貿易

2013年11月13日

阿摩和利、誕生!

 勝連城の歴史ロマン、第2回は、主役の百十踏揚(ももと・ふみあがり)にちょっと休んでもらい、後に踏揚の夫となる勝連城主の阿摩和利(あまわり)について書きましょう。前回同様、テキストは与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。

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 阿摩和利の幼名は加那(かな)。現在の嘉手納で貧しい農家に私生児として生まれ、生母は「お前の父上様はさる高貴なお方」というナゾめいた言葉を残して、加那5歳の時に若くして没します。

 加那は叔父一家に引き取られますが、ここも極貧。10歳前後で山の中に捨てられ、ついに放浪の身となりました。

 川で魚を獲ったり、草の根を食べて飢えをしのぎながら、放浪を続けた加那。ヤマト(今の日本の本土)に向かう勝連船をあこがれをもって見ていたといいます。

 14歳の時、その勝連に流れ着き、屋慶名(やけな)の港で船子として雇われました(屋慶名は、人気バンドYHのふるさとですね)。

 16歳で初めてヤマト行きの船に乗り、京、鎌倉の華やかさに刺激を受けます。

 勝連に戻った加那は、新しい工夫の漁網を開発するなどして、勝連での名声を高めていきました。やがて勝連城の重臣だった屋慶名親方に目をかけられ、その配下になります。武芸でも才能を見せました。

 当時の勝連城主は茂知附按司(もちづき・あじ)。按司とは、地方のある領域に君臨する豪族、首長のことです。屋慶名親方のお供で茂知附按司に会った加那は、すっかり按司に気に入られ、後継者がいなかった按司から娘婿になるよう促されます。

 茂知附按司は、海賊であり貿易商人でもあった倭冦の出身といわれ、当時の人脈を生かして貿易を振興し、勝連を繁栄に導きました。

 しかし、その繁栄ぶりがやがて奢りを生み、茂知附は次第に、周囲の声を聞こうとしない独裁者になっていきました。晩年は酒びたりの日々だったといいます。

 中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)、越来(ごえく)の尚泰久(しょう・たいきゅう)、江洲(えす)の尚布里(しょう・ふり)。この3者ににらまれ、いつ攻め入られてもおかしくない勝連は、それでも一定の緊張が続きました。

 ところが、首里で国王が相次いで亡くなります。首里が勝連にかまっている余裕がなくなると、勝連の緊張も緩んでいきました。

 ある月夜の晩。月見の宴で茂知附按司はしたたか酒に酔い、家臣が止めるのも聞かず、城壁の上によじ登り、バランスを失って自ら転落死してしまいました。

 既に娘婿として「若按司」と呼ばれていた加那は、茂知附亡き後、勝連の按司となったのでした。

 その際、按司らしい名前を、と屋慶名親方と南風原親方があれこれ考えます。「天から降ってきた若者」との茂知附按司の言葉をヒントに、あまうぃ(天降り)、それをさらに人名らしく「あまわり」とし、「阿摩和利」の字を当てました。

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 20代後半の若さと幼少時代の苦労を原動力に、阿摩和利は按司として激しく働き、勝連の繁栄を推し進めます。貿易のさらなる振興、港湾の整備、農業灌漑用のため池建設、農地の開墾、漁業の振興ー。

 古謡おもろに、次のような意味の歌があります。


 勝連の阿摩和利按司様は、立派な金の御杓(神具、権威の象徴)をお持ちだぞ。
 このことを高らかに告げて、京、鎌倉までも誇ろうぞ。
 肝高の阿摩和利按司様は、島を治める偉大な按司様ぞ、国を治める立派な按司様ぞ(与並岳生「琉球王女・百十踏揚」p.194)



