木造

2011年03月20日

歴史的建造物をよみがえらせる

沖縄を創る人 第12回
 国建取締役 平良啓さん(上)



 沖縄を代表する歴史的建造物、首里城。沖縄戦で灰燼に帰した首里城が本格的に復元されたのは平成4年のことだった。復元には数多くの専門家がかかわったが、その中に1人の若手建築技術者がいた。平良啓さん。当時30代前半。首里城復元の現場監理を丸3年担当した平良さんは、その経験をベースに、その後も数多くの歴史的建造物の復元や改修設計を手がけてきた。

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 「首里城の仕事の前には、そうした歴史的な木造建築を手がけたことはなかったんです」

 たまたま上司が歴史的建造物を手がけた経験があったため、平良さんは首里城復元の仕事に携わるようになった。沖縄は、沖縄戦で主な建造物がほとんど焼失してしまったため、木造の社寺などを設計・施工した経験を持つ技術者はほとんどいなかったのだ。

 不足していたのは人材だけではない。そもそも、首里城正殿がどんな形、構造だったかがよく分からなかった。それを調べ上げることが平良さんらの初めの仕事になった。基本設計、予備設計、実施設計の3段階を通じて、古文書、古写真、古絵図を調べるとともに、戦前の建物を知っている古老にも話を聞いた。首里城正殿は昭和に改修工事をしているが、その前の「明治の首里城」を知っている人も当時はまだ存命だった。

 「大変な仕事でしたけど、未知のものを探求する楽しみはありましたね」と平良さんは振り返る。

 首里城正殿の復元は、国営沖縄記念公園事務所が社団法人日本公園緑地協会に設計と工事監理を委託。平良さんはその時のワーキングスタッフの1人として参加したのだった。

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 写真は首里城公園内に置かれている首里城正殿の1/10スケールの構造模型。正殿は、直径40cm、高さ8mの柱が何本もいる。沖縄でそのような大木を何本も調達することは不可能だった。平成の復元に際しては調達が可能なタイワンヒノキを輸入した。

 施工の過程で木造の難しさも味わった。まっすぐのはずの材が途中でひねってしまったり、乾燥が激しい時に割れてしまうこともあった。「木は生きていますから…」。幸い、首里城は内外が赤く塗装されたので、割れた部分は目止めして塗装すればなんとかカバーできた。

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 前に述べたように、沖縄戦で古い木造建築が焼失し、住宅も戦後は鉄筋コンクリート建てのものが増えたこともあって、沖縄には木造建築の経験豊富な大工があまりいなかった。首里城復元の施工の際には、社寺建設などの経験を持つ十数人の宮大工が福井県などから加勢、沖縄の大工とともに木工事を担った。

 木材を組み上げるについては、伝統的な琉球建築の技術をできるだけ活用した。木材を長く伸ばす際の接続技術である「継手」、角度をつけて組み合わせる接続技術の「仕口」などにそれらが生かされている。

 もちろん、現代技術を使った部分もある。例えば、首里城正殿の屋根の正面と両端に鎮座する龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)。直径3mもある巨大な陶製だ。これを屋根に固定するのは容易ではなかった。台風の風をまともに受ける屋根の頂上に置かれる重たく巨大な陶製。もし固定が甘くて落下するようなことがあったら―。工法は慎重に検討され、最新の技術が採用された。

 平良さんにとって、あるいは多くの沖縄の建築関係者にとって、こうした設計、施工プロセスのほとんどすべてが初めてづくめ。平良さんはその過程の一部始終を、現場で丸3年、体験した。

 「人生で一番いい経験でした」

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 平良さんは後に、首里城復元の過程を5年がかりで論文「伝統的建築物群における復元設計プロセスと復元施工に関する研究」にまとめ、2005年、神戸芸術工科大から博士号を授与された。

 続きは次回3/27(日)に。

bansyold at 00:00|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote