台風
2014年10月13日
2014年10月10日
2014年07月10日
2013年04月21日
海中道路に直結する新道が開通
勝連城跡前から海中道路入口に直接つながる新しい道路が、このほど完成しました。
県道16号線をももと庵入口側から勝連城跡駐車場前を過ぎて進むと、与勝中学を右手前角に見る三叉路にぶつかっていたんですが、今回、三叉路のふさがっていた正面が開いて道になり、そのまま海中道路までつながりました。
写真は勝連城跡側から新道の入口を見たもの。この先に海中道路があります。
Google mapにはまだ表示されていません。と思いきや、拡大拡大していき、最大まで拡大すると、工事中の新道が部分的に出てくるのが分かります。そう言えば、この道路、10年以上前から工事をしていました。
勝連城跡前から海中道路入口までは2km弱といったところでしょうか。早速、走ってみました。この道を使うと、勝連城跡から海中道路の入口まで、信号があまりないこともあって、数分で着いてしまいます。
これからは、海中道路ドライブや島めぐりと勝連城跡の見学がセットで楽しみやすくなることでしょう。
ももと庵が「るるぶ沖縄ドライブ」に掲載されたと前々回お伝えしましたが、海中道路は、今や年間50万人が訪れ、ドライブコースとして不動の人気を誇っています。潮風を浴びながら海の真ん中を突っ走るのは爽快そのもの。その先には平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島がつながっていますので、島めぐりドライブも楽しめますよ。
話は変わりますが、この海中道路誕生の歴史秘話、ご存知でしょうか。実は、だいぶ前にこのブログで取り上げたことがあるんです。
なんとなんと、離島苦から脱しようとした平安座島の人々が、石を1つ1つ手で海に投げ入れて埋め立て、道を作ろうとした、というウソみたいな話。作業の途中で台風に見舞われ、せっかく置いた石が全部流されるなど、苦闘の連続でした。
信じられないかもしれませんが、実話です。詳しい話はこちらをどうぞ。感動ものです。
県道16号線をももと庵入口側から勝連城跡駐車場前を過ぎて進むと、与勝中学を右手前角に見る三叉路にぶつかっていたんですが、今回、三叉路のふさがっていた正面が開いて道になり、そのまま海中道路までつながりました。
写真は勝連城跡側から新道の入口を見たもの。この先に海中道路があります。
Google mapにはまだ表示されていません。と思いきや、拡大拡大していき、最大まで拡大すると、工事中の新道が部分的に出てくるのが分かります。そう言えば、この道路、10年以上前から工事をしていました。
勝連城跡前から海中道路入口までは2km弱といったところでしょうか。早速、走ってみました。この道を使うと、勝連城跡から海中道路の入口まで、信号があまりないこともあって、数分で着いてしまいます。
これからは、海中道路ドライブや島めぐりと勝連城跡の見学がセットで楽しみやすくなることでしょう。
ももと庵が「るるぶ沖縄ドライブ」に掲載されたと前々回お伝えしましたが、海中道路は、今や年間50万人が訪れ、ドライブコースとして不動の人気を誇っています。潮風を浴びながら海の真ん中を突っ走るのは爽快そのもの。その先には平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島がつながっていますので、島めぐりドライブも楽しめますよ。
話は変わりますが、この海中道路誕生の歴史秘話、ご存知でしょうか。実は、だいぶ前にこのブログで取り上げたことがあるんです。
なんとなんと、離島苦から脱しようとした平安座島の人々が、石を1つ1つ手で海に投げ入れて埋め立て、道を作ろうとした、というウソみたいな話。作業の途中で台風に見舞われ、せっかく置いた石が全部流されるなど、苦闘の連続でした。
信じられないかもしれませんが、実話です。詳しい話はこちらをどうぞ。感動ものです。
2011年03月27日
「十三祝いの新築」を原点に
沖縄を創る人 第13回
国建取締役 平良啓さん(下)
沖縄には13歳を祝う「十三祝い」の習慣が今もある。いわゆる成年になる儀礼だ。平良啓さんが十三祝いを迎えた時に、父が家を新築した。当時、住んでいたのは石垣島。貧しい中で、それまで茅葺きの家だったのを、セメント瓦の木造家に建て替えたのだった。
「啓の十三祝いに家を作ったんだよ、と父に言われて・・・ さすがに感激しました」
新築の際には、島の大工がやってきた。かんなで木を削り、のみでほぞを切って、家を建てていった。その見事な仕事ぶりに、啓少年は目を見張った。
「建築士になりたい」。そんな夢が芽生えた。叔父が建築士をしていたことも、建築家を志す支えになった。
中学を出た後は迷わず工業高校に進み、卒業後、株式会社国建へ。いったん退社して、大学の建築科で本格的に建築学を学んだ後、再び国建に戻った。
平良さんは、首里城復元の後も、さまざまな歴史的建造物の復元や改修設計に携わった。例えば、首里城の西にある玉陵(タマウドゥン)の「東の御番所」の復元。玉陵は、その名の通り、琉球国王の墓で、御番所はその敷地内にある。玉陵を管理する那覇市の強い意向で、国王や王妃が休憩した東の御番所が復元されることになり、その設計・監理を平良さんらのチームが担当した。
建物は沖縄戦で焼失していたが、その跡周辺に残されていた基壇の石積から建物の位置と向き、輪郭、地盤の高さなどが判明。さらに礎石間の実測から柱間寸法を想定した。古い写真から床高、軒高、軒先の長さ、屋根の勾配などを割り出した。
現場は、陵墓だけのことはあって、手前の小さな森の部分とあいまって、なんとも言えぬ厳粛な静けさを醸し出している。都市の真ん中にいることをしばし忘れさせる空間だ。
読谷村にある「喜名番所」も、平良さんらが関わった木造の歴史的建造物の一つ。こちらの番所は、今の役場にあたる。1853年にはペリー提督一行が立ち寄り、随行画家のハイネの描いた絵が残されている。古写真や文献、発掘調査記録を分析するとともに、古老への聞き取りを行い、有識者による委員会で方針を決めていく、という、首里城復元以来の手法を採った。現在は観光案内所として使われている。
木造建築といえば、このような歴史的な建造物ばかりでなく、かつては一般民家も当然ながらみな木造建築だった。木造建築は、沖縄の蒸し暑さを回避するうえで機能的に優れているが、戦後、沖縄の住宅のほとんどが鉄筋コンクリート造になった。
平良さんによれば、現代の木造建築は、台風に耐える強度を十分備えているし、シロアリ対策も開発されている。木造建築がかつて直面したそうした大きな問題は、少なくとも技術的には既にクリアされている。にもかかわらず、木造住宅はまだまだ少ない。
「台風とシロアリでさんざんひどい目に遭ってきましたから。やはり、それがトラウマになっているのでしょうか」
平良さんが懸念しているのが、木造建築を作ることができる人材の不足だ。コストダウンを図るため、コンピュータにデータを入力して機械に材をカットさせる方式が増えつつある。しかし、このやり方では、伝統的民家を建てられるような人材はなかなか育たない。
とはいえ、散発的にせよ、歴史的な木造建築の修復や復元工事は行われている。そうした中で、ベテラン、中堅、新人の大工が関わっており、伝統技術は着実に継承されている、と平良さんはみている。
[平良啓さんとつながる] 首里城は那覇市首里当蔵町3-1、098-886-2020。平良さんも理事を務める「首里城公園友の会」は、見学会、講演会、研究誌『首里城研究』の発行など、さまざまな活動をしているので、首里城や琉球王国について深掘りしたい方にお勧め。事務局は098-886-2020。玉陵「東の御番所」は、首里城のすぐ西。歩いて行ける。那覇市首里金城町1-3、098-885-2861。喜名番所は、読谷村字喜名1-2、098-958-2944。国土交通省の道の駅に指定されており、気軽に立ち寄れる。平良さんの勤務する株式会社国建のHPはこちら。
国建取締役 平良啓さん(下)
沖縄には13歳を祝う「十三祝い」の習慣が今もある。いわゆる成年になる儀礼だ。平良啓さんが十三祝いを迎えた時に、父が家を新築した。当時、住んでいたのは石垣島。貧しい中で、それまで茅葺きの家だったのを、セメント瓦の木造家に建て替えたのだった。
「啓の十三祝いに家を作ったんだよ、と父に言われて・・・ さすがに感激しました」
新築の際には、島の大工がやってきた。かんなで木を削り、のみでほぞを切って、家を建てていった。その見事な仕事ぶりに、啓少年は目を見張った。
「建築士になりたい」。そんな夢が芽生えた。叔父が建築士をしていたことも、建築家を志す支えになった。
中学を出た後は迷わず工業高校に進み、卒業後、株式会社国建へ。いったん退社して、大学の建築科で本格的に建築学を学んだ後、再び国建に戻った。
平良さんは、首里城復元の後も、さまざまな歴史的建造物の復元や改修設計に携わった。例えば、首里城の西にある玉陵(タマウドゥン)の「東の御番所」の復元。玉陵は、その名の通り、琉球国王の墓で、御番所はその敷地内にある。玉陵を管理する那覇市の強い意向で、国王や王妃が休憩した東の御番所が復元されることになり、その設計・監理を平良さんらのチームが担当した。
