沖縄民謡
2013年12月02日
民謡でちゅううがなびら、に出演します
またまた勝連城歴史ロマンにお休みしてもらい、ちょっとお知らせを。
みなさん、沖縄の最長寿ラジオ番組って、ご存知ですか。RBCラジオ毎日午後3時からの1時間番組「民謡でちゅううがなびら(民謡で今日拝なびら)」がそれ。画像をRBCのホームページから拝借しました。
リスナーからリクエストされた沖縄民謡をパーソナリティの上原直彦さんが紹介しながらおしゃべりするこの番組、放送開始は1963年ですから、ことしで実に50年。たいへんな長寿番組なんです。
車でラジオを聞きながら移動するのが日常の沖縄県民ならだれでも知っている番組。
「ちゅう、うがなびら」はそのまま訳せば「きょう、お目にかかります」という意味ですが、目上の人に使うていねいなあいさつ言葉です。
その長寿番組に、万鐘ももと庵店主の小山敦史が出演することになりました。今週の金曜日、12/6(金)です。毎週、金曜日はさまざまなゲストがスタジオに招かれ、上原直彦さんとおしゃべりする時間になっています。
万鐘が創立10周年を記念して制作した、南が上の南向きアジア地図「アジアの世紀」のことなどについてお話しする予定です。
沖縄県内にいる方は、12/6(金)午後3時、ぜひAM738のRBCラジオにチューニングして下さいね。
この長寿番組、なんと、全国でも聞けるんです。短波放送のラジオNIKKEIの第一放送で、少し時間が遅れてですが、毎日、放送されています。
短波ラジオは持っていないよ、という方も多いでしょう。はい、ラジオはなくても大丈夫です。
インターネットラジオの「ラジコ radiko」を使うと、スマートフォンやタブレット、パソコンでもラジオNIKKEIが聞けるんですね。なんとも便利な世の中になったもんです。スマホ、タブレット用にはラジコのアプリも用意されています。
ラジオNIKKEIの放送時間は少し遅くて、同日、12/6(金)の午後7時から。
12/6(金)午後7時に、お手持ちのスマホ、タブレット、パソコンでラジコに飛び、ラジオNIKKEI第一を選べば、たちまち沖縄民謡が流れてきますよ。
どうぞお楽しみに。
みなさん、沖縄の最長寿ラジオ番組って、ご存知ですか。RBCラジオ毎日午後3時からの1時間番組「民謡でちゅううがなびら(民謡で今日拝なびら)」がそれ。画像をRBCのホームページから拝借しました。
リスナーからリクエストされた沖縄民謡をパーソナリティの上原直彦さんが紹介しながらおしゃべりするこの番組、放送開始は1963年ですから、ことしで実に50年。たいへんな長寿番組なんです。
車でラジオを聞きながら移動するのが日常の沖縄県民ならだれでも知っている番組。
「ちゅう、うがなびら」はそのまま訳せば「きょう、お目にかかります」という意味ですが、目上の人に使うていねいなあいさつ言葉です。
その長寿番組に、万鐘ももと庵店主の小山敦史が出演することになりました。今週の金曜日、12/6(金)です。毎週、金曜日はさまざまなゲストがスタジオに招かれ、上原直彦さんとおしゃべりする時間になっています。
万鐘が創立10周年を記念して制作した、南が上の南向きアジア地図「アジアの世紀」のことなどについてお話しする予定です。
沖縄県内にいる方は、12/6(金)午後3時、ぜひAM738のRBCラジオにチューニングして下さいね。
この長寿番組、なんと、全国でも聞けるんです。短波放送のラジオNIKKEIの第一放送で、少し時間が遅れてですが、毎日、放送されています。
短波ラジオは持っていないよ、という方も多いでしょう。はい、ラジオはなくても大丈夫です。