 後の首里王府とのいくさに破れた後、「逆臣」の汚名を着せられた阿摩和利は、琉球王国の正史の中で悪く描かれ続けてきました。

 しかし、おもろに歌われている阿摩和利の功績を讃えるいくつかの歌の存在や、阿摩和利時代のものを含むおびただしい数の海外貿易品の勝連城跡からの出土によって、阿摩和利は勝連を大いに繁栄させ、人々の尊敬を集めた名按司だったとの理解が広がってきました。与並さんの著書も、そのような視点で書かれています。

 与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン楽天セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。


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2007年10月31日

[第22話 南] 南を上にしてアジアを見る

 これまでの万鐘本店の記事分類は「沖縄」「食」「農」の3つだったが、今回から新カテゴリーとして「南」を加える。沖縄は、さらに南の国や地域との間にさまざまな次元の接点を持つ。それらを紹介したり、時には沖縄をすっ飛ばして南そのものの話題もお届けしたい。初回は「南北逆さ地図」のお話。

 グーグルアースを使うと、上空のさまざまな高さから世界を眺めることができる。北朝鮮の核貯蔵施設だって茶の間で簡単に見られるという。そのグーグルアースで、沖縄と東南アジアの一帯をくるりと南北逆さにしてみたのが、この地図だ。

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 まず、奄美、沖縄、宮古、八重山、台湾、中国・福州が、東シナ海を取り囲むようにして、きれいな弧を描いていることがよく分かる。この弧は、北が上の地図でも全く同じはずなのだが、この地図で見ると妙に目立つ。その部分を拡大してみよう。

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 歴史を振り返れば、この弧は、実際にさまざまなつながりを持ってきた。奄美から八重山までの琉球王国の版図内はもちろん、その先の台湾、中国・福州まで、人々の行き来は盛んだった。琉球王国が中国に朝貢する際の窓口は泉州から福州に移り、そこには琉球の大使館の役割を果たす「福州琉球館」が置かれていた。

 現代に目を転じると、経済発展著しい中国は、上海から香港までの沿岸部一帯が、その牽引役を果たしている。うるま市でリムジンを作っている株式会社アミューザが深圳をターゲットにしているという話は第19話で紹介した。中国南部の沿岸地域に焦点を合わせた時、琉球弧が日本の最前線に位置していることが、この地図だとよく分かる。

 初めの逆さ地図に戻って、もう一つ、目に入るのは、台湾、福州の先に大きく広がる南シナ海だろう。環南シナ海の拡大図がこれ。

SouthNorthC

 琉球王国も南シナ海を舞台に、アジアの国々との間で盛んに貿易をしていた。主な貿易の相手国はシャム(タイ)、安南(ベトナム)、ジャワ(インドネシア・ジャワ島)、パレンバン(同・スマトラ島)、マラッカ(マレーシア)、スマトラ(インドネシア・スマトラ島)、パタニ(タイ南部)など。これら南の国々で得たコショウなどを中国に、中国の磁器などを各地に、といった中継貿易をしていた。

 これらの国々はいずれも、明(中国)の朝貢要請に応じる形で、その国際秩序の中で貿易をしていた。初期には、倭冦に手を焼いた明が琉球にその相手をさせようと考えて、数多くの船を与えたり、他国には課した進貢回数の制限を設けないなどの優遇措置をとった結果、琉球はこの貿易ネットワークの中でぐんぐん頭角を現したという。

 白石一郎の歴史小説『怒濤のごとく』に登場する明末期の鄭芝龍も、若き日に長崎、琉球、フィリピン、インドネシア、タイなどをまたにかけた南シナ海の密貿易で財をなした。その鄭芝龍と平戸の日本人妻との間に生まれたのが鄭成功。彼は、清に最後まで抵抗したため中国では英雄視されている、…と、この海域をめぐる話は尽きない。

 南シナ海の地図を見ていると、船を進めるにしたがって安南やマラッカが徐々に近づいてくる感覚になれる。南が下だと、どうもそういう気分になりにくい。だから南を目指す時は、地図をヒョイとひっくり返して「前進」したい。

bansyold at 00:00|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote