英語
2011年07月17日
大学入試が変われば、英語を話す人が増える
沖縄を創る人 第27回
サイ・テク・カレッジ那覇主任講師 小波本あゆみさん(下)
専門学校で英語を教える小波本あゆみさんは、沖縄ならではの質問を受けることがある。米軍関係者と結婚した沖縄の女性に共通の悩み、子供を日本の学校に入れるか、基地内の学校に入れるか、という相談だ。
「将来、その子が日本で暮らすか、アメリカで暮らすか、です。日本で生きていくなら日本の学校、アメリカで暮らすなら基地内の学校を勧めます」
言語力は、学校で習うものも大きいが、それと日常生活の言語環境とのギャップに注意しなければならないと小波本さんは言う。
「例えば、米軍基地内の学校を出たとします。そのまま日本社会に入ると、普通の日本人より英語は少しできるけど、日本語は漢字が読めないといった中途半端なことになります。日本社会で生きていくなら、日本の学校の方が力をつけてくれるわけです」
「アメリカで暮らすなら、英語力がつく基地内の学校ということになりますが、基地内の学校を出て英語で勝負しようとしても、米本土に行ったら、ネイティブには太刀打ちできません。やはり米本土に渡って日常の言語環境を英語に切り替え、そのうえで向こうの大学などで本格的に英語力を鍛えないと、あちらでの競争力は得られません」
前回、英語を話す力をつけるのに必要だと小波本さんが強調した「文を組み立てる練習の繰り返し」の最大のものが、実は日常の言語環境なのだ。周囲が日本語でコミュニケーションしていれば、こちらも日本語で話そうと努力し、文を組み立てる訓練を毎日、毎日、自然に繰り返すことになる。基地内の学校といっても、社会環境全体は日本語世界。
逆に、相手が英語ならば英語で文の組み立て訓練を毎日やることになる。
沖縄は本土復帰前、米軍の軍政下にあった。基地内やその周辺で働く人も多かった。米軍人と遭遇し、コミュニケーションする場面は、今よりずっと多かったに違いない。
沖縄のお年寄りの中には、氷水のことを「アイスワーラー」と呼ぶ人がいる。本土復帰前の米軍支配時代に、生きるための英語を体当たりで身につけた世代だ。学校で英語を習ったことが全くなくても、本当に必要ならば相手が何を言っているのかを必死で聞きとり、それをマネする。Ice waterをアメリカ人が発音したら「アイスウォーター」ではなく「アイスワーラー」になるのだ。
いま小学校での英語教育導入が進んでいる。小波本さんに言わせれば、日本社会で育っている子供が、週一回の英語の授業で会話ができるようになるのは無理。
「一番大切なことは、母国語をしっかり身につけてからの外国語の習得であること。自分のアイデンティティの確立のためには、どの言語で自分の気持ちを言語化するかがとても重要です。まれに、きちんと二分化できる人がいますが、多くの人は混乱するか、母国語と外国語がちゃんぽんになってしまうかだと思います」
「小学校での英語教育の最も重要なことは、英語で話すことが恥ずかしくない、という感覚をできるだけ養うこと。自分の伝えたいことを相手に伝えるため、身振り手振りも加えて、一生懸命工夫をすること。つまり、コミュニケーション能力を高めるということです。これは、日本語でのコミュニケーション能力にも繋がってきます」
では、日本人がもう少し英語を話せるようになるのに最も効果的な方法は? 小波本さんは即座に答えた。
「大学入試のあり方を変えること。中学、高校の英語教育は、すべて大学入試につながっていますから」
大学入試が、今のような分析型ではなく、文を組み立てる力をみるタイプのものに変われば、中学高校でもそのようなスキル訓練が重視されるようになるという。
例えば、米国が外国人の英語学習者向けに実施しているTOEFL(トーフル)試験は、高いスキルを要求され、分析力だけでは高得点できない。日本人が苦手な英語試験といわれる。大学入試がそうしたタイプの試験になれば、中学高校の英語教育も焦点がそこに移るはず、と小波本さんはみている。
[小波本あゆみさんとつながる] 小波本さんが勤務するサイ・テク・カレッジ那覇のHPはこちら。小波本さんが教鞭をとっている国際コミュニケーション情報科の説明もある。日本人が苦手とされるTOEFLのHPはこちら。
サイ・テク・カレッジ那覇主任講師 小波本あゆみさん(下)
専門学校で英語を教える小波本あゆみさんは、沖縄ならではの質問を受けることがある。米軍関係者と結婚した沖縄の女性に共通の悩み、子供を日本の学校に入れるか、基地内の学校に入れるか、という相談だ。
「将来、その子が日本で暮らすか、アメリカで暮らすか、です。日本で生きていくなら日本の学校、アメリカで暮らすなら基地内の学校を勧めます」
言語力は、学校で習うものも大きいが、それと日常生活の言語環境とのギャップに注意しなければならないと小波本さんは言う。
「例えば、米軍基地内の学校を出たとします。そのまま日本社会に入ると、普通の日本人より英語は少しできるけど、日本語は漢字が読めないといった中途半端なことになります。日本社会で生きていくなら、日本の学校の方が力をつけてくれるわけです」
「アメリカで暮らすなら、英語力がつく基地内の学校ということになりますが、基地内の学校を出て英語で勝負しようとしても、米本土に行ったら、ネイティブには太刀打ちできません。やはり米本土に渡って日常の言語環境を英語に切り替え、そのうえで向こうの大学などで本格的に英語力を鍛えないと、あちらでの競争力は得られません」
前回、英語を話す力をつけるのに必要だと小波本さんが強調した「文を組み立てる練習の繰り返し」の最大のものが、実は日常の言語環境なのだ。周囲が日本語でコミュニケーションしていれば、こちらも日本語で話そうと努力し、文を組み立てる訓練を毎日、毎日、自然に繰り返すことになる。基地内の学校といっても、社会環境全体は日本語世界。
逆に、相手が英語ならば英語で文の組み立て訓練を毎日やることになる。
沖縄は本土復帰前、米軍の軍政下にあった。基地内やその周辺で働く人も多かった。米軍人と遭遇し、コミュニケーションする場面は、今よりずっと多かったに違いない。
沖縄のお年寄りの中には、氷水のことを「アイスワーラー」と呼ぶ人がいる。本土復帰前の米軍支配時代に、生きるための英語を体当たりで身につけた世代だ。学校で英語を習ったことが全くなくても、本当に必要ならば相手が何を言っているのかを必死で聞きとり、それをマネする。Ice waterをアメリカ人が発音したら「アイスウォーター」ではなく「アイスワーラー」になるのだ。
いま小学校での英語教育導入が進んでいる。小波本さんに言わせれば、日本社会で育っている子供が、週一回の英語の授業で会話ができるようになるのは無理。
「一番大切なことは、母国語をしっかり身につけてからの外国語の習得であること。自分のアイデンティティの確立のためには、どの言語で自分の気持ちを言語化するかがとても重要です。まれに、きちんと二分化できる人がいますが、多くの人は混乱するか、母国語と外国語がちゃんぽんになってしまうかだと思います」
「小学校での英語教育の最も重要なことは、英語で話すことが恥ずかしくない、という感覚をできるだけ養うこと。自分の伝えたいことを相手に伝えるため、身振り手振りも加えて、一生懸命工夫をすること。つまり、コミュニケーション能力を高めるということです。これは、日本語でのコミュニケーション能力にも繋がってきます」
では、日本人がもう少し英語を話せるようになるのに最も効果的な方法は? 小波本さんは即座に答えた。
「大学入試のあり方を変えること。中学、高校の英語教育は、すべて大学入試につながっていますから」
大学入試が、今のような分析型ではなく、文を組み立てる力をみるタイプのものに変われば、中学高校でもそのようなスキル訓練が重視されるようになるという。
例えば、米国が外国人の英語学習者向けに実施しているTOEFL(トーフル)試験は、高いスキルを要求され、分析力だけでは高得点できない。日本人が苦手な英語試験といわれる。大学入試がそうしたタイプの試験になれば、中学高校の英語教育も焦点がそこに移るはず、と小波本さんはみている。
[小波本あゆみさんとつながる] 小波本さんが勤務するサイ・テク・カレッジ那覇のHPはこちら。小波本さんが教鞭をとっている国際コミュニケーション情報科の説明もある。日本人が苦手とされるTOEFLのHPはこちら。
2011年07月10日
日本人が英語を話せない3つの理由
沖縄を創る人 第26回
サイ・テク・カレッジ那覇主任講師 小波本あゆみさん(上)
米軍基地の存在で、本土よりも「英語が身近にある」とされる沖縄。でも、英語が話せる県民はごくわずか。なぜだろうか。専門学校で長年英語教育を続けてきた小波本あゆみさんに聞いた。
小波本さんは、短大の英語科を出た後、ハワイの大学に2年間留学。沖縄に戻ってからは専門学校でずっと英語を教えてきた。その途中で小学校の英語指導員(JTE)も経験した。現在は那覇市の専門学校、南星学園サイ・テク・カレッジ那覇の国際コミュニケーション情報科で教鞭をとる。
小波本さんによると、多くの人が英語を話せない理由は3つある。
第1は、なんといっても「恥ずかしい」という気持ち。
「日本人の多くは、もし間違っていたらどうしよう、恥ずかしい、とつい考えてしまいます」と小波本さんは言う。
小波本さん自身、ハワイ留学時代、アメリカの学生らが、あまり内容のないことでもどんどん話そうとするのを見て、恥ずかしがりの自分を自覚したという。恥ずかしさを意識してしまったら、言葉が出てこなくなるのは当然。高い場所に上って、下を見たとたんに足がすくむようなものだろう。
「内気で恥ずかしがり屋の日本人」を克服しようとすれば、そうした感情を意識的にフタをするしかなさそうだ。清水の舞台から飛び降りる、という言葉もある。
「発音のまずさ、を気にする人も多いですが、英語の発音にもいろいろあります。TOEIC(トーイック)のテストでも、アメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語をわざと混ぜているくらいです。日本語なまりを気にしてはいけません」
さて、英語がうまく話せない理由の第2は、言葉の並べ方としての文法を知らないこと。文法は、学校である程度は教えてくれるから、学校優等生ならばそこそこ分かっているかもしれない。
「でも普通の生徒の多くは、heの時はis、過去ならwasと、個々の事項をバラバラに記憶しているだけ。条件反射のようなものです」
小波本さんが専門学校生に、be動詞とは何か、どう変化するか、を体系的に教えると、「初めて分かった」と納得する学生がたくさんいるという。
いよいよトリ、第3の理由にいこう。それは、英文の組み立て訓練の圧倒的な不足、だ。第1、第2の問題までクリアできたとしても、これができないために話せない人がたくさんいるという。
「学校は、さまざまな形で英語を分析してみせます。テストもそういう力を問います。しかし、分析を何回繰り返しても、話す力、つまり文を作る力はつきません。文を作る力は、文を作る訓練を繰り返すことでしかつかないんです」
確かに、学校の英語教育に大きな影響を与えている大学入試も、伝統的に、分析的なもの、分析力を問うものが多いようだ。
しかし、話せるようになるには、実際に文を作ってみることを繰り返し、スキルをつけるしかない。よく考えてみれば、これも当たり前のことかも。
スポーツの世界で考えるとすぐ分かる。例えば、ビデオで相手チームの動きをいくら完璧に分析できたとしても、実際に自分たちが体を動かして何度も何度も練習を繰り返し、グラウンドやコートに立った時の力をつけなければ、勝てるわけがない。
小波本さんに言わせれば、日本の学校の英語教育は、体を動かす練習をほとんどしないで、ビデオ分析ばかりやっていることになる。だから、相当の学校優等生でも、英文法には詳しいが一言も話せない、という人がたくさんいるのだ。
「話す力は、アナリシス(分析)する力ではなく、クリエーション(創造)する力なんです」
小波本さんの話をまとめると、どうすれば英語が話せるようになるかが見えてきそうだ。まず「間違ったらどうしよう」という羞恥心に意識的にフタをすること。次に、単語の並べ方である文法をひととおり体系的に理解すること。さらに、そうした文法理解の上に立って、英文を組み立てる作文練習を何度も何度も繰り返し、実際に英文を組み立てる力をつけること。3番目は、訓練、練習なので、ある程度の時間がかかる。
「語彙の不足」もよく指摘されるが、どうだろうか。
「作文練習を繰り返すと語彙が増えていきますよ。例えば簡単な日記を英語で書いてみる。ゲームの話でも、その日の体調の話でもいいですから、これは英語で何て言うのかな、と辞書で調べながら書く。そうすれば、学校では習わないけれど、生活に顔を出すさまざまな単語を英語で書くことになります」
原発も放射能も、便秘も下痢も、キクもガジュマルも、おそらく学校では教えない。でもこれらの単語を使わずに暮らすことは不可能。英語日記を書けば、日常に登場する言葉を次々に英語にしなければならない。辞書を引き引き、そんな語彙がどんどん増えていくという寸法だ。
続きは次回7/17(日)に。
サイ・テク・カレッジ那覇主任講師 小波本あゆみさん(上)
米軍基地の存在で、本土よりも「英語が身近にある」とされる沖縄。でも、英語が話せる県民はごくわずか。なぜだろうか。専門学校で長年英語教育を続けてきた小波本あゆみさんに聞いた。
小波本さんは、短大の英語科を出た後、ハワイの大学に2年間留学。沖縄に戻ってからは専門学校でずっと英語を教えてきた。その途中で小学校の英語指導員(JTE)も経験した。現在は那覇市の専門学校、南星学園サイ・テク・カレッジ那覇の国際コミュニケーション情報科で教鞭をとる。
小波本さんによると、多くの人が英語を話せない理由は3つある。
第1は、なんといっても「恥ずかしい」という気持ち。
「日本人の多くは、もし間違っていたらどうしよう、恥ずかしい、とつい考えてしまいます」と小波本さんは言う。
小波本さん自身、ハワイ留学時代、アメリカの学生らが、あまり内容のないことでもどんどん話そうとするのを見て、恥ずかしがりの自分を自覚したという。恥ずかしさを意識してしまったら、言葉が出てこなくなるのは当然。高い場所に上って、下を見たとたんに足がすくむようなものだろう。
「内気で恥ずかしがり屋の日本人」を克服しようとすれば、そうした感情を意識的にフタをするしかなさそうだ。清水の舞台から飛び降りる、という言葉もある。
「発音のまずさ、を気にする人も多いですが、英語の発音にもいろいろあります。TOEIC(トーイック)のテストでも、アメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語をわざと混ぜているくらいです。日本語なまりを気にしてはいけません」
さて、英語がうまく話せない理由の第2は、言葉の並べ方としての文法を知らないこと。文法は、学校である程度は教えてくれるから、学校優等生ならばそこそこ分かっているかもしれない。
「でも普通の生徒の多くは、heの時はis、過去ならwasと、個々の事項をバラバラに記憶しているだけ。条件反射のようなものです」
小波本さんが専門学校生に、be動詞とは何か、どう変化するか、を体系的に教えると、「初めて分かった」と納得する学生がたくさんいるという。
いよいよトリ、第3の理由にいこう。それは、英文の組み立て訓練の圧倒的な不足、だ。第1、第2の問題までクリアできたとしても、これができないために話せない人がたくさんいるという。
「学校は、さまざまな形で英語を分析してみせます。テストもそういう力を問います。しかし、分析を何回繰り返しても、話す力、つまり文を作る力はつきません。文を作る力は、文を作る訓練を繰り返すことでしかつかないんです」
確かに、学校の英語教育に大きな影響を与えている大学入試も、伝統的に、分析的なもの、分析力を問うものが多いようだ。
しかし、話せるようになるには、実際に文を作ってみることを繰り返し、スキルをつけるしかない。よく考えてみれば、これも当たり前のことかも。
スポーツの世界で考えるとすぐ分かる。例えば、ビデオで相手チームの動きをいくら完璧に分析できたとしても、実際に自分たちが体を動かして何度も何度も練習を繰り返し、グラウンドやコートに立った時の力をつけなければ、勝てるわけがない。
小波本さんに言わせれば、日本の学校の英語教育は、体を動かす練習をほとんどしないで、ビデオ分析ばかりやっていることになる。だから、相当の学校優等生でも、英文法には詳しいが一言も話せない、という人がたくさんいるのだ。
「話す力は、アナリシス(分析)する力ではなく、クリエーション(創造)する力なんです」
小波本さんの話をまとめると、どうすれば英語が話せるようになるかが見えてきそうだ。まず「間違ったらどうしよう」という羞恥心に意識的にフタをすること。次に、単語の並べ方である文法をひととおり体系的に理解すること。さらに、そうした文法理解の上に立って、英文を組み立てる作文練習を何度も何度も繰り返し、実際に英文を組み立てる力をつけること。3番目は、訓練、練習なので、ある程度の時間がかかる。
「語彙の不足」もよく指摘されるが、どうだろうか。
「作文練習を繰り返すと語彙が増えていきますよ。例えば簡単な日記を英語で書いてみる。ゲームの話でも、その日の体調の話でもいいですから、これは英語で何て言うのかな、と辞書で調べながら書く。そうすれば、学校では習わないけれど、生活に顔を出すさまざまな単語を英語で書くことになります」
原発も放射能も、便秘も下痢も、キクもガジュマルも、おそらく学校では教えない。でもこれらの単語を使わずに暮らすことは不可能。英語日記を書けば、日常に登場する言葉を次々に英語にしなければならない。辞書を引き引き、そんな語彙がどんどん増えていくという寸法だ。
続きは次回7/17(日)に。
