化学調味料
2011年10月16日
ヒラヒラ感がたまらない
沖縄とアジアの食 第5回 フォー
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。

ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。

食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。


生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。

日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。
前回はフォーの写真を出しておきながら、肉の話に終始してしまった。今回から麺の話に移る。そのフォーからいこう。

ハノイの旧ハンザ市場の近く。旧市街は、いかにもごちゃごちゃした下町ふぜいが魅力だ。各店舗は間口が狭いからか、通りにまで品を出して売っているので、どことなく屋台店舗風の趣きになる。米粉の菓子、果物、麺類、豆腐、鶏。何でもある。その合間を天秤棒や自転車に野菜などを載せた商人が行き交う。
食品関係の店に混じって、飲食店もいろいろある。店舗内だけでは狭いので、歩道上にもどんどん展開して、プラスチックのイスを並べる。子供用にしか見えない低くて小さなイス。人々はそこに腰掛けて、麺類やベトナム風の濃いコーヒーをゆっくりと楽しむ。

食料品店、飲食店、天秤棒。一つひとつが小さなピースで、街全体がジグソーパズルのように見えてくる。街路樹がどこも適度に張り出して木陰を作っているから、常夏の国ではあっても、意外に涼しい。
その中に、ひときわ、人の出入りが激しいフォー屋があった。間口1.2mほど。見ていると、次々に客が声をかけ、注文が入る。かなりの人気店らしい。「限定××食、売り切れじまい」といった趣きだ。
女性3人で切り盛りしている。1人が外でトッピング用の牛肉をせっせと薄切りにしている。前回書いたように、切った後はあまり間を置かずに使うのが衛生管理上のノウハウ。別の1人が奥で麺をどんぶりに入れ、もう1人が具や調味料を入れて熱いスープを注ぎ、客に出す。見事な連携プレー。


生牛肉のフォーを注文した。念のため、化学調味料は少しにしてね、と言ったら、分かってるわよぉ、と言わんばかりのはじけるような笑顔で応じてくれた。若いベトナム人に聞いたが、ひと頃は化学調味料全盛で、何にでも大量に入れていたが、最近は敬遠する人もいるらしい。
麺。ひたすら薄く仕上げてられていて、スープと一体になったヒラヒラした感触がたまらない。スルスル、スルスル、いくらでも入ってしまう。コシめいたものは全くない。コシが欲しいとも思わない。
麺のコシは、スルスルとすすり上げて口に入れた後、噛んだ時に得られる食感。フォーを食べていて思うのは、薄さとヒラヒラした独特の食感が口いっぱいに広がり、そのボリュームでそれなりの噛み応えがあれば十分、ということ。スープと完全に一体化した麺に、歯を押し戻すようなコシがあったら、かえって邪魔になる。

日本では、麺といえば小麦の麺が中心なので、グルテンの生成によるコシが命ということになっている。沖縄でも、沖縄そばは独特のコシで、その話は以前、万鐘本店で書いたが、ともかくコシがなくては話にならない。パスタもそう。芯が残るくらいのゆで加減がいい、とされる。
フォーの食感は、そうしたコシとは対極にある。が、噛み応えがないわけではない。
フォーの原材料になるベトナムの長粒種のコメは、粘りのないアミロースでんぷんの含有量が日本米より多い。
日本の短粒米の品種改良は、粘りの強いアミロペクチンでんぷんの含有量を上げ、粘りを高めることに力が注がれてきた。電気炊飯器も、コンピューター制御で複雑な火加減を実現しているが、その目指すところは、粘りのあるごはんを炊き上げることに尽きる。かくして、いまの日本の食卓に出てくるごはんは、ものすごく粘りが強い。昭和の時代のアミロースが多い米の食感がどんなものだったか、大方の日本人は忘れているのではないか。
フォーのソフトな歯ごたえは、まさにアミロース中心の食感。粘りはほとんどなく、歯にまとわりつくことがない。実にさらり、としている。透明なスープとの相性抜群の「さらり麺」だ。
この場合、薄さが命だろう。アミロース中心の麺が太かったり、厚かったりしたら、歯を押し戻す力がない中に歯がだらしなく埋没していくような中途半端な感じになり、もたつくに違いない。薄ければ、歯がスっと入ったとたんに切れて、心地よい。
この店、これまで食べたどのフォー屋よりうまかった。
ラッキーなことに1時間後、再び近くを通った。よし、失礼してもう1杯食べようか、と思ってのぞいたら、店はもう閉まっていた。