歌三線
2011年03月06日
フォルクローレで沖縄民謡にめざめる
沖縄を創る人 第10回
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。
2011年02月27日
「金来火帰」で歌三線を出張指導
沖縄を創る人 第9回
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(上)
三線を弾きながら沖縄民謡を歌って楽しむ人が全国的に増えている。全国を飛び回って「歌三線(うたさんしん)」を指導している金城盛長さんに話を聞いた。
金城さんは、めっぽう忙しい。本土の三線教室での出張指導が定期的に入っているからだ。例えば、ことし1月の動きなこんな調子だった。
1/ 7(金)名古屋で指導
1/ 8(土)鎌倉で指導
1/ 9(日)鎌倉で指導
1/10(月)鎌倉で指導
1/11(火)沖縄に戻る
1/14(金)大阪で指導
1/15(土)仙台で指導
1/16(日)沖縄に戻る
1/21(金)東京で指導
1/22(土)藤沢で指導
1/23(日)札幌で指導
1/24(月)沖縄に戻る
国会議員の忙しさを表現するのに「金帰火来」という言葉がある。週末に選挙区に帰って週明けに東京に来ることを毎週繰り返す、という意味だが、金城さんの日程はこれに似ている。ほぼ毎週、金曜発で全国各地に指導に出かけ、週明けに沖縄に帰ることを繰り返すから、議員とは逆の「金来火帰」。一時の三線ブームは落ち着いたと言われているが、少なくとも金城さんの多忙ぶりを見る限り、そういう話でもないような気がしてくる。
金城さんはいま、沖縄の1教室を含めて、全国に教室を6つ抱えている。
京都出身のある女性が、沖縄にいた時に金城さんに三線を習い、京都に戻った後、「通信教育で教えてほしい」と言われたのが本土在住者への三線指導のきっかけ。この女性が演奏をカセットに吹き込んで沖縄に送り、それを金城さんが聞いて電話で指導する「通信教育」だった。次いで金沢に住む人にも同様に2年間、通信教育をした。
「カセットを聞けば、音の出し方に問題があることがすぐ分かるんですよ。三線に関心を持っている人が目の前にいて、しかも、おかしな演奏の仕方をしていると分かれば、放っておけないじゃないですか」
旅好きの金城さんは、「温泉があって、酒がおいしい」金沢に、気分転換に出かけ、初めてその人に会った。当初は金沢旅行を時々楽しむついでに三線を指導するくらいのつもりだったが、三線指導を希望する沖縄出身者や大学生が金沢にいたこともあり、そうした人々を母体に、やがて教室に発展していった。
金城さんの「本業」は父の代からの三線製作。もちろん今も三線を作り続けている。県内の客が中心だが、本土からの注文も増えた。ある時、鎌倉の三線サークルから5、6丁のまとまった注文が入ったので、納品の際に弾き方を指導した。
「おかしなクセがついていたので、それを直してあげたんです」
夜の飲み会の席で、金城さんが即席ライブをやったところ、ぜひ教えに来てほしい、という話になり、鎌倉教室が始まった。
金沢教室の教え子の1人が仙台に転居したことがきっかけで、やがて仙台教室が始まった。大阪の教え子の1人が札幌に転勤し、それと前後して札幌の別の人から三線の注文が入って、これが札幌教室になった。というような具合で、いもづる式に三線教室が広がっていった。
金曜に出かけると、ほぼ毎日、7、8時間は歌いっぱなし。一つの場所で、普通クラスのほかに初級クラスや中級クラスがあり、それらが終わると、夜は何人かの個人指導が待っている。
「火曜日だけは一切歌わないようにして、のどを休めています」と金城さん。もちろん、地元沖縄でも三線教室を持ち、県内の専門学校の作業療法学科でも歌三線を教えているから、火曜日以外はほぼ連日、民謡を歌い続けていることになる。それにしても、この腰の軽さは尋常ではない。なぜ?
「若い頃は、旅行業志望だったんです」
続きは3/6(日)に。
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(上)
三線を弾きながら沖縄民謡を歌って楽しむ人が全国的に増えている。全国を飛び回って「歌三線(うたさんしん)」を指導している金城盛長さんに話を聞いた。
金城さんは、めっぽう忙しい。本土の三線教室での出張指導が定期的に入っているからだ。例えば、ことし1月の動きなこんな調子だった。
1/ 7(金)名古屋で指導
1/ 8(土)鎌倉で指導
1/ 9(日)鎌倉で指導
1/10(月)鎌倉で指導
1/11(火)沖縄に戻る
1/14(金)大阪で指導
1/15(土)仙台で指導
1/16(日)沖縄に戻る
1/21(金)東京で指導
1/22(土)藤沢で指導
1/23(日)札幌で指導
1/24(月)沖縄に戻る
国会議員の忙しさを表現するのに「金帰火来」という言葉がある。週末に選挙区に帰って週明けに東京に来ることを毎週繰り返す、という意味だが、金城さんの日程はこれに似ている。ほぼ毎週、金曜発で全国各地に指導に出かけ、週明けに沖縄に帰ることを繰り返すから、議員とは逆の「金来火帰」。一時の三線ブームは落ち着いたと言われているが、少なくとも金城さんの多忙ぶりを見る限り、そういう話でもないような気がしてくる。
金城さんはいま、沖縄の1教室を含めて、全国に教室を6つ抱えている。
京都出身のある女性が、沖縄にいた時に金城さんに三線を習い、京都に戻った後、「通信教育で教えてほしい」と言われたのが本土在住者への三線指導のきっかけ。この女性が演奏をカセットに吹き込んで沖縄に送り、それを金城さんが聞いて電話で指導する「通信教育」だった。次いで金沢に住む人にも同様に2年間、通信教育をした。
「カセットを聞けば、音の出し方に問題があることがすぐ分かるんですよ。三線に関心を持っている人が目の前にいて、しかも、おかしな演奏の仕方をしていると分かれば、放っておけないじゃないですか」
旅好きの金城さんは、「温泉があって、酒がおいしい」金沢に、気分転換に出かけ、初めてその人に会った。当初は金沢旅行を時々楽しむついでに三線を指導するくらいのつもりだったが、三線指導を希望する沖縄出身者や大学生が金沢にいたこともあり、そうした人々を母体に、やがて教室に発展していった。
金城さんの「本業」は父の代からの三線製作。もちろん今も三線を作り続けている。県内の客が中心だが、本土からの注文も増えた。ある時、鎌倉の三線サークルから5、6丁のまとまった注文が入ったので、納品の際に弾き方を指導した。
「おかしなクセがついていたので、それを直してあげたんです」
夜の飲み会の席で、金城さんが即席ライブをやったところ、ぜひ教えに来てほしい、という話になり、鎌倉教室が始まった。
金沢教室の教え子の1人が仙台に転居したことがきっかけで、やがて仙台教室が始まった。大阪の教え子の1人が札幌に転勤し、それと前後して札幌の別の人から三線の注文が入って、これが札幌教室になった。というような具合で、いもづる式に三線教室が広がっていった。
金曜に出かけると、ほぼ毎日、7、8時間は歌いっぱなし。一つの場所で、普通クラスのほかに初級クラスや中級クラスがあり、それらが終わると、夜は何人かの個人指導が待っている。
「火曜日だけは一切歌わないようにして、のどを休めています」と金城さん。もちろん、地元沖縄でも三線教室を持ち、県内の専門学校の作業療法学科でも歌三線を教えているから、火曜日以外はほぼ連日、民謡を歌い続けていることになる。それにしても、この腰の軽さは尋常ではない。なぜ?
「若い頃は、旅行業志望だったんです」
続きは3/6(日)に。