2011年06月19日
父娘の歴史が交錯する米軍基地を眼下に
沖縄を創る人 第23回
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。
あやかりの杜図書館司書 玉城留美さん(下)
あやかりの杜図書館司書の玉城留美さんは、アメリカの長距離電話会社AT&Tの沖縄営業所に14年間勤務していた。主なクライアントは米軍の軍人。加入契約をとりつけるための販促キャンペーンによく出かけた。
「例えば、うるま市のホワイトビーチに軍艦が入港したら、出かけて行って、上陸する軍人たちに『家族に20分無料で電話できますよ』と、ミリタリーディスカウント商品の契約を勧誘するんです」
軍艦に乗っていると長い間家族と話ができないから、軍人は、上陸した時、家族に電話したいと思っている。無料のホットドックなどを用意し、NTTドコモから携帯の端末を借りて、沖合停泊中の軍艦から小型ボートで上陸してくる船員たちに、港で無料通話を勧めた。大きな船だと1000人規模の乗組員がいるから、マーケットとして大きい。
玉城さんのいた沖縄市のオフィスは、全盛期にはアメリカ人30人に日本人2人といった構成。仕事は、会話も文書もすべて英語の世界だった。
「父が嘉手納基地でコンピューターのメンテナンスの仕事をしていた関係で、家でも時々英語をしゃべることがありました」
父は秋田県、母は沖縄・粟国島の出身。もちろん、父はもともと英語ができたわけではなかった。だが、そんな父の仕事の影響で、英語は身近な存在だった。英英辞典、イディオム集といった普通の家庭にはない本も置かれていた。
「小さい頃は、大人になったら英語は自然に話せるようになるんだろうと漠然と思っていたんです。小学生のある時、いつまでたっても全然しゃぺれるようにならないので、父に聞いたら、父が、何言ってるんだ、おれも必死でやっているんだよ、って」
そこで玉城さんは独学で英語を勉強し始めた。初めは洋画のビデオを借りてきて、一生懸命見た。字幕を読まないようにと紙の帯を貼って隠し、音を聞き取る努力を続けた。十三祝いに父の友人からソニーのウォークマンをもらった。オートリバース機能もついていない頃で、A面からB面に変えるのにカセットをひっくり返しながら、ラジオの語学講座や米軍放送の録音を聴いた。
短大も英語科に進学。
「でも、英語は目的ではありませんでした」。英語は好きだったが、英語教師になろうというように、英語自体を目的にしたことはなかった。
幼い頃からの夢は2つあった。一つは図書館司書。短大の後に専門学校で図書館司書の勉強をして、資格を得た。だが、図書館司書のポストは少ない。すぐに就職することはできなかった。
玉城さんのもう一つの夢は、絵描きになることだった。絵描きでは食べていけないよ、と親に言われて、趣味にとどめることにしたが、今でも絵は大好き。AT&Tの職場の同僚でお話を執筆している人がいて、その彼女の作品「さとしの願いー千羽鶴の伝説」に絵をつけて、共同で絵本を自費出版したこともある。
リーマンショックや通信技術の変化によって、AT&T沖縄営業所の事業規模が縮小されることになったちょうどその頃、あやかりの杜図書館の開設準備ボランティアの募集があった。玉城さんは、勤務時間が短縮されたAT&Tでの仕事と並行して、あやかりの杜図書館の開設準備にボランティアとして携わった。
やがてAT&Tは営業所を閉鎖。玉城さんは、あやかりの杜図書館に司書として勤務することになった。
幼い頃からの夢を実現して、2児の母となった今、図書館で司書として働く玉城さん。あやかりの杜からは、東シナ海、太平洋の青い海に加えて、周囲にある米軍基地の芝生の鮮やかな緑が眼下に広がる。
父娘2代の歴史が交錯する米軍基地を少し距離を置いて眺める場に身を置きながら、玉城さんはいま、インドの図書館学者ランガナタンの「図書館は成長する有機体である」という言葉を改めてかみしめる。自治体財政難のいま、図書館の置かれている現実は厳しい。だが、もし本当に成長することを阻まれてしまったら、公共図書館は存在意義を問われかねない、と玉城さんは思う。
「予算の削減と利用者のニーズの狭間にあって、プロとして恥ずかしくないサービスをしたいと思っています」
[玉城留美さんとつながる] あやかりの杜についてはこちらを。この中に図書館の詳しい説明がある。図書館のほかに、小さな宿泊施設やキャンプ場なども併設されている。絶景の屋上には、軽い食事ができる喫茶室も。