建物は沖縄戦で焼失していたが、その跡周辺に残されていた基壇の石積から建物の位置と向き、輪郭、地盤の高さなどが判明。さらに礎石間の実測から柱間寸法を想定した。古い写真から床高、軒高、軒先の長さ、屋根の勾配などを割り出した。
現場は、陵墓だけのことはあって、手前の小さな森の部分とあいまって、なんとも言えぬ厳粛な静けさを醸し出している。都市の真ん中にいることをしばし忘れさせる空間だ。
読谷村にある「喜名番所」も、平良さんらが関わった木造の歴史的建造物の一つ。こちらの番所は、今の役場にあたる。1853年にはペリー提督一行が立ち寄り、随行画家のハイネの描いた絵が残されている。古写真や文献、発掘調査記録を分析するとともに、古老への聞き取りを行い、有識者による委員会で方針を決めていく、という、首里城復元以来の手法を採った。現在は観光案内所として使われている。
木造建築といえば、このような歴史的な建造物ばかりでなく、かつては一般民家も当然ながらみな木造建築だった。木造建築は、沖縄の蒸し暑さを回避するうえで機能的に優れているが、戦後、沖縄の住宅のほとんどが鉄筋コンクリート造になった。
平良さんによれば、現代の木造建築は、台風に耐える強度を十分備えているし、シロアリ対策も開発されている。木造建築がかつて直面したそうした大きな問題は、少なくとも技術的には既にクリアされている。にもかかわらず、木造住宅はまだまだ少ない。
「台風とシロアリでさんざんひどい目に遭ってきましたから。やはり、それがトラウマになっているのでしょうか」
平良さんが懸念しているのが、木造建築を作ることができる人材の不足だ。コストダウンを図るため、コンピュータにデータを入力して機械に材をカットさせる方式が増えつつある。しかし、このやり方では、伝統的民家を建てられるような人材はなかなか育たない。
とはいえ、散発的にせよ、歴史的な木造建築の修復や復元工事は行われている。そうした中で、ベテラン、中堅、新人の大工が関わっており、伝統技術は着実に継承されている、と平良さんはみている。
[平良啓さんとつながる] 首里城は那覇市首里当蔵町3-1、098-886-2020。平良さんも理事を務める「首里城公園友の会」は、見学会、講演会、研究誌『首里城研究』の発行など、さまざまな活動をしているので、首里城や琉球王国について深掘りしたい方にお勧め。事務局は098-886-2020。玉陵「東の御番所」は、首里城のすぐ西。歩いて行ける。那覇市首里金城町1-3、098-885-2861。喜名番所は、読谷村字喜名1-2、098-958-2944。国土交通省の道の駅に指定されており、気軽に立ち寄れる。平良さんの勤務する株式会社国建のHPはこちら。
2008年03月19日
[第46話 沖縄] 「人力」でスタートした海中道路建設
沖縄本島中部東側に突き出している与勝半島と平安座(へんざ)島を結ぶ全長4.7kmの海中道路。青い海を眺めながらドライブを楽しむ人が多いが、この海中道路には驚くべき前史があった。今回は、離島の人々の心情を雄弁に物語るこの話題を。
海中道路は1971年、石油会社が平安座島に石油タンクを建設するのに伴って作られた。沖縄が日本本土に復帰する2年前のこと。これが現在利用されている道路だが、実はそれ以前にも、海中道路の建設が試みられていた。離島苦に悩む平安座島の人々が、なんと人力で海に石を置いて自力で道を造ろうとしたのである。
下の2枚の白黒写真はいずれも平安座自治会に提供していただいた。1枚目の写真は、平安座島の女性たちが、石を頭に乗せて運んでいるところ。島から掘り出した石をこうして女性たちが運び、海に落としては道路の基盤を造っていった。
5km近い距離の海を人力で埋めて道を造ろうとは、普通なら、だれも考えないだろう。平安座の人々はなぜそれをやったのか。
「離島苦というのは、実際に経験した者でないと分からないものですよ」と話すのは、平安座自治会長の下條義明さん。平安座島と沖縄本島とを何としても陸続きにして、不便な島の暮らしをラクに豊かにしたい―。その一念が、一見不可能とも思える人力による海中道路建設に人々を駆り立てたのだ。下條さんは子供のころ、埋め立て用の石を掘り出す作業を手伝わされた時の光景を、今も鮮明を覚えているという。
平安座島と与勝半島屋慶名を結ぶのは浅瀬の海。干潮の時には砂地が顔を出す。道路が出来る前は渡船が主な交通手段だったが、干潮時だけはトラック輸送が行われていた。写真は、そのトラックが人や物資を乗せて出発するところ。1日のうちのわずかな時間とはいえ、こうして沖縄本島と島が陸続きになる光景を島人は毎日見ていた。このことも、人力で道を造ろうという動機づけになったに違いない。
