札幌
2012年12月13日
デザートにかけるアジアの情熱
沖縄からの直行便が飛んでいるアジアの都市はいくつかありますが、香港もその一つ。那覇から2時間半です。
夜の香港を歩いていると、「デザートにかける人々の情熱」を感じないわけにはいきません。夜9時とか10時くらいに一番にぎわっているのは、飲食店ではなく、むしろデザート専門店。その前の時間帯に一杯やりながら食事をした人たちが甘味店前に群れている光景を、繁華街ではしばしば見かけます。
だいたい年中暑い香港ですから、日本でもおなじみになったマンゴープリンのような冷たいスイーツはもちろん人気ですが、どちらかと言えば伝統的な温かいお汁粉のような甘味に、老若男女が静かに舌鼓を打っています。
お汁粉には蓮の実が入っていたりするのもあって、体によさそう。医食同源が甘味類にもしっかり根付いている様子がうかがえます。
上環(ジョンワン)にある小さな甘味店に入ってみました。まるで飾り気のないステンレスのテーブルに、男女のグループや家族連れが陣取って、静かにおしゃべりしながら甘味をすすっています。
夜9時半から10時頃にかけてのこと。入れ替わり立ち代わり、人が入ってきて、店内は常に満員の状態です。大声を出すような酔っぱらいはいません。日本の繁華街に比べると、香港の夜は静かな印象です。
甘いものに女性がことのほか熱心なのは万国共通のようですが、香港では、男性も全く負けていません。男性ばかりのグループが夜の甘味店のテーブルを囲んでいることもしばしば。
那覇の松山で、あるいは博多の中洲や札幌のすすきので、一杯やった後、みんなで甘味店に繰り出すなんてことは、まずないでしょう。どちらかといえば「締め」と称してラーメンをすすったり、飲み足りない人は未明に及ぶまで飲み続けたり。
そういえばベトナムでも、宴席が終わった後に帰ろうとしたら、「じゃ、こちらへ」と別のテーブルに案内されたことがあります。そこには、デザートの果物とお茶が用意されていました。つい先ほどまで「乾杯、乾杯」でしたたか酒を飲んでいた人々が、ニコニコとデザートテーブルで果物をつまんでいます。
デザートにかける情熱は、アジア各地に共通する文化なのかもしれません。
夜の香港を歩いていると、「デザートにかける人々の情熱」を感じないわけにはいきません。夜9時とか10時くらいに一番にぎわっているのは、飲食店ではなく、むしろデザート専門店。その前の時間帯に一杯やりながら食事をした人たちが甘味店前に群れている光景を、繁華街ではしばしば見かけます。
だいたい年中暑い香港ですから、日本でもおなじみになったマンゴープリンのような冷たいスイーツはもちろん人気ですが、どちらかと言えば伝統的な温かいお汁粉のような甘味に、老若男女が静かに舌鼓を打っています。
お汁粉には蓮の実が入っていたりするのもあって、体によさそう。医食同源が甘味類にもしっかり根付いている様子がうかがえます。
上環(ジョンワン)にある小さな甘味店に入ってみました。まるで飾り気のないステンレスのテーブルに、男女のグループや家族連れが陣取って、静かにおしゃべりしながら甘味をすすっています。
夜9時半から10時頃にかけてのこと。入れ替わり立ち代わり、人が入ってきて、店内は常に満員の状態です。大声を出すような酔っぱらいはいません。日本の繁華街に比べると、香港の夜は静かな印象です。
甘いものに女性がことのほか熱心なのは万国共通のようですが、香港では、男性も全く負けていません。男性ばかりのグループが夜の甘味店のテーブルを囲んでいることもしばしば。
那覇の松山で、あるいは博多の中洲や札幌のすすきので、一杯やった後、みんなで甘味店に繰り出すなんてことは、まずないでしょう。どちらかといえば「締め」と称してラーメンをすすったり、飲み足りない人は未明に及ぶまで飲み続けたり。
そういえばベトナムでも、宴席が終わった後に帰ろうとしたら、「じゃ、こちらへ」と別のテーブルに案内されたことがあります。そこには、デザートの果物とお茶が用意されていました。つい先ほどまで「乾杯、乾杯」でしたたか酒を飲んでいた人々が、ニコニコとデザートテーブルで果物をつまんでいます。
デザートにかける情熱は、アジア各地に共通する文化なのかもしれません。
2011年02月27日
「金来火帰」で歌三線を出張指導
沖縄を創る人 第9回
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(上)
三線を弾きながら沖縄民謡を歌って楽しむ人が全国的に増えている。全国を飛び回って「歌三線(うたさんしん)」を指導している金城盛長さんに話を聞いた。
金城さんは、めっぽう忙しい。本土の三線教室での出張指導が定期的に入っているからだ。例えば、ことし1月の動きなこんな調子だった。
1/ 7(金)名古屋で指導
1/ 8(土)鎌倉で指導
1/ 9(日)鎌倉で指導
1/10(月)鎌倉で指導
1/11(火)沖縄に戻る
1/14(金)大阪で指導
1/15(土)仙台で指導
1/16(日)沖縄に戻る
1/21(金)東京で指導
1/22(土)藤沢で指導
1/23(日)札幌で指導
1/24(月)沖縄に戻る
国会議員の忙しさを表現するのに「金帰火来」という言葉がある。週末に選挙区に帰って週明けに東京に来ることを毎週繰り返す、という意味だが、金城さんの日程はこれに似ている。ほぼ毎週、金曜発で全国各地に指導に出かけ、週明けに沖縄に帰ることを繰り返すから、議員とは逆の「金来火帰」。一時の三線ブームは落ち着いたと言われているが、少なくとも金城さんの多忙ぶりを見る限り、そういう話でもないような気がしてくる。
金城さんはいま、沖縄の1教室を含めて、全国に教室を6つ抱えている。
京都出身のある女性が、沖縄にいた時に金城さんに三線を習い、京都に戻った後、「通信教育で教えてほしい」と言われたのが本土在住者への三線指導のきっかけ。この女性が演奏をカセットに吹き込んで沖縄に送り、それを金城さんが聞いて電話で指導する「通信教育」だった。次いで金沢に住む人にも同様に2年間、通信教育をした。
「カセットを聞けば、音の出し方に問題があることがすぐ分かるんですよ。三線に関心を持っている人が目の前にいて、しかも、おかしな演奏の仕方をしていると分かれば、放っておけないじゃないですか」
旅好きの金城さんは、「温泉があって、酒がおいしい」金沢に、気分転換に出かけ、初めてその人に会った。当初は金沢旅行を時々楽しむついでに三線を指導するくらいのつもりだったが、三線指導を希望する沖縄出身者や大学生が金沢にいたこともあり、そうした人々を母体に、やがて教室に発展していった。
金城さんの「本業」は父の代からの三線製作。もちろん今も三線を作り続けている。県内の客が中心だが、本土からの注文も増えた。ある時、鎌倉の三線サークルから5、6丁のまとまった注文が入ったので、納品の際に弾き方を指導した。
「おかしなクセがついていたので、それを直してあげたんです」
夜の飲み会の席で、金城さんが即席ライブをやったところ、ぜひ教えに来てほしい、という話になり、鎌倉教室が始まった。
金沢教室の教え子の1人が仙台に転居したことがきっかけで、やがて仙台教室が始まった。大阪の教え子の1人が札幌に転勤し、それと前後して札幌の別の人から三線の注文が入って、これが札幌教室になった。というような具合で、いもづる式に三線教室が広がっていった。
金曜に出かけると、ほぼ毎日、7、8時間は歌いっぱなし。一つの場所で、普通クラスのほかに初級クラスや中級クラスがあり、それらが終わると、夜は何人かの個人指導が待っている。
「火曜日だけは一切歌わないようにして、のどを休めています」と金城さん。もちろん、地元沖縄でも三線教室を持ち、県内の専門学校の作業療法学科でも歌三線を教えているから、火曜日以外はほぼ連日、民謡を歌い続けていることになる。それにしても、この腰の軽さは尋常ではない。なぜ?
「若い頃は、旅行業志望だったんです」
続きは3/6(日)に。
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(上)
三線を弾きながら沖縄民謡を歌って楽しむ人が全国的に増えている。全国を飛び回って「歌三線(うたさんしん)」を指導している金城盛長さんに話を聞いた。
金城さんは、めっぽう忙しい。本土の三線教室での出張指導が定期的に入っているからだ。例えば、ことし1月の動きなこんな調子だった。
1/ 7(金)名古屋で指導
1/ 8(土)鎌倉で指導
1/ 9(日)鎌倉で指導
1/10(月)鎌倉で指導
1/11(火)沖縄に戻る
1/14(金)大阪で指導
1/15(土)仙台で指導
1/16(日)沖縄に戻る
1/21(金)東京で指導
1/22(土)藤沢で指導
1/23(日)札幌で指導
1/24(月)沖縄に戻る
国会議員の忙しさを表現するのに「金帰火来」という言葉がある。週末に選挙区に帰って週明けに東京に来ることを毎週繰り返す、という意味だが、金城さんの日程はこれに似ている。ほぼ毎週、金曜発で全国各地に指導に出かけ、週明けに沖縄に帰ることを繰り返すから、議員とは逆の「金来火帰」。一時の三線ブームは落ち着いたと言われているが、少なくとも金城さんの多忙ぶりを見る限り、そういう話でもないような気がしてくる。
金城さんはいま、沖縄の1教室を含めて、全国に教室を6つ抱えている。
京都出身のある女性が、沖縄にいた時に金城さんに三線を習い、京都に戻った後、「通信教育で教えてほしい」と言われたのが本土在住者への三線指導のきっかけ。この女性が演奏をカセットに吹き込んで沖縄に送り、それを金城さんが聞いて電話で指導する「通信教育」だった。次いで金沢に住む人にも同様に2年間、通信教育をした。
「カセットを聞けば、音の出し方に問題があることがすぐ分かるんですよ。三線に関心を持っている人が目の前にいて、しかも、おかしな演奏の仕方をしていると分かれば、放っておけないじゃないですか」
旅好きの金城さんは、「温泉があって、酒がおいしい」金沢に、気分転換に出かけ、初めてその人に会った。当初は金沢旅行を時々楽しむついでに三線を指導するくらいのつもりだったが、三線指導を希望する沖縄出身者や大学生が金沢にいたこともあり、そうした人々を母体に、やがて教室に発展していった。
金城さんの「本業」は父の代からの三線製作。もちろん今も三線を作り続けている。県内の客が中心だが、本土からの注文も増えた。ある時、鎌倉の三線サークルから5、6丁のまとまった注文が入ったので、納品の際に弾き方を指導した。
「おかしなクセがついていたので、それを直してあげたんです」
夜の飲み会の席で、金城さんが即席ライブをやったところ、ぜひ教えに来てほしい、という話になり、鎌倉教室が始まった。
金沢教室の教え子の1人が仙台に転居したことがきっかけで、やがて仙台教室が始まった。大阪の教え子の1人が札幌に転勤し、それと前後して札幌の別の人から三線の注文が入って、これが札幌教室になった。というような具合で、いもづる式に三線教室が広がっていった。
金曜に出かけると、ほぼ毎日、7、8時間は歌いっぱなし。一つの場所で、普通クラスのほかに初級クラスや中級クラスがあり、それらが終わると、夜は何人かの個人指導が待っている。
「火曜日だけは一切歌わないようにして、のどを休めています」と金城さん。もちろん、地元沖縄でも三線教室を持ち、県内の専門学校の作業療法学科でも歌三線を教えているから、火曜日以外はほぼ連日、民謡を歌い続けていることになる。それにしても、この腰の軽さは尋常ではない。なぜ?
「若い頃は、旅行業志望だったんです」
続きは3/6(日)に。