インターネットラジオの「ラジコ radiko」を使うと、スマートフォンやタブレット、パソコンでもラジオNIKKEIが聞けるんですね。なんとも便利な世の中になったもんです。スマホ、タブレット用にはラジコのアプリも用意されています。
ラジオNIKKEIの放送時間は少し遅くて、同日、12/6(金)の午後7時から。
12/6(金)午後7時に、お手持ちのスマホ、タブレット、パソコンでラジコに飛び、ラジオNIKKEI第一を選べば、たちまち沖縄民謡が流れてきますよ。
どうぞお楽しみに。
2011年03月06日
フォルクローレで沖縄民謡にめざめる
沖縄を創る人 第10回
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。
三味線製作所代表・三線教室主宰 金城盛長さん(中)
毎週のように本土各地に出かけ、5カ所の三線教室で出張指導している金城盛長さんは、若い頃、旅行業を志望していた。それほどの「旅好き」だからこそ、今やっている出張指導の激しい動きが、あまり苦にならない。
高校を卒業した後に上京。東京にある旅行業の専門学校で学び、卒業後に旅行会社を受験した。面接した旅行会社のある部長は、若い頃にインドやイギリスを旅した経験があった。金城さんも、一度海外に出てみたいと思っていた。
「やりたいことがあるんなら、やってこいよ、その後でまた来たらいいよ、とその部長が言ってくれたんです」
そこで金城さんは、興味を抱いていた中南米の旅に半年間、出かけた。1984年のこと。メキシコ、グアテマラなどを経て、ペルー、ボリビアなどを歩いた。
ペルーのクスコから、インカ遺跡のマチュピチュに向かう電車に乗った時のことだった。民族楽器のチャランゴを持った青年が乗り込んできて、フォルクローレを歌い始めた。どうやら観光客相手に演奏している青年らしかった。
明るいけれど、どこかもの悲しいアンデスの響き。10弦のチャランゴの音色とフォルクローレの歌声が金城さんの体にしみ込んできた。なぜか無性に「音楽をやりたい」と思った。その時ー。
「突然、おやじの顔が浮かんできたんです」
父は、那覇市松山で三線製作所を構え、三線の稽古もしていた。だから、金城さんがものごごろついた時から、家の中には常に歌三線が響いていた。
しかし金城さん自身は、子供の頃、民謡にあまり関心を向けることはなかった。特に反発していたというわけではなかったが、父が稽古をしている時はその音を避けるように外に出ていき、稽古が終わった頃に帰ってくるような少年だった。父も強いて民謡を本格的にさせることはなかった。
それでも、歌三線の中で育ったから、調弦(チンダミ)はできたし、踊りのカチャーシーの早弾き曲「唐船(トウシン)ドーイ」くらいは弾けた。高校卒業後、東京に出た時も、父は三線を持たせた。だが、その三線も、東京ではほとんど弾くことがなかったから、やがて皮が破けてしまった。
三線に貼られている蛇の皮は、時間が経つと自然に膠着して徐々に固くなっていく。ひんぱんに練習していれば、音の微振動によって常に少しずつ伸ばされるため膠着が防げるのだが、弾かずにずっと置いていると、膠着が進み、乾燥した時に真ん中でバッと切れてしまう。
そんな調子だったから、三線を自分でやろうとは考えてもいなかったし、ましてや父の跡を継ごうなどとは全く思ってもいなかった。
だがー。アンデスのフォルクローレを聞いて、音楽をやりたい、と思った時、金城さんにとっての音楽とは、ほかでもない沖縄民謡だった。知らず知らずのうちに、沖縄民謡は金城さんの体じゅうにしみ込んでいたということだろう。
南米の旅を終えた金城さんは早速沖縄に戻り、父について、三線製作と三線の稽古を本格的に始めた。
それから25年あまり。いま全国を出張指導で駆け回っている金城さんは、ライフワークとも呼ぶべき大仕事に取り組もうとしている。
その話は次回3/13(日)に。