韓国
2013年10月20日
聞き比べ、月亮代表我的心
アジア歌手シリーズで少し前に取り上げた蔡琴(ツァイ・チン)の映像を探している時に、心に残るビデオがありました。台湾の国民的英雄として知られる故テレサ・テンの代表曲「月亮代表我的心」を蔡琴が歌っているライブでした。
口ずさめる親しみやすいメロディラインのこの歌、テレサ・テンがまいた種が芽吹いたのか、台湾のみならずアジア各地で愛唱されているようです。
今回は、歌手ではなく、この曲「月亮代表我的心」(ユェリャン・ダイビャオ・ウォディシン、月が私の心を表している)を取り上げ、何人かの歌を聞き比べてみたいと思います。
まず、本家テレサ・テンの月亮代表我的心から見ていただきましょう。声量があるわけではないのですが、この独特の繊細さとなんとも言えない「しっとり感」は、他のだれにも出せないのではないでしょうか。
テレサ・テンは、1970年代、80年代、台湾の国民的歌手であると同時にアジア各国でも絶大な人気を誇った「アジアの歌姫」でした。日本語のヒット曲がありましたし、日本のテレビの歌番組にもよく出ていたので、おなじみですね。
1995年にぜんそく発作のため42歳の若さで滞在先のタイで急逝。台湾政府の決定で、国葬に準ずる公葬が営まれ、国民的英雄の急死を悼む数万の人々が会場を埋め尽くし、その棺は国旗で包まれたそうです。
月亮代表我的心は、たくさんの歌手がカバーしています。日本の歌手も、SMAPが北京公演で歌ったり、夏川りみがアルバム「歌さがしーアジアの風ー」に日本語バージョンを入れたり。
歌詞の日本語訳は、前回もお世話になったBitEx中国語のサイトに全訳が載っていますのでごらん下さい。いつもありがとうございます。
さて、聞き比べ。テレサ・テンのあきれるほど繊細で甘美な歌唱を少しデフォルメして引き継いでいる感じを受けるのが、同じ台湾のベテラン男性歌手、費玉清(フェイ・ユーチン)です。
費玉清は、この曲に限らず、ビロードのような滑らかな声で、ていねいにていねいにメロディを紡いでいきます。30年以上の歌手歴の中で数多くのヒットを生んでいますが、それはまた別の機会に。
費玉清の月亮代表我的心をどうぞ。どこまでも誠実な歌唱です。
アレンジも、どこか懐かしい昭和のタッチですね。
費玉清の歌い方は、何度か出てくる「我愛 wo ai」のところが印象的です。wですぼめた口が滑らかに大きく開いて音が明るさを増すのが、ちょうど音階が上がって盛り上がっていくのときれいに重なるからでしょうか。
次に、アジア実力派歌手のシリーズ第1回で取り上げたマレーシアのシティ・ヌルハリーザ Siti Nurhaliza。彼女も、アルバム「チェリタ・チンタ」(ラブストーリー)の中で中国語の月亮代表我的心をカバーしています。
シティは、台湾の歌手たちとは趣きが違って、東南アジアの正統「声量たっぷり」派。もちろん、歌い回しのうまさもピカイチですが、豊かな声量の彼女が歌うとどうなるか。静止画しか見つかりませんでしたが、お許し下さい。
テレサ・テンを意識したのか、歌い出しからしばらくは、あまり声を出さずに歌い回しの巧みさで進んでいきますが、2分25秒くらいのラストの部分ではシティらしい豊かな声量を聞かせてくれます。
シティの月亮代表我的心は、編曲も歌い方もシャープな印象。なかなか心地よいですね。
最後に、韓国のチュ・ヒョンミのライブ映像をどうぞ。ギター1本の伴奏です。
チュ・ヒョンミは、韓国演歌を歌うベテラン。
テレサ・テンや費玉清とも、シティ・ヌルハリーザとも違う、語りかけるような歌唱。完全に独自の世界を作り上げています。表情もとても豊かですね。
口ずさめる親しみやすいメロディラインのこの歌、テレサ・テンがまいた種が芽吹いたのか、台湾のみならずアジア各地で愛唱されているようです。
今回は、歌手ではなく、この曲「月亮代表我的心」(ユェリャン・ダイビャオ・ウォディシン、月が私の心を表している)を取り上げ、何人かの歌を聞き比べてみたいと思います。
まず、本家テレサ・テンの月亮代表我的心から見ていただきましょう。声量があるわけではないのですが、この独特の繊細さとなんとも言えない「しっとり感」は、他のだれにも出せないのではないでしょうか。
テレサ・テンは、1970年代、80年代、台湾の国民的歌手であると同時にアジア各国でも絶大な人気を誇った「アジアの歌姫」でした。日本語のヒット曲がありましたし、日本のテレビの歌番組にもよく出ていたので、おなじみですね。
1995年にぜんそく発作のため42歳の若さで滞在先のタイで急逝。台湾政府の決定で、国葬に準ずる公葬が営まれ、国民的英雄の急死を悼む数万の人々が会場を埋め尽くし、その棺は国旗で包まれたそうです。
月亮代表我的心は、たくさんの歌手がカバーしています。日本の歌手も、SMAPが北京公演で歌ったり、夏川りみがアルバム「歌さがしーアジアの風ー」に日本語バージョンを入れたり。
歌詞の日本語訳は、前回もお世話になったBitEx中国語のサイトに全訳が載っていますのでごらん下さい。いつもありがとうございます。
さて、聞き比べ。テレサ・テンのあきれるほど繊細で甘美な歌唱を少しデフォルメして引き継いでいる感じを受けるのが、同じ台湾のベテラン男性歌手、費玉清(フェイ・ユーチン)です。
費玉清は、この曲に限らず、ビロードのような滑らかな声で、ていねいにていねいにメロディを紡いでいきます。30年以上の歌手歴の中で数多くのヒットを生んでいますが、それはまた別の機会に。
費玉清の月亮代表我的心をどうぞ。どこまでも誠実な歌唱です。
アレンジも、どこか懐かしい昭和のタッチですね。
費玉清の歌い方は、何度か出てくる「我愛 wo ai」のところが印象的です。wですぼめた口が滑らかに大きく開いて音が明るさを増すのが、ちょうど音階が上がって盛り上がっていくのときれいに重なるからでしょうか。
次に、アジア実力派歌手のシリーズ第1回で取り上げたマレーシアのシティ・ヌルハリーザ Siti Nurhaliza。彼女も、アルバム「チェリタ・チンタ」(ラブストーリー)の中で中国語の月亮代表我的心をカバーしています。
シティは、台湾の歌手たちとは趣きが違って、東南アジアの正統「声量たっぷり」派。もちろん、歌い回しのうまさもピカイチですが、豊かな声量の彼女が歌うとどうなるか。静止画しか見つかりませんでしたが、お許し下さい。
テレサ・テンを意識したのか、歌い出しからしばらくは、あまり声を出さずに歌い回しの巧みさで進んでいきますが、2分25秒くらいのラストの部分ではシティらしい豊かな声量を聞かせてくれます。
シティの月亮代表我的心は、編曲も歌い方もシャープな印象。なかなか心地よいですね。
最後に、韓国のチュ・ヒョンミのライブ映像をどうぞ。ギター1本の伴奏です。
チュ・ヒョンミは、韓国演歌を歌うベテラン。
テレサ・テンや費玉清とも、シティ・ヌルハリーザとも違う、語りかけるような歌唱。完全に独自の世界を作り上げています。表情もとても豊かですね。
2013年08月31日
発酵で激ウマ! 白キムチ
先日お話しした豆乳ふるふるとは別のオリジナル副菜を取り上げます。その名も白キムチ。ベトナム・バッチャン焼きの赤い小皿に少量のせて、お出ししています。
見たところはただの「キャベツの漬け物」。いや、実際、主原料はキャベツなんです。ただ、味つけが日本の普通の漬け物とはだいぶ違っていまして、生姜、ニンニク、タマネギ、ニラが入ります。
それに、ももと庵お得意の魚醤も。韓国のキムチは塩辛類を使うことが多いですが、魚醤の濃い味は、塩辛の味そのものです。
そうそう、乳酸発酵を促すために、ごはんも少し入れていますよ。韓国でもヤンニョムにでんぷんを入れることがありますけど、狙いは同じ。
こうして原材料を並べていくと、これはもう、キムチそのもの。
キムチでなく、白キムチと言っているのは、赤唐辛子を入れないから。唐辛子は辛味のほかにも独特のすばらしい味と香りがありますが、辛いのが苦手というお客さまも多いので、思い切って省きました。
この白キムチを作っているのは、普通に発酵した本来の漬け物のおいしさをぜひ味わっていただきたい、という思いからなんです。
いま日本のスーパーで売られている日本製の漬け物の多くは、発酵していない浅漬けか、発酵した後に味を抜いてから調味料で味つけしたタイプのものです。
もちろん、日本でも、もともと漬け物は普通に発酵したものだったんですが、いつの間にか、そうでない漬け物がほとんどになってしまいました。
以前のブログで書きましたが、韓国はもちろん、東南アジアの国々でも、普通に発酵した漬け物を今もたくさん食べています。
ももと庵の白キムチは、それらと同じく、普通に乳酸発酵している本来の漬け物です。
なので、冷蔵してはいますが、毎日、少しずつ発酵が進みます。発酵が進むと少し酸っぱくなってきますが、それがまたウマい!
発酵が進むと、味がどんどん深くなっていきます。理由はよく分かりませんが、発酵で生まれる味の深さ、鋭さには独特のものがあって、化学調味料ではなかなか出せません。
お持ち帰り用もご用意しています。お好きな方は「ビールのあてに」と買っていかれます。
見たところはただの「キャベツの漬け物」。いや、実際、主原料はキャベツなんです。ただ、味つけが日本の普通の漬け物とはだいぶ違っていまして、生姜、ニンニク、タマネギ、ニラが入ります。
それに、ももと庵お得意の魚醤も。韓国のキムチは塩辛類を使うことが多いですが、魚醤の濃い味は、塩辛の味そのものです。
そうそう、乳酸発酵を促すために、ごはんも少し入れていますよ。韓国でもヤンニョムにでんぷんを入れることがありますけど、狙いは同じ。
こうして原材料を並べていくと、これはもう、キムチそのもの。
キムチでなく、白キムチと言っているのは、赤唐辛子を入れないから。唐辛子は辛味のほかにも独特のすばらしい味と香りがありますが、辛いのが苦手というお客さまも多いので、思い切って省きました。
この白キムチを作っているのは、普通に発酵した本来の漬け物のおいしさをぜひ味わっていただきたい、という思いからなんです。
いま日本のスーパーで売られている日本製の漬け物の多くは、発酵していない浅漬けか、発酵した後に味を抜いてから調味料で味つけしたタイプのものです。
もちろん、日本でも、もともと漬け物は普通に発酵したものだったんですが、いつの間にか、そうでない漬け物がほとんどになってしまいました。
以前のブログで書きましたが、韓国はもちろん、東南アジアの国々でも、普通に発酵した漬け物を今もたくさん食べています。
ももと庵の白キムチは、それらと同じく、普通に乳酸発酵している本来の漬け物です。
なので、冷蔵してはいますが、毎日、少しずつ発酵が進みます。発酵が進むと少し酸っぱくなってきますが、それがまたウマい!