かくして、1961年3月9日、人力による海中道路工事は始まった。島人総出で石を運び、道路は着々と建設が進んだ。が、7月、台風デルタの来襲で一部が流失。9月の台風ナンシーでは、島民の汗の結晶は無惨にもすべて破壊された。中心になって自力工事を推進した当時の玉栄政善自治会長は「憤怒のあまり失神寸前の態であった。悲嘆の涙は流れて止まず、呆然と立ちすくむ様であった」と、その無念さを記している。
しかし島人はあきらめなかった。工法を再考し、翌1962年4月に工事を再開した。今度は資金をやりくりしてセメントを少しずつ買っては、コンクリートの道を再び自力で造り始めた。その年のうちに130mを構築。4年後には80mを増築した。まさに不屈の精神というほかない。そうこうしているうちに、石油会社の進出が決まり、現在の道路が建設された。
いま沖縄で平安座島と言えば、伝統行事の島として名高い。自治会が正式に関与する行事だけで年間40以上、これに各家庭で行われている行事を加えると、70以上の伝統行事があるという。
島が最大の盛り上がりを見せるのが、旧暦3月3日から5日に行われるサングヮチャー。ことしは新暦で4月8日から10日に当たる。海の安全と豊漁を祈るこの伝統行事には多くの観光客も訪れる。サングヮチャーはじめ、平安座の諸行事についての問い合わせは平安座自治会098-977-8127。
海中道路は1971年、石油会社が平安座島に石油タンクを建設するのに伴って作られた。沖縄が日本本土に復帰する2年前のこと。これが現在利用されている道路だが、実はそれ以前にも、海中道路の建設が試みられていた。離島苦に悩む平安座島の人々が、なんと人力で海に石を置いて自力で道を造ろうとしたのである。
下の2枚の白黒写真はいずれも平安座自治会に提供していただいた。1枚目の写真は、平安座島の女性たちが、石を頭に乗せて運んでいるところ。島から掘り出した石をこうして女性たちが運び、海に落としては道路の基盤を造っていった。
5km近い距離の海を人力で埋めて道を造ろうとは、普通なら、だれも考えないだろう。平安座の人々はなぜそれをやったのか。
「離島苦というのは、実際に経験した者でないと分からないものですよ」と話すのは、平安座自治会長の下條義明さん。平安座島と沖縄本島とを何としても陸続きにして、不便な島の暮らしをラクに豊かにしたい―。その一念が、一見不可能とも思える人力による海中道路建設に人々を駆り立てたのだ。下條さんは子供のころ、埋め立て用の石を掘り出す作業を手伝わされた時の光景を、今も鮮明を覚えているという。
平安座島と与勝半島屋慶名を結ぶのは浅瀬の海。干潮の時には砂地が顔を出す。道路が出来る前は渡船が主な交通手段だったが、干潮時だけはトラック輸送が行われていた。写真は、そのトラックが人や物資を乗せて出発するところ。1日のうちのわずかな時間とはいえ、こうして沖縄本島と島が陸続きになる光景を島人は毎日見ていた。このことも、人力で道を造ろうという動機づけになったに違いない。
かくして、1961年3月9日、人力による海中道路工事は始まった。島人総出で石を運び、道路は着々と建設が進んだ。が、7月、台風デルタの来襲で一部が流失。9月の台風ナンシーでは、島民の汗の結晶は無惨にもすべて破壊された。中心になって自力工事を推進した当時の玉栄政善自治会長は「憤怒のあまり失神寸前の態であった。悲嘆の涙は流れて止まず、呆然と立ちすくむ様であった」と、その無念さを記している。
しかし島人はあきらめなかった。工法を再考し、翌1962年4月に工事を再開した。今度は資金をやりくりしてセメントを少しずつ買っては、コンクリートの道を再び自力で造り始めた。その年のうちに130mを構築。4年後には80mを増築した。まさに不屈の精神というほかない。そうこうしているうちに、石油会社の進出が決まり、現在の道路が建設された。
いま沖縄で平安座島と言えば、伝統行事の島として名高い。自治会が正式に関与する行事だけで年間40以上、これに各家庭で行われている行事を加えると、70以上の伝統行事があるという。
島が最大の盛り上がりを見せるのが、旧暦3月3日から5日に行われるサングヮチャー。ことしは新暦で4月8日から10日に当たる。海の安全と豊漁を祈るこの伝統行事には多くの観光客も訪れる。サングヮチャーはじめ、平安座の諸行事についての問い合わせは平安座自治会098-977-8127。