至正様式

2012年11月08日

大きな経済力と言われても・・・

 勝連城跡から出土した中国、元の時代の染付。元の染付の高度なデザインについては、前回、紹介しました。

 「陶磁の道」という古典的名著を書いた東洋学者で考古学者の三上次男が、勝連城跡から出土した元染付のかけらを鑑定したところ、その多くは「至正様式」と呼ばれる最高級品であることが確認されました。

Toujinomichi


 21世紀の現代でも、「至正様式の元染付」といえば、ゼロがいくつも並ぶような天文学的な値が世界的につきます。例えば、2005年にロンドンのオークションで元染付の壺が日本円にして30億円で落札された、という記録があります。その時点で、陶磁オークション史上の最高価格だったとのこと。

 15世紀の当時も、それらが大変な高級品であったことは疑いのないところです。

 そういう高級品が出てくるということは、つまり、当時の勝連にはものすごい経済力があったということ。三上次男も論文でそのことに触れています。

 世界に高級品として輸出されていた貴重品である元染付の陶磁を買える人が勝連にはいた、あるいは買える組織が勝連にはあった、ということでしょう。ひょっとしたら、勝連は、そんな海外の高級品が売買される貿易ルート、貿易拠点の一つだった、ということになるのかもしれません。

 昔の、15世紀ころの沖縄は、那覇だけが都市で、それ以外の地域はすべて農村だったというのが通り相場。そんな純農村であったはずの勝連に、世界的にも高級な輸入陶磁器を買えるほどの大きな経済力があった、と言われても、どうもイメージできません。

2 Katsurenjo Mokei


 ただ、よく考えてみると、勝連城という城はかなり立派な城です。あれだけの城があったのですから、それを支える経済力があって、周辺にも、いろいろな立派な施設があったり、人やモノの往来が盛んだったりしたのかもしれません。

 ももと庵のある場所は、勝連城の南風原御門(はえばる・うじょう)から海側に出てすぐ左のところ。反対側の西原御門(にしはら・うじょう)側入口の休憩所に置かれている復元模型で言えば、左側の手前にある門が西原御門、その先の奥にある門が正門だった南風原御門です。

 正門のすぐ前ですから、ももと庵のあたりにも何かあったことは間違いなさそうです。

 何か手がかりでも落ちていないかなあー。

 500年以上前の手がかりが簡単に落ちているはずもないですが、そんなことを思いながら、店の回りを歩いたりしています。

bansyold at 00:00|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック