小麦粉
2011年01月30日
ちんすこう支える「何も変えない勇気」
沖縄を創る人 第5回
新垣カミ菓子店 伊波元丸さん
ちんすこうをはじめとする昔ながらの琉球伝統菓子を作り続ける新垣カミ菓子店。8代目にあたる伊波元丸さんに首里の製造所で話を聞いた。


新垣カミ菓子店の歴史は200年前にさかのぼる。琉球王府の包丁方を拝命した新垣親雲上淑規(あらかきぺーちんしゅくき)が開祖。店名になっている新垣カミは、淑規から4代後の淑正の妻で、早くに夫を亡くし、女手ひとつで戦前、戦中、戦後の激動の時代に、伝統の味を守り続けた。
同じ「新垣(あらかき)」の名でちんすこうを製造しているメーカーは3軒ある。いずれも開祖は同じ淑規で、長い歴史の途中で分かれた。
新垣カミ菓子店の製品は、ちんすこう、ちいるんこう、はなぼうる、くんぺんなど。伊波さんは現在、ちんすこうとちいるんこうを主に作っている。
伝統的なちんすこうは、小麦粉、ラード、砂糖、ふくらし粉で作る。新垣カミ菓子店は国産の小麦粉とラードを使う。
「ちんすこうの食感には小麦粉が大きな影響を与えます」と伊波さん。
鶏卵が入らないため、結着効果は小麦粉と砂糖だけが担うことになる。いろいろな国産小麦粉を使ってみたが、同じ国産小麦粉といっても、ちんすこうを作ってみると、固すぎる出来上がりになるものもあるし、逆に柔らかすぎてすぐ崩れてしまうものもある。

ちんすこうは、生地を焼くと、少し膨らんで上部が盛り上がるとともに、中に3ミリくらいの小さな空洞がいくつかできる。これが口の中で噛むうちにほろほろ崩れる感じの食感の一翼を担っているが、膨らみすぎてもいけない。むしろ生地はしっかり押さえて空気を抜くようにして整える。このような微妙で繊細な感覚が、昔から変わらぬおいしさを支えているといえそうだ。
新垣カミは「昔からの味は絶対に変えてはならない。お客に対しては、常に立派な菓子をお出しするのがあたりまえ」と常々言っていたという。
昔の味とは違う新しいものに挑戦したくなりませんか、と伊波さんに尋ねたら、こんな答が返ってきた。
「あえて何も変えない勇気っていうのもあるのかな、と思うんです」
素材の確かさ、味や香りは昔のまま。看板やパッケージに「伝承200年」とうたっている。
ちんすこうのほかに、伊波さんが担当しているのが、ちいるんこう。これは万鐘本店1期の第155話で紹介した。卵黄がたっぷり入る栄養豊富なお菓子だ。カステラよりもしっかりした食感。
琉球国王の王冠の宝石を模したピーナツときっぱんが表面にあしらわれている。生地をじっくりと蒸し上げて作る。
生地の材料を混ぜ合わせてから時間が経つと生地から気泡が出てきて、仕上がりが悪くなるので、生地づくりから蒸しまでの作業はスピーディーにやる必要がある。これも、代々伝承され、伊波さんの母で7代目の恵子さんから伊波さんに伝えられてきた作り方の一つだ。

首里城の中で王子の控え所だった「鎖之間(さすのま)」では、現在、見学者がさんぴん茶と琉球伝統菓子を楽しめる。どの琉球菓子店のお菓子を採用するか、首里城のスタッフが各社の製品を食べ比べた結果、新垣カミ菓子店のものが採用された。
続きは次回2/6(日)に。
新垣カミ菓子店 伊波元丸さん
ちんすこうをはじめとする昔ながらの琉球伝統菓子を作り続ける新垣カミ菓子店。8代目にあたる伊波元丸さんに首里の製造所で話を聞いた。


新垣カミ菓子店の歴史は200年前にさかのぼる。琉球王府の包丁方を拝命した新垣親雲上淑規(あらかきぺーちんしゅくき)が開祖。店名になっている新垣カミは、淑規から4代後の淑正の妻で、早くに夫を亡くし、女手ひとつで戦前、戦中、戦後の激動の時代に、伝統の味を守り続けた。
同じ「新垣(あらかき)」の名でちんすこうを製造しているメーカーは3軒ある。いずれも開祖は同じ淑規で、長い歴史の途中で分かれた。
新垣カミ菓子店の製品は、ちんすこう、ちいるんこう、はなぼうる、くんぺんなど。伊波さんは現在、ちんすこうとちいるんこうを主に作っている。
伝統的なちんすこうは、小麦粉、ラード、砂糖、ふくらし粉で作る。新垣カミ菓子店は国産の小麦粉とラードを使う。
「ちんすこうの食感には小麦粉が大きな影響を与えます」と伊波さん。
鶏卵が入らないため、結着効果は小麦粉と砂糖だけが担うことになる。いろいろな国産小麦粉を使ってみたが、同じ国産小麦粉といっても、ちんすこうを作ってみると、固すぎる出来上がりになるものもあるし、逆に柔らかすぎてすぐ崩れてしまうものもある。

