首里

2013年11月13日

阿摩和利、誕生!

 勝連城の歴史ロマン、第2回は、主役の百十踏揚(ももと・ふみあがり)にちょっと休んでもらい、後に踏揚の夫となる勝連城主の阿摩和利(あまわり)について書きましょう。前回同様、テキストは与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚」。引用を許可して下さった与並さんに御礼申し上げます。

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 阿摩和利の幼名は加那(かな)。現在の嘉手納で貧しい農家に私生児として生まれ、生母は「お前の父上様はさる高貴なお方」というナゾめいた言葉を残して、加那5歳の時に若くして没します。

 加那は叔父一家に引き取られますが、ここも極貧。10歳前後で山の中に捨てられ、ついに放浪の身となりました。

 川で魚を獲ったり、草の根を食べて飢えをしのぎながら、放浪を続けた加那。ヤマト(今の日本の本土)に向かう勝連船をあこがれをもって見ていたといいます。

 14歳の時、その勝連に流れ着き、屋慶名(やけな)の港で船子として雇われました(屋慶名は、人気バンドYHのふるさとですね)。

 16歳で初めてヤマト行きの船に乗り、京、鎌倉の華やかさに刺激を受けます。

 勝連に戻った加那は、新しい工夫の漁網を開発するなどして、勝連での名声を高めていきました。やがて勝連城の重臣だった屋慶名親方に目をかけられ、その配下になります。武芸でも才能を見せました。

 当時の勝連城主は茂知附按司(もちづき・あじ)。按司とは、地方のある領域に君臨する豪族、首長のことです。屋慶名親方のお供で茂知附按司に会った加那は、すっかり按司に気に入られ、後継者がいなかった按司から娘婿になるよう促されます。

 茂知附按司は、海賊であり貿易商人でもあった倭冦の出身といわれ、当時の人脈を生かして貿易を振興し、勝連を繁栄に導きました。

 しかし、その繁栄ぶりがやがて奢りを生み、茂知附は次第に、周囲の声を聞こうとしない独裁者になっていきました。晩年は酒びたりの日々だったといいます。

 中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)、越来(ごえく)の尚泰久(しょう・たいきゅう)、江洲(えす)の尚布里(しょう・ふり)。この3者ににらまれ、いつ攻め入られてもおかしくない勝連は、それでも一定の緊張が続きました。

 ところが、首里で国王が相次いで亡くなります。首里が勝連にかまっている余裕がなくなると、勝連の緊張も緩んでいきました。

 ある月夜の晩。月見の宴で茂知附按司はしたたか酒に酔い、家臣が止めるのも聞かず、城壁の上によじ登り、バランスを失って自ら転落死してしまいました。

 既に娘婿として「若按司」と呼ばれていた加那は、茂知附亡き後、勝連の按司となったのでした。

 その際、按司らしい名前を、と屋慶名親方と南風原親方があれこれ考えます。「天から降ってきた若者」との茂知附按司の言葉をヒントに、あまうぃ(天降り)、それをさらに人名らしく「あまわり」とし、「阿摩和利」の字を当てました。

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 20代後半の若さと幼少時代の苦労を原動力に、阿摩和利は按司として激しく働き、勝連の繁栄を推し進めます。貿易のさらなる振興、港湾の整備、農業灌漑用のため池建設、農地の開墾、漁業の振興ー。

 古謡おもろに、次のような意味の歌があります。


 勝連の阿摩和利按司様は、立派な金の御杓(神具、権威の象徴)をお持ちだぞ。
 このことを高らかに告げて、京、鎌倉までも誇ろうぞ。
 肝高の阿摩和利按司様は、島を治める偉大な按司様ぞ、国を治める立派な按司様ぞ(与並岳生「琉球王女・百十踏揚」p.194)



 後の首里王府とのいくさに破れた後、「逆臣」の汚名を着せられた阿摩和利は、琉球王国の正史の中で悪く描かれ続けてきました。

 しかし、おもろに歌われている阿摩和利の功績を讃えるいくつかの歌の存在や、阿摩和利時代のものを含むおびただしい数の海外貿易品の勝連城跡からの出土によって、阿摩和利は勝連を大いに繁栄させ、人々の尊敬を集めた名按司だったとの理解が広がってきました。与並さんの著書も、そのような視点で書かれています。

 与並岳生「琉球王女・百十踏揚」はアマゾン楽天セブンネットショッピングなどでお求め下さい。ももと庵でも取り扱っています。


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2013年06月14日

今もこんこんと水が湧く浜川ガー

 勝連城跡の周辺にはいくつかの歴史スポットがあります。ももと庵に近いところでは、ももと庵の正面から下に降りる細い坂道を行った先に、「浜川ガー」があります。ガーというのは沖縄語で湧き水のこと。

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 勝連城の7代目城主だった浜川按司には、真鍋樽(マナンダルー)という名の娘がいました。絶世の美女、と言われたマナンダルーの髪は、身長の1.5倍もの長さだったといいます。マナンダルーはこの浜川ガーで、棹に髪をかけながら髪を洗ったのだそうです。

 7代目城主ですから、首里と対峙することになる10代目城主の阿麻和利の時代より少し前です。14世紀の終わりか15世紀の初め頃でしょうか。

 このガー、ひんやりした水が今もこんこんと湧いています。流れ出した水は周辺の畑の灌水などにも使われています。

 マナンダルーの話が15世紀初めとしても、既に600年以上が経過しています。もちろん、マナンダルーの逸話がその頃ということで、ガーそれ自体はもっと以前から湧いていたと考える方が自然でしょう。となると、このガーには700年、800年という長い歴史があることになります。いやそれ以上かも。

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 この間に、アジア貿易で繁栄していた勝連は首里の琉球王朝に滅ぼされ、その琉球王朝は明治の日本に滅ぼされ、日本になった沖縄は今度は沖縄戦でアメリカにやられました。

 そんな激動の歴史の中でも、この水はおそらく止むことなくずっと湧き続けていて、人々の毎日の暮らしを潤してきたわけですね。

 時が止まったような静かなガーで、ひんやりとした湧き水に手をひたしながら、そんなことをつらつら考えていると、何とも不思議な感覚に陥ります。

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2012年10月29日

勝連城にはもう1つの入口があった

 だいぶ秋めいてきました。勝連はよい天気が続いています。ももと庵の前の海も色あざやか。勝連城跡の石垣が、青空にくっきりと映えています。

 ももと庵があるのは、勝連城跡に来る人のほとんどが入る西原御門側とは反対の、南風原御門側です。

 西原御門側には、県道16号線があり、駐車場や休憩所もあるので、勝連城跡といえば、西原御門側から入るものと思っている方がほとんどでしょう。ところがー

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 ももと庵から出て右側にわずか30mほど行ったところに、こんな小さな入口があります。いかにも通用口といったふぜいの簡単な造りのこの入口が、南風原御門側から勝連城跡に上る道の入口なんです。

 南風原御門。「はえばるうじょう」と読みます。雑草に覆われているこの小さな入口の先にあった南風原御門こそ、実は勝連城跡の正門だったんです。

 与並岳生さんの「琉球王女・百十踏揚(ももとふみあがり)」には、首里王府と対峙していた勝連城主の阿麻和利(あまわり)に嫁ぐために首里から勝連にやってきた国王尚泰久の娘、百十踏揚の一行が、いよいよ勝連城に足を踏み入れるシーンがあります。ちょっとだけ、さわりを引用させてもらいます。

 行列はゆったりと涼傘をなびかせて、勝連城へ登って行った。
 城のふもとには、将兵や村人たちが、総出で出迎えていた。

 (中略)
 
 行列は、城の南面の、石畳を敷いた長い急坂を登って行った。上り詰めたところの門が、正門の南風原御門だった。
 首里城の門と同じ、櫓を乗せた石造の拱門であった。


 この後、百十踏揚は、初めて阿麻和利と対面します。続きは、ぜひ本を読んで下さい(ももと庵で売っています)。読み出したら、他のことに手がつけられなくなりますけど。

 この南風原御門側の入口から勝連城に上ると、勝連城跡の石垣が、びっくりするくらいすぐ近くに現われます。歩く距離も、西原御門側からよりだいぶ短くてすむ感じです。写真は、南風原御門側の入口から入って、少し勾配のある道を2、3分上り、視界が開けたとたん、目に飛び込んでくる勝連城跡です。

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 南風原御門それ自体は、今はありません。このあたりにあったはず、ということです。

 南風原御門側から勝連城跡に出入りするおもしろさの一つは、それが海側にあって、沖縄本島の東側を一望できることでしょう。泡瀬から始まって、中城、西原、与那原と続き、知念までが見えます。

 西原の先には首里があります。緊張関係にあった15世紀の首里と勝連。首里国王の娘をめとった阿麻和利は、どんな思いで、この風景を毎日眺めていたのでしょう。いや、むしろ、政略結婚で阿麻和利に嫁ぐことになった百十踏揚自身が、地元で大歓迎されながらも、いったいどんな複雑な思いでこの風景を眺めていたかー。想像力がかき立てられますね。

 南風原御門側入口からの勝連城。ぜひ一度、上がってみて下さい。

 それから、与並さんの「琉球王女・百十踏揚」。猛烈に面白いですよ。これを読んでから勝連城に立つと、登場人物が生きて動き出します。

 ただ、ドンと分厚い大作なので、時間とお金に多少ゆとりのある時がいいかも。県内の各書店や万鐘ももと庵で取り扱っています。セブンネットでも扱っていますので、県外の方もぜひ。

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2011年05月29日

外交を外注していた古琉球の王国

沖縄を創る人 第20回
 歴史家 上里隆史さん(上)


 7月から放映予定のNHK「BS時代劇 テンペスト」で時代考証を担当した歴史家、上里隆史さんに会った。琉球王国は意外な素顔を持っている。上里さんは、そんな王国の姿をさまざまな形で一般に伝えてきた。

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 上里さんは首里の出身。琉球大で琉球史を学んだ後、琉球を含む東アジアの国際関係史研究をさらに深めるため、東大史料編纂所で研究生として学び、さらに早大で修士号を取得した。現在は沖縄に戻り、琉球史コンサルタントとして活躍している。

 歴史家と言えば、大学や研究所に所属している人が多いが、上里さんは違う。在野の歴史家、だ。

 「大学に所属すると学内行政などに時間がとられて思うように研究できないことがありますし、どうしても機動力が落ちると思いまして。専門的研究と一般向けの普及活動を自由に行き来したかったので、あえて在野でやっています」

 琉球史の専門的知識には、実はさまざまなニーズがある。琉球史に関する講演会や一般向け書籍の執筆に加え、大手旅行代理店の依頼で「テンペスト」ツアーの監修やガイドの育成研修をするといった仕事も入ってくる。

 その上里さんが語る琉球王国像はエピソードに満ちていて、分かりやすく、興味深い。今回と次回で、その一端を紹介したい。

 琉球王国は、アジア貿易で経済を繁栄させた。しかし、そのありようは時代によって違っていた。1300年代から1500年代の古琉球の時代と、日本の江戸時代にあたる1600年代以降の近世琉球の2つに大きく分けられる。今回は古琉球の話を。

 「古琉球の時代の琉球王国は、琉球に来ている外国人に外交をアウトソーシング(外注)していました」

 上里さんがいきなりパンチを繰り出した。外交の外注!

 上里さんによると、テンペストの舞台になった江戸時代の琉球王国には官僚養成システムがあったが、古琉球の時代は、公的教育機関で自前の人材育成を行うのではなく、那覇にいた外国出身者の力をそのまま活用していた。

 例えば、朝鮮と交渉するのに、対馬や博多出身で日本と朝鮮を行き来する那覇在の貿易商人を使い、公式の琉球代表として朝鮮に派遣した。商人にとっても、琉球の代表使節という肩書きによって自らの貿易を拡大できるメリットがあった。

 中国との外交は、那覇の久米村にいた中国出身者を使った。東南アジアでは中国語が通じたから、そちらとのやりとりも久米村人材が担った。室町幕府とは、日本出身者が交渉した。例えば、日中琉をまたぐ禅宗の国際ネットワーク下で、首里の円覚寺の住職をしていた京都・南禅寺出身の僧侶が、琉球の公式の代表として室町幕府と交渉したりしていた。

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 なんという国際的なダイナミズム。そこには、琉球人より京都出身者の方が先方の事情や慣習に詳しいから、という合理主義があり、同時に、そういう人材ならば相手の弱点もよく知っている、という計算もあったはずと上里さんはみる。

 「こういうやり方は琉球王国だけではないんです。交易によって成り立っていた国は、みなその傾向がありました。例えば、マラッカ王国でも貿易長官は外国人だったりしたんです。当時の交易国家には、現在の国民国家のような意識はあまりなかったと思います」

 沖縄は珊瑚礁の島なので、船が入れるのは、当時は那覇港と北部の運天港に限られていた。特に那覇は、琉球で唯一都市の姿をしており、経済、政治、文化のすべてが集中していた。1300年代後半から日本と中国の往復は琉球を中継地にするルートが一般的になったこともあり、那覇は各国の商人、日本の僧侶や医師などが行き交う国際都市になっていた。

 商人はもちろん貿易のために来琉した。日本の医師は、当時の先端技術だった中国の医療を学びに来た。僧侶は基本的には布教のために沖縄に来るのだが、当時、数少ない知識人でもあった僧侶を琉球王府は最大限に活用した。例えば、漢文を自由に読み書きできた彼らに、数多くの石碑の碑文を書かせたりした。そんな石碑は今も首里界隈にたくさん残されている。

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 逆に那覇港から、そのルートに乗って、数多くの琉球人が日本に渡った。例えば、京都の大徳寺には、1500年代に琉球の禅宗の信者などがたくさんやってきた、との記録がある。日本とのつながりは強かった。

 「薩摩の侵攻を受けた後の江戸時代の近世琉球より、それ以前の古琉球の方がかえってヤマトっぽかったんじゃないかと思います」

 ヤマトっぽいではあっても、あくまで琉球流。例えば、日本では、日本産のひらがなを公的な文書に使うことはなかったが、琉球はこれを使った。同時に、日本式の花押ではなく、中国式で捺印。年号も中国式だった。

 あるいは、王府がとりおこなった正月の儀式では、中国風の衣服を着つつ、儀式の内容は陰陽道に由来する日本風のものだったりした。ヤマトのものをたくさん取り入れてはいたが、それらは琉球独自にアレンジされたものだった。

 江戸時代になると、事情は一変する。その話は次回に。

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2010年02月07日

[第155話 食、沖縄] 上品な王朝菓子チールンコウ

 第153話で庶民的な伝統菓子タンナファクルーを取り上げたが、今回は、琉球王朝の宮廷文化の中で食された伝統菓子チールンコウのお話。卵の香り豊かな品格あふれる蒸し菓子だ。

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 チールンコウを漢字で書くと「鶏卵糕」。「糕」はケーキの類の意味。同じく中国文化の影響を受けた伝統菓子のチンスコウが、既に全国区になっているのに対して、チールンコウは、沖縄県内でも知らない人がいる。チンスコウほど日持ちがしないことや、製造の手間がかかるために生産量が限られていることがこうした違いを生んでいるのかもしれない。

 今回は首里の新垣カミ菓子店のチールンコウを紹介したい。新垣カミ菓子店のチールンコウの原材料は、砂糖、小麦粉、卵の順。

 153話では、丸玉製菓のタンナファクルーが、小麦粉より黒糖をたくさん入れていることを取り上げたが、またしても小麦粉より砂糖が多いお菓子が登場した。さぞ甘いだろうと思われるかもしれないが、食べてみれば、甘さは意外なくらい「ほんのり」だ。

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 同菓子店の伊波元丸さんの話では、卵は全卵と卵黄を使うという。生地を型に流し込み、食紅で赤く染めたピーナツの薄切りと、柑橘で作られる伝統菓子きっぱんをきれいに並べ、じっくりと蒸す。このピーナツときっぱんは、たっぷり使われている卵の卵臭さを緩和する働きがあるらしい。

 もともとのチールンコウは、現在のサイズの2倍くらいの幅があり、切り口がちょうど王様がかぶる冠の形をしていた。赤く染めたピーナツとオレンジ色のきっぱんは、王冠に散りばめられた宝石を模している。昔は貴重品だった卵や砂糖をぜいたくにたっぷり使うことから考えても、チールンコウはやはり「王様の食べ物」だったに違いない。

 チールンコウは、カステラよりもしっかりした口当たり。油脂類は全く入らないが、蒸しているだけあって、適度な水分が中に保たれており、パサパサした感じは全くない。上品な味わいだが、卵の存在はしっかりと感じられる。「昔の作り方のままです」。伊波さんが言う。

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 約200年前に琉球王家の包丁役だった新垣親雲上(ぺーちん)淑規(しゅくき)が、琉球を訪問した中国の使節団からチールンコウの製造技術を伝えられたという。その曾孫に嫁いだのが、現在の店名になっている新垣カミ。夫が35歳の若さで亡った後、女手ひとつで伝統の味を守った。

 現在、首里城の鎖之間(さすのま)では、さんぴん茶とともにお茶菓子が出されているが、この菓子はすべてこの新垣カミ菓子店のもの。琉球伝統菓子を作る各菓子店の中から特に同店が選ばれた。今も昔も「琉球王朝御用達」というわけだ。

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 チールンコウは沖縄県民でも知らない人がいると初めに書いたが、首里の人々はちゃんと知っている。新垣カミ菓子店のお客さんの多くも、王朝文化を受け継いできた地元首里の人々。製造所と一体の小さな店だが、同店の味を知る人々が次々と買い求めにやってくる。

 県外にもファンがいて、予約しておいて空港から直行する人もいるらしい。チールンコウのほかに、チンスコウ、花ぼうる、薫餅(クンペン)など、いずれも宮廷で食された伝統菓子をていねいに手作りしている。

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 新垣カミ菓子店は、那覇市首里赤平町1-3-2、098-886-3081。チールンコウは、在庫があれば同店で買えるほか、首里城公園にも置いている。ただし、常にあるとは限らないから、電話で確認した方が無難。HPでも買うことができる。1本400g、1050円(送料別)。

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2008年04月24日

[第52話 沖縄] 歴史の荒波に翻弄された王女

 世界遺産に登録された勝連城跡を訪れる人は年々増えている。だが、この勝連城を舞台に何が起きたのか、知る人は少ない。古琉球の世界は、沖縄の学校でもさほど詳しく教えないし、ましてや本土では全く扱わないからだ。これでは、あまりに背景知識がなさすぎて、せっかくの世界遺産も歴史のロマンを感じるところまではなかなかいかない。

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 勝連城跡のふもとには資料室がある。そこにはパネルなどで解説が用意されているが、やや教科書的。もっと楽しく歴史のロマンを感じる方法はないものかー。と探してみたら、格好の本があった。

 与並岳生作「琉球王女 百十踏揚(ももと・ふみあがり)」。勝連城最後の城主阿摩和利(あまわり)の妻となった首里王朝の王女百十踏揚を主人公に、怒濤の時代を描いた長編歴史小説。上下2段組、761ページのズシリと重い大作だ。

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 阿摩和利と首里王朝との確執は、歴史ファンにはたまらないエピソードに満ちているが、何しろ15世紀のこと。残された史料が限られており、それも伝承が中心のため、論証は困難な部分が多い。が、逆に、史料の隙き間を想像力で補っていくという別の楽しみがあるともいえる。この作品も、史実と想像とのバランスの上に大河ドラマが展開され、読み手は古琉球の世界へグイグイと引き込まれていく。

 あらすじはこうだ。首里城の国王、尚泰久(しょう・たいきゅう)は、琉球を統一した尚巴志以来の不安定な王権を安定させることを目指していた。当時、勝連は首里の支配下に入っているとはまだいえなかった。

 流れ者から身を起こし、持ち前の才覚で、ついには勝連城の主となった阿摩和利は地元民から大いに慕われていた。その阿摩和利ににらみを効かせるため、尚泰久は、首里と勝連の中間にある中城に護佐丸(ごさまる)を配した。護佐丸は、尚巴志に仕え、統一の戦闘で天下にその名をとどろかせた武将で、尚泰久の岳父でもあった。

 首里に対峙して天下をうかがう勝連の阿摩和利を懐柔するため、尚泰久は臣下の金丸の進言を受け入れ、「国の花」と言われた愛娘の百十踏揚を阿摩和利に嫁がせる。尚泰久は明からの使節による冊封を控えており、何としてもいくさを回避したかった。冊封は、中国皇帝が周辺諸国の君主と形式上の君臣関係を結ぶこと。

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 百十踏揚が阿摩和利に嫁いでからは、首里と勝連との緊張は解け、しばしの平和が訪れた。やがて護佐丸の娘の王妃が病死し、護佐丸の首里王家との縁がやや薄らぐ中で、金丸は、自分を排除しようとする護佐丸に危険を感じる。護佐丸をなきものにしようと企んだ金丸は、「護佐丸謀反」を尚泰久王を含む周囲に信じさせることに成功する。

 金丸は、護佐丸征討軍の総大将に、王婿である阿摩和利を据える。百十踏揚は、自分の祖父である護佐丸を夫の阿摩和利が討とうとするのを必死で止めようとしたが、護佐丸謀反を信じ込んだ阿摩和利は聞き入れない。

 しかし、護佐丸討伐の闘いの最中に、護佐丸の軍使から届けられた手紙には、驚くべき事実が記されていた。なんと、阿摩和利は護佐丸の落とし胤だったというのだ。阿摩和利は戦闘を中止しようとしたが、護佐丸は南から攻める首里軍にやられてしまう。

