測量

2009年08月16日

[第130話 沖縄]  琉球の実測図(下)ー集落課税の副産物か

 ゼンリンの住宅地図ばりの精緻な全琉球測量図を、伊能忠敬の全国測量に半世紀以上先んじて作っていた琉球王府。その狙いは一体何だったのだろうか。

Sokuryo2


Sokuryo1


 その話に入る前に、測量の基準点として使われた「印部石(しるびいし)」の話を少し。印部石は、今もわずかに残されていて、現場で見ることができる。例えば、浦添城跡には「あさと原ス」と彫られた印部石がある。「あさと原」は小字の名で、「ス」は記号。石の上部は欠けているが、「と原」と「ス」の下半分がはっきり分かる。

 このような印部石は間切(まぎり、市町村に相当)ごとに200ー300個ほど設置されたらしい。しかも、これらは将来の再測量の可能性を考慮して、徹底したメンテナンスが王府から各間切に命じられていたという。

 この測量が行なわれたのは、1737年から1750年に実施された乾隆元文検地。乾隆元文検地を主導したのは、琉球王府の歴代高官の中でも傑出した指導力を発揮した蔡温(さいおん)だった。

 蔡温は優れた技術者としても知られる。植林などの分野では中国仕込みの優れた技術を琉球に伝え、王府高官として、その一部を自ら実践した。乾隆元文検地で用いられた測量技術も、同様に中国仕込みだった可能性がある。

 さて、それにしても、こうした精緻な実測地図をなぜ琉球王府は作成したのだろうか。

「琉球王府は、個々の農民ではなく、集落単位で課税していたんです」と話すのは、実測地図の研究を進めている沖縄県立芸大教授の安里進さん。

Sokuryo6


 日本の各藩は、原則として各農家に課税した。豊臣秀吉の太閤検地以来、各世帯の田畑の面積を測って納税の基礎としたが、この場合は、田畑の面積が分かれば課税額が算出できるので、それで充分だった。田畑の正確な位置だとか、集落の形=境界を知る必要はなかったのだ。

 これに対し、琉球は集落を課税単位にした。となれば、ここはウチの村に入る入らない、といった境界争いは激しくならざるをえない。というのも、こうした境界の位置は、集落の課税額に直結するからだ。もちろん課税が個々の農民単位であっても似たような境界争いは起きただろうが、集落単位での争いとなれば、声の大きさや行動力は何十倍、何百倍になる。

 そう言えば、今でも沖縄の農村部では、字=集落単位の団結の強さ、他の字との対抗心が強い。「他シマ」(よそのシマ)という言い方には、そんな対抗心のニュアンスが色濃い。方言も字ごとにだいぶ違う。

 かくして琉球王府は、正確な境界を定める必要に迫られ、ひたすら細かい実測図づくりを実施したのではないか―。安里さんはそんな風に考える。この説は、直接の史料に裏打ちされたものではなく、推測の域を出ないが、説得力はありそうだ。

 日本にもほぼ同じ時期に、同じような測量技術自体はあったことが分かっている。だが、琉球のような「必要」がなかったから、伊能図が現れるまで、日本全体の実測地図が作られることはなかった、ということかもしれない。

 安里さんによると、琉球王府時代の測量と作図をめぐる研究は、まだ緒についたばかり。これから、さらに興味深い研究成果が明らかになるかもしれない。

人気ブログランキング
上のマークをクリックすると、万鐘本店のランキングがアップ。応援クリック、お願いします。

bansyold at 00:00|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2009年08月09日

[第129話 沖縄] 琉球の実測図(上)ー伊能に半世紀先んじて

 今回と次回は、18世紀、琉球王国時代の測量と地図のお話。琉球王府は、ゼンリンの住宅地図も顔負けの詳細な全琉球地図を作成していたことが最近の研究で分かってきた。

 すべて実測に基づく、驚くべき精緻さ。全国測量事業を成し遂げた伊能忠敬より60年以上前に、琉球は、現在とほとんど変わらぬ正確な自画像を描いていた。写真はその一部、現在の那覇市識名付近(出所は後記)。

Sokuryo3


 この研究を中心的に進めている一人、沖縄県立芸術大学教授の安里進さんに話を聞いた。安里さんは、当初、いくつかの市町村(当時は「間切(まぎり)」と呼ばれた)の測量データを記した文書を入手し、これを解読していった。

 文書には、図はなく、例えば田畑の1枚ごとに、大きさと位置が言葉と数字で記されていた。その方法は、基準点になる印部石(しるびいし)を置き、その石から田畑の中心点までの角度と距離を実測。角度については「子下小間少下寄」といった言葉が並んでいたが、解読作業の結果、これは全円360度を384分割し、その1単位を表したものであることが判明した。

 測量ぶりは細かい。例えば、四角くない田なら、土地をいくつかの三角形に分割して正確な形と面積を出し、あぜ道はあぜ道で実測したうえで田の面積から差し引く、といった具合だ。

 安里さんはいくつかの場所について、そのデータを基に、田畑などの配置図を復元した。下の写真はその過程を分かりやすく説明したもの(安里進『考古学からみた琉球史[下]』P.122から、著者の許可を得て転載)。

Sokuryo5


 一番上が安里さんがデータから復元した田畑の配置図。そのうえで、米軍が沖縄戦の準備作業として独自に作成した航空写真に基づく古い地形図(写真の2番目の図)に、復元した田畑の配置図を重ね、土地の形が一致する場所を探した。すると、上図の谷底の田のように、地形図の等高線の形が田の復元配置図にぴたりと一致する場所が見つかった(写真の3番目の図)。

 復元図上で明らかな印部石が、ひょっとしたら今も残っているかもしれない、と安里さんは考えた。だが、350年近くも前の話。とりわけ戦後は、各地でさまざまな開発が行なわれてもいる。

 だが、安里さんは現在の北谷町で、「ここにあるはず」という石が実際に現場に残されているのを見つけた。「まるで古地図から埋蔵金を探しあてたようなこの日の感動を終生忘れることはないだろう」と安里さんは著書に書いている。

Sokuryo4

 
 しかし、実測データに基づいて描かれたはずの肝心の当時の地図は、なかなか見つからなかった。

 それが最近になって、現在の那覇市の一部の地図である「真和志間切針図(まわし・まぎり・はりず)」の部分写真が発見された。それが冒頭の写真だ(安里進「森政三資料の真和志間切針図部分写真」から著者の許可を得て転載。『首里城研究』No.11所収)。

 真和志間切針図をそのまま翻訳すれば「真和志村測量図」。地図には、間切の境界はもちろんのこと、河川、道路、集落、山野、田畑などの位置がはっきり示されていた。境界線や田畑、屋敷などは点と線で細かく縁取られ、測量器で実測した測点と測線を一つひとつ図に落としていた。印部石を表す大きな丸も描かれている。

 一部の測点には針で突き刺した穴が開いており、下絵から図を起こす際、寸分の狂いもないよう、針で刺し写していたことが分かった。この技法は後の伊能図でも用いられている。

 全琉球を回る実測作業も大変だが、それで得た膨大なデータを図化する作業も気が遠くなるような細かい仕事。昨今の沖縄はすっかり「テーゲー(大概)主義」「何ごとについてもアバウト」を自認しているが、もし本当にテーゲー、アバウトだけだったら、このような地図を作り上げられるはずもない。

 明治中期に琉球各地を歩いて「南嶋探検」を著した青森県の探検家笹森儀助も、琉球でこの地図に出会い、その精緻さに驚嘆したとの記録がある。

 それにしても、なぜ、これほど手間もヒマも金もかかる細かい大仕事を琉球王府はやったのか。こうした測量技術、作図技法はどこから学んだのか。疑問は次々に湧いてくる。その話は次回に。

 絶好のタイミングでこの話題のシンポジウム「琉球王国の測量技術と遺産〜印部石(シルビイシ)」が那覇市で8月19日(水)午後6:30から開かれる。講師は田里修沖縄大教授と安里進沖縄県立芸大教授。場所は那覇市久茂地のパレット市民劇場(パレット久茂地9階)。詳細はこちら

人気ブログランキング
上のマークをクリックすると、万鐘本店のランキングがアップ。応援クリック、お願いします。

bansyold at 00:00|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック