と読みます。雑草に覆われているこの小さな入口の先にあった南風原御門こそ、実は勝連城跡の正門だったんです。

 与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚(ももとふみあがり)」には、首里王府と対峙していた勝連城主の阿麻和利(あまわり)に嫁ぐために首里から勝連にやってきた国王尚泰久の娘、百十踏揚の一行が、いよいよ勝連城に足を踏み入れるシーンがあります。ちょっとだけ、さわりを引用させてもらいます。

 行列はゆったりと涼傘をなびかせて、勝連城へ登って行った。
 城のふもとには、将兵や村人たちが、総出で出迎えていた。

 (中略)
 
 行列は、城の南面の、石畳を敷いた長い急坂を登って行った。上り詰めたところの門が、正門の南風原御門だった。
 首里城の門と同じ、櫓を乗せた石造の拱門であった。


 この後、百十踏揚は、初めて阿麻和利と対面します。続きは、ぜひ本を読んで下さい(ももと庵で売っています)。読み出したら、他のことに手がつけられなくなりますけど。

 この南風原御門側の入口から勝連城に上ると、勝連城跡の石垣が、びっくりするくらいすぐ近くに現われます。歩く距離も、西原御門側からよりだいぶ短くてすむ感じです。写真は、南風原御門側の入口から入って、少し勾配のある道を2、3分上り、視界が開けたとたん、目に飛び込んでくる勝連城跡です。

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 南風原御門それ自体は、今はありません。このあたりにあったはず、ということです。

 南風原御門側から勝連城跡に出入りするおもしろさの一つは、それが海側にあって、沖縄本島の東側を一望できることでしょう。泡瀬から始まって、中城、西原、与那原と続き、知念までが見えます。

 西原の先には首里があります。緊張関係にあった15世紀の首里と勝連。首里国王の娘をめとった阿麻和利は、どんな思いで、この風景を毎日眺めていたのでしょう。いや、むしろ、政略結婚で阿麻和利に嫁ぐことになった百十踏揚自身が、地元で大歓迎されながらも、いったいどんな複雑な思いでこの風景を眺めていたかー。想像力がかき立てられますね。

 南風原御門側入口からの勝連城。ぜひ一度、上がってみて下さい。

 それから、与並さんの「琉球王女・百十踏揚」。猛烈に面白いですよ。これを読んでから勝連城に立つと、登場人物が生きて動き出します。

 ただ、ドンと分厚い大作なので、時間とお金に多少ゆとりのある時がいいかも。県内の各書店や万鐘ももと庵で取り扱っています。セブンネットでも扱っていますので、県外の方もぜひ。

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