発酵が進むと、味がどんどん深くなっていきます。理由はよく分かりませんが、発酵で生まれる味の深さ、鋭さには独特のものがあって、化学調味料ではなかなか出せません。
お持ち帰り用もご用意しています。お好きな方は「ビールのあてに」と買っていかれます。
2013年01月30日
おかずとごはんがデュエット
アジア米ばなしの締めくくりに、ごはんの食べ方の話をしたいと思います。
日本の場合は、炊いたごはんにみそ汁、主菜、副菜、というのが、「正しいごはん」のイメージですね。アジアの多くでも、炊いたごはんは同じですが、それ以外のお皿構成というか、食べ方がやや違います。
韓国では、ごはん、おつゆとメインのおかずのほかに、キムチなどの小皿がたくさん出てきます。韓国料理店で、例えばメニューに「テンジャンチゲ」とあるので、それを注文すると、主役のテンジャンチゲ、つまり実だくさんのみそ汁のほかに、いろいろな種類のキムチが3、4つ、それに、野菜を煮たものとか、ゆでで味付けしたナムル類などが軽く3、4つは出てきます。
当然ながら、すごい皿数になります。家庭のごはんもそんな感じのようです。韓国北部から南部まで、農村の家庭でごはんをいただいたことがありますが、いずれの場合も、机に並べきれないほどの皿数で驚きました。客人をもてなす意味もあったはずですが、ふだんでもそれなりの皿数になると聞きました。
東南アジアは、また違います。皿数はそれほど多くはありません。でも、おかずがいっぱい、という感じは、韓国に負けていません。白いごはんは同じ。スープも好きな国が多いようですが、日本のように、個々のお椀によそられるのではなく、大鉢に入れられて、各自取り分ける式が多いです。
面白いと思ったのは、ベトナム。ごはんもおかずもスープも大皿、大鉢に入ってきます。個人用に置かれるのはごはん茶碗1個だけ。取り皿も汁碗もなく、茶碗1つですべてを兼用するんです。
まずごはんをよそって、好きなおかずをご飯の上にとって食べます。スープはどうするかと言えば、多くの場合、1杯目のごはんを食べ終わった時に、同じ茶碗にとります。
スープを食べ終わると、再び同じ茶碗に2杯目のごはん。ごはんを2杯で終わる人は、ごはんが半分くらいになったところで、スープを注ぎ、スープごはんで締めくくることも珍しくありません。
冒頭の写真は、ベトナム中部で昼ご飯を食べた時のもの。手前の魚の煮付けに、揚げた豆腐の煮付け、漬け物、それに野菜たっぷりのスープでした。向こうの方で、唯一の各自用食器であるご飯茶碗にごはんをよそっています。
ベトナムでは、若い女性でもごはんをもりもり食べます。日本では、体重を気にしてか、おかずは食べるけど、ごはんはピンポン玉くらいしか食べないという若い女性が増えているという話もありますが、ベトナムでは、華奢な若い女性が、当たり前のようにごはんをお代わりしていました。
アジアの長粒米は、粘りの弱いアミロースでんぷんが多く、日本の米よりもサラッとしています(ただし、韓国は日本と同じ短粒米です)。たくさん食べても胃にもたれません。ということは、おそらくダイエットにも貢献するんじゃないでしょうか。
アジアの食事は、おかずたっぷり。白いごはんはあくまでサラリとしていて出しゃばらず、豊富なおかずと一体になってきれいなデュエットを奏でる役割を見事に演じています。
日本の場合は、炊いたごはんにみそ汁、主菜、副菜、というのが、「正しいごはん」のイメージですね。アジアの多くでも、炊いたごはんは同じですが、それ以外のお皿構成というか、食べ方がやや違います。
韓国では、ごはん、おつゆとメインのおかずのほかに、キムチなどの小皿がたくさん出てきます。韓国料理店で、例えばメニューに「テンジャンチゲ」とあるので、それを注文すると、主役のテンジャンチゲ、つまり実だくさんのみそ汁のほかに、いろいろな種類のキムチが3、4つ、それに、野菜を煮たものとか、ゆでで味付けしたナムル類などが軽く3、4つは出てきます。
当然ながら、すごい皿数になります。家庭のごはんもそんな感じのようです。韓国北部から南部まで、農村の家庭でごはんをいただいたことがありますが、いずれの場合も、机に並べきれないほどの皿数で驚きました。客人をもてなす意味もあったはずですが、ふだんでもそれなりの皿数になると聞きました。
東南アジアは、また違います。皿数はそれほど多くはありません。でも、おかずがいっぱい、という感じは、韓国に負けていません。白いごはんは同じ。スープも好きな国が多いようですが、日本のように、個々のお椀によそられるのではなく、大鉢に入れられて、各自取り分ける式が多いです。
面白いと思ったのは、ベトナム。ごはんもおかずもスープも大皿、大鉢に入ってきます。個人用に置かれるのはごはん茶碗1個だけ。取り皿も汁碗もなく、茶碗1つですべてを兼用するんです。
まずごはんをよそって、好きなおかずをご飯の上にとって食べます。スープはどうするかと言えば、多くの場合、1杯目のごはんを食べ終わった時に、同じ茶碗にとります。
スープを食べ終わると、再び同じ茶碗に2杯目のごはん。ごはんを2杯で終わる人は、ごはんが半分くらいになったところで、スープを注ぎ、スープごはんで締めくくることも珍しくありません。
冒頭の写真は、ベトナム中部で昼ご飯を食べた時のもの。手前の魚の煮付けに、揚げた豆腐の煮付け、漬け物、それに野菜たっぷりのスープでした。向こうの方で、唯一の各自用食器であるご飯茶碗にごはんをよそっています。
ベトナムでは、若い女性でもごはんをもりもり食べます。日本では、体重を気にしてか、おかずは食べるけど、ごはんはピンポン玉くらいしか食べないという若い女性が増えているという話もありますが、ベトナムでは、華奢な若い女性が、当たり前のようにごはんをお代わりしていました。
アジアの長粒米は、粘りの弱いアミロースでんぷんが多く、日本の米よりもサラッとしています(ただし、韓国は日本と同じ短粒米です)。たくさん食べても胃にもたれません。ということは、おそらくダイエットにも貢献するんじゃないでしょうか。
アジアの食事は、おかずたっぷり。白いごはんはあくまでサラリとしていて出しゃばらず、豊富なおかずと一体になってきれいなデュエットを奏でる役割を見事に演じています。
2011年10月09日
肉はいつまでもつか
沖縄とアジアの食 第4回 肉扱いの文化
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。
そろそろアジア麺の話をしようか、と思って、ベトナム・ハノイの旧市街で食べたこのフォーの写真を取り出したら、また肉の話になってしまうことに気づいた。麺好きの方には申し訳ないが、もう1回、肉の話におつきあい下さい。
昨年、富山、福井の焼肉チェーン店で出された生牛肉ユッケが原因の食中毒で、4人が亡った。
肉の取り扱いは難しい。それは必ずしも「取り扱い技術の難度が高い」という意味ではない。肉を取り扱うことが国民的な生活技術、生活文化になっておらず、暗黙の衛生管理基準のようなものがないため、よけい難しくなっているように思える。
南アフリカ共和国の田舎で、結婚披露宴に出席したことがある。披露宴はひたすら屋外でのダンス。次々に大音響の曲がかかり、参加者は体を動かす。新郎新婦も踊りの輪に加わる。その地域では、結婚式があると牛を1頭つぶし、肉を焼いて参列者にふるまう。久しぶりのごちそうに、ダンスの合間に食事をとる参列者たちの表情もほころんで見えた。
しばらくして、会場内の小さな小屋に案内された。そこには牛の頭と内臓が置かれていた。部屋が狭いこともあるだろうが、アンモニアの強い臭いがたちこめていた。屠畜から少し時間が経っているようだった。
南アフリカでは、おかずに牛の内臓の入ったシチューをよく食べる。肉でも魚でも、内臓は栄養豊富で味も濃いごちそう。どの国でも、内臓を捨てるような伝統文化はまず存在しない。
東京でフランス料理のシェフから聞いた話だが、腕っこきのフレンチの料理人は、ありきたりの肉料理ではなく、内臓料理にこそ腕のふるいがいがあると思っているのだそうだ。それほど、フレンチの内臓料理は多彩で、奥が深いということなのだろう。
南ア農村の結婚式で、小屋に置いてあった牛の内臓のアンモニア臭を感じながら、思った。「この人たちは、牛の内臓がどれくらいもつかを、よく知っているー」。めったいにないごちそうである牛の内臓を腐らせて終わるなんてことは、絶対にありえない。
沖縄にも、そういう肉取り扱い技術の文化がある。市場でもスーパーでも、肉が大きな固まりのままで売られている。肉や内臓がどれくらいもつものか、家庭の主婦がだいたい経験的に分かっている。
1960年くらいまでの沖縄の農村では、どの家庭も豚を飼い、自分たちで屠畜もやっていた。1頭丸ごと処理するのだから、南アの牛と同じく、内臓まで含めて、すべての部位の取り扱い方法は「常識」だったに違いない。
日本の本土でも、魚肉の取り扱い方については、文化と呼べる基礎がある。
たとえば、どれくらいの鮮度なら刺身で食べられるかは、どの魚屋やスーパーも自分で判断している。魚を売る方も、そして大方の客も、目のにごり具合や、身の色、香りなどから、その魚の鮮度がいいか悪いか、ある程度は経験的に判断できる。暗黙の衛生管理基準のようなものがあると言ってもいい。
一般に、大きな肉ほど腐りにくい。その意味では、魚の多くは、牛肉や豚肉の大きな固まりよりも腐りやすい。ただ、肉の大きな固まりも、空気や異物に触れる表面は、どんどん悪くなっていく。
焼肉チェーン店での事故の後に「トリミング」という専門用語がニュースで流れた。肉の表面を削ることを言う。そう、大きな固まり肉でも、空気や手が触れる表面は、時間の経過とともに悪くなるから、悪くなった部分を削らなければならない。
肉食の長い地域では、そういうことが文化として受け継がれている。日本でも、例えばサバは腐りやすいからよほど鮮度がよくなければ刺身で食べる人はいない、といった細かさで取り扱いの文化があるように、肉食文化が根付いている地域では、つぶしてから何日目からは肉の表面をこれくらいの厚さで削り落とす方が安全、といったそれなりの生活技術を多くの人が知っている。
日本での事件の後に、韓国の焼肉店のスタッフが、なぜそんなことが起きるのか分からない、と首をかしげている映像をテレビのニュースで見た。肉食文化の長い伝統がある韓国では、日本の鮮魚と同じように、肉の熟成と腐敗について社会の経験の層が厚いのだろう。1990年代半ばに韓国の農村部を回ったことがあるが、裏庭で自分で豚をつぶしている農家がまだあった。
写真はバンコクの市場の肉屋。肉が固まりなのはもちろんだが、冷蔵ではなく、常温で売っている。タイだけではない。東南アジアのほとんどは、精肉を常温で流通させている。それは冷蔵システムが発達していないからではあるのだが、常温となれば、肉扱いの技術はさらに高度なものにならざるをえない。
常温の方が菌の繁殖速度は速いから、リスクもそれだけ大きい。統計をとれば、冷蔵流通が普通になっている日本より食中毒の発生頻度は高いかもしれないが、では食中毒が毎日のように起きているか、と言えば、さすがにそんなことはないだろう。それを支えているのは、細かい政策・制度でも、高度な検査機器でもなく、長い経験を通じて培われてきた普通の人々の肉に関する鮮度感覚にほかならない。
冒頭写真のハノイのフォーの店では、のせる牛肉を、担当の女性が大きな肉の固まりから薄く切り分け、すぐ使っていた。切り分けて、あまり時間をおかずに使うことがノウハウといえる。それなら、新たに表面に出た部分に菌が繁殖しない。
こういう扱い方が分かっているから、常夏の国で、冷蔵庫もなしで、生肉を食べてもめったにあたらない。もし、しばしばあたるようなことがあれば、みなが危険を感じて、星の数ほどあるフォー屋も、生肉のせをやめざるをえなくなってしまうだろう。
もう少し細かく言うなら、フォーの生牛肉の安全については(1)肉の鮮度(2)かけるスープの温度(3)肉の厚さと量―の3つの要素が重要だと思う。
ベトナムは長い肉食文化を持つ地域なので、鮮度の悪い肉を使うことは一般的には考えにくい。数多くの客が訪れる人気店なら、試されずみの客数が多いという意味だけでなく、原材料の回転がよいという意味でも、さらに安心だろう。
万一を考えて、スープによる熱殺菌効果を期待するには、スープが90度、95度といった高温でないといけない。それは注がれるスープの湯気の立ち具合を見ればだいたい分かる。
加えて、肉があまり厚いとスープの温度が肉の中心まで伝わらない。肉の量が多すぎても、冷たい肉がスープの温度を下げてしまう。
適度な厚さと量の肉がのり、湯気がたっぷりと上がる鍋から熱々のスープがかけられて、フォーが出てきたら、肉をスープによくひたしながら少し待ち、肉全体が白濁気味のミディアム状態になってからおもむろに食べる。
日本本土は、特に戦後、肉の大量生産が行われるようになって、肉食が一気に大衆化した。しかし、肉を扱う伝統文化は弱いから、扱い方を知らない人が肉を扱う可能性がどうしても高くなる。特に、高度な判断を求められるユッケのような境界線のところで、社会全体の経験不足が出てしまうように思う。
食のあり方に政府が介入して特定の食べ方を「禁止」したりするのはいかがなものかと思うが、るる述べてきた文脈からすれば、取り扱い方法がよく見えない飲食店が出す生肉については「無理をしないでおく」というのが正解のような気がする。