ちんすこうは、生地を焼くと、少し膨らんで上部が盛り上がるとともに、中に3ミリくらいの小さな空洞がいくつかできる。これが口の中で噛むうちにほろほろ崩れる感じの食感の一翼を担っているが、膨らみすぎてもいけない。むしろ生地はしっかり押さえて空気を抜くようにして整える。このような微妙で繊細な感覚が、昔から変わらぬおいしさを支えているといえそうだ。
新垣カミは「昔からの味は絶対に変えてはならない。お客に対しては、常に立派な菓子をお出しするのがあたりまえ」と常々言っていたという。
昔の味とは違う新しいものに挑戦したくなりませんか、と伊波さんに尋ねたら、こんな答が返ってきた。
「あえて何も変えない勇気っていうのもあるのかな、と思うんです」
素材の確かさ、味や香りは昔のまま。看板やパッケージに「伝承200年」とうたっている。
ちんすこうのほかに、伊波さんが担当しているのが、ちいるんこう。これは万鐘本店1期の第155話で紹介した。卵黄がたっぷり入る栄養豊富なお菓子だ。カステラよりもしっかりした食感。
琉球国王の王冠の宝石を模したピーナツときっぱんが表面にあしらわれている。生地をじっくりと蒸し上げて作る。
生地の材料を混ぜ合わせてから時間が経つと生地から気泡が出てきて、仕上がりが悪くなるので、生地づくりから蒸しまでの作業はスピーディーにやる必要がある。これも、代々伝承され、伊波さんの母で7代目の恵子さんから伊波さんに伝えられてきた作り方の一つだ。

首里城の中で王子の控え所だった「鎖之間(さすのま)」では、現在、見学者がさんぴん茶と琉球伝統菓子を楽しめる。どの琉球菓子店のお菓子を採用するか、首里城のスタッフが各社の製品を食べ比べた結果、新垣カミ菓子店のものが採用された。
続きは次回2/6(日)に。
2009年05月31日
[第119話 食] 超高級食材だった車麩
麩と言えばフーチャンプルー。材料の車麩は、どこのスーパーでも見かけるおなじみの食品で、値段も手頃。ところで、この車麩、どうやって作るのか。沖縄市の大城製麩で、車麩づくりの現場を見せてもらった。

麩の原料は小麦粉。小麦粉には、でんぷんのほかに、タンパク質であるグルテンが豊富に含まれている。小麦粉に水を加えてかくはんしてからグルテンの沈殿を待ち、水に混ざったでんぷんを流す。この作業を繰り返して、より純粋なグルテンにしていく。
ちょうど米を繰り返しといではヌカ成分を流すのに似ている。ただし、米の場合は、残るのがでんぷん。麩づくりはその逆で、流すのがでんぷんだ。「私のところはこれを14回やるんです」と大城さん。残るでんぷんが多いと、食感が悪くなるらしい。
残ったグルテンは粘土色で、ねばりがものすごく強い(冒頭の写真)。これを数分練ってから、小分けする。小分けしたものを伸ばして棒に巻き付け、かまに入れて焼くこと約4分。グルテンは自分で膨らんで、おなじみの車麩が出来上がる。


簡単そうだが、実際には難しい点がいろいろある。例えば、生地を小分けしてから、棒に巻き付けるまでの時間。これが長すぎると、コシがどんどん弱くなる。気温も影響する。小分けする人と焼く人は、言葉も交わさず、全く別の作業をしているように見えるが、実はわずか4、5分の間合いを互いに意識しながら仕事をしているのだ。
あるいは、麩を焼くかま。このかまは300度近い高温が保たれている特注品。パンやケーキは200度前後で焼くが、麩はそれよりもずっと高温で、短時間で焼く。電気オーブンでこの高温を作り出すのは難しい。大城さんのかまは灯油を燃やす。

パンなら酵母を生地に入れて膨らませるが、大城さんの麩は何も入れない。「グルテンは自然に膨らむんです」。グルテンの自然の性質をよく見極めて、時間と温度をしっかり管理して、最適の膨らみ具合を得なければならない。
大城さんから興味深い話を聞いた。沖縄本島中部の製麩業者のほとんどは、戦後、首里から移転してきた。つまり、戦前まで、麩はかつての琉球王国の王府周辺だけで作られていた。麩は「王様の食べ物」だったのだ。
よく考えてみれば、うなずける話。なにしろ、小麦粉の主成分である豊富なでんぷんを捨て、わずかなタンパク質だけを取り出すのだ。
琉球王国がいくら繁栄を謳歌した時代があったとはいえ、生産力の低い昔、庶民はその日その日のカロリーを確保するのがやっとだったはず。その貴重なカロリー源のでんぷんを「捨てる」という食品加工技術が発達したのは、さすがに王府周辺だけだったのではないか。もちろん、かつて、でんぷんは「捨てられた」のではなく、「分けられて」別に利用されたに違いないが。

3本180円。今や、大衆食材の代表選手となった車麩には、実はそんな栄光の歴史があったのだ。その栄光ぶりは、今も、車麩の高い栄養価にはっきり刻印されている。というのも、車麩は、タンパク質がなんと40%を超す。これほど高タンパクの食品は、めったにあるものではない。
そう考えると、フーチャンプルーが、なんだか神々しいまでにありがたいものに思えてきた。
大城さんの車麩はスーパーかねひで各店で買える。万鐘本店でも、第4話のままやの記事で、麩だけで作るちょっと変わったフーイリチーを紹介したことがあった。

麩の原料は小麦粉。小麦粉には、でんぷんのほかに、タンパク質であるグルテンが豊富に含まれている。小麦粉に水を加えてかくはんしてからグルテンの沈殿を待ち、水に混ざったでんぷんを流す。この作業を繰り返して、より純粋なグルテンにしていく。
ちょうど米を繰り返しといではヌカ成分を流すのに似ている。ただし、米の場合は、残るのがでんぷん。麩づくりはその逆で、流すのがでんぷんだ。「私のところはこれを14回やるんです」と大城さん。残るでんぷんが多いと、食感が悪くなるらしい。
残ったグルテンは粘土色で、ねばりがものすごく強い(冒頭の写真)。これを数分練ってから、小分けする。小分けしたものを伸ばして棒に巻き付け、かまに入れて焼くこと約4分。グルテンは自分で膨らんで、おなじみの車麩が出来上がる。


簡単そうだが、実際には難しい点がいろいろある。例えば、生地を小分けしてから、棒に巻き付けるまでの時間。これが長すぎると、コシがどんどん弱くなる。気温も影響する。小分けする人と焼く人は、言葉も交わさず、全く別の作業をしているように見えるが、実はわずか4、5分の間合いを互いに意識しながら仕事をしているのだ。
あるいは、麩を焼くかま。このかまは300度近い高温が保たれている特注品。パンやケーキは200度前後で焼くが、麩はそれよりもずっと高温で、短時間で焼く。電気オーブンでこの高温を作り出すのは難しい。大城さんのかまは灯油を燃やす。

パンなら酵母を生地に入れて膨らませるが、大城さんの麩は何も入れない。「グルテンは自然に膨らむんです」。グルテンの自然の性質をよく見極めて、時間と温度をしっかり管理して、最適の膨らみ具合を得なければならない。
大城さんから興味深い話を聞いた。沖縄本島中部の製麩業者のほとんどは、戦後、首里から移転してきた。つまり、戦前まで、麩はかつての琉球王国の王府周辺だけで作られていた。麩は「王様の食べ物」だったのだ。
よく考えてみれば、うなずける話。なにしろ、小麦粉の主成分である豊富なでんぷんを捨て、わずかなタンパク質だけを取り出すのだ。
琉球王国がいくら繁栄を謳歌した時代があったとはいえ、生産力の低い昔、庶民はその日その日のカロリーを確保するのがやっとだったはず。その貴重なカロリー源のでんぷんを「捨てる」という食品加工技術が発達したのは、さすがに王府周辺だけだったのではないか。もちろん、かつて、でんぷんは「捨てられた」のではなく、「分けられて」別に利用されたに違いないが。

3本180円。今や、大衆食材の代表選手となった車麩には、実はそんな栄光の歴史があったのだ。その栄光ぶりは、今も、車麩の高い栄養価にはっきり刻印されている。というのも、車麩は、タンパク質がなんと40%を超す。これほど高タンパクの食品は、めったにあるものではない。
そう考えると、フーチャンプルーが、なんだか神々しいまでにありがたいものに思えてきた。
大城さんの車麩はスーパーかねひで各店で買える。万鐘本店でも、第4話のままやの記事で、麩だけで作るちょっと変わったフーイリチーを紹介したことがあった。