 阿摩和利は金丸の陰謀にようやく気づき、「父」の滅亡に自ら手を貸した罪にさいなまれる。その苦悩する姿を見た百十踏揚は、阿摩和利を許す。しかし金丸は、謀略に気づいたであろう阿摩和利をすかさず次の標的にして「謀反人」に仕立て上げる。挙兵直前に首里軍の武将鬼大城が百十踏揚を勝連城から強引に脱出させ、夫阿摩和利に添い遂げる決意だった彼女の心は再び切り裂かれる。

 首里城に戻らされた百十踏揚は、父の尚泰久に金丸の陰謀と護佐丸、阿摩和利の無実を必死で訴えるが、聞き入れられず、首里軍はついに阿摩和利を討つ―。

 こうして、身も心もボロボロにされた百十踏揚は、今度は、こともあろうに、最愛の夫阿摩和利討伐の総大将を務めた鬼大城に嫁がされる。時が過ぎ、尚泰久亡き後、後継の王の専横ぶりに危機感を覚えた金丸は、ついに王を廃し、自ら玉座に上る。その結果、前王統の血をひく百十踏揚は再び追われる立場に―。

 歴史の荒波に翻弄され続けた王女百十踏揚の真情を横糸、金丸を軸とする権力の思惑・陰謀とそれをめぐる男たちの動きを縦糸に、この歴史物語は展開していく。

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 「護佐丸は忠臣、阿摩和利は逆臣」というのが従来の琉球史の単純な解釈だった。しかし、護佐丸の家系が後の琉球王朝の高官を数多く輩出するなど、青史を編む立場だったのに対し、阿摩和利には子供がいなかったため、後代に阿摩和利が正当化される機会がなかった、と作者の与並さんは言う。

 護佐丸、阿摩和利親子説などの新解釈も交えながら、与並さんの筆は、状況の変化とともに移ろいゆく登場人物の心の機微と、思惑、思い込み、さらには、それら登場人物同士の生死をかけたギリギリのやりとりをたんねんに描く。

 与並さんがしばしば口にする「つじつまが合う」とは、史実と史実が符合するというだけの意味ではない。利害、思惑、愛憎まで含めて、登場人物の考えと行動が「必然」と思えるだけの物語が構築されて初めて「つじつま」が合い、読み手の胸に落ちるのだ。「琉球王女 百十踏揚」には、そうした物語としての説得力がある。

 「琉球王女 百十踏揚」はかつて地元紙「琉球新報」に連載されて大きな反響を呼んだ。それに加筆した単行本は、新星出版刊、3200円。沖縄県内は置いている書店が多い。本土でも書店で取り寄せできる。新星出版ではインターネット直販を近く始める予定。新星出版は、那覇市港町2-16-1、電話098-866-0741。

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2008年01月07日

[第34話 食] 静かに守る首里の味

 琉球料理の正統派、古都・首里の味をひっそりと守っている店を紹介する。ともに首里に生まれ育った富名腰久雄さん、米子さん夫妻が経営する富久屋。「私たち2人の舌で覚えている首里の味をお出ししています」と久雄さんが語る。

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 まずは、むじぬ汁から(「の」が、琉球語では「ぬ」になる)。「むじ」とは、ターウム(田芋)の茎。本土では、サトイモの茎のズイキが食べられるが、これに近い。むじぬ汁は、むじがみそ汁に入っており、豚の三枚肉があしらってある。祝いごとがあると、首里ではむじぬ汁が作られたという。むじはシャクシャクした独特の歯ごたえがある。

 同じみそ仕立ての汁でも、むじぬ汁とは全く違うのが、いなむどぅち。こちらは甘い白みそ仕立てで、豚肉やこんにゃく、かまぼこなどが入っている。汁はいくぶんとろみがあり、コクは十分だが、不思議にしつこさはない。

 豚肉に黒ごまをまぶして蒸した、みぬだる。全く脂っぽくない。さっぱりした味付けだが、うまみはしっかり感じられる。

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 どぅるわかしーぬあぎー。ターウムをつぶして、豚肉、かまぼこなどを加えて練ったのがどぅるわかしーで、それをまるめてあぎー(揚げもの)にしたのがこれ。第6話のままやの料理でも登場した。脇道にそれるが、「あぎー」は、さーたーあんだあぎーの「あぎー」だ(「さーたー」は砂糖=甘い、「あんだ」は油)。

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 小鉢では、かんぴょういりちー。かんぴょうを昆布やこんにゃくなどといっしょにいため煮にしたもの。かんぴょうにヌヌっと入っていく歯ごたえが楽しい。昆布をいため煮にしたくーぶいりちーはよくあるが、かんぴょうのものは珍しい。

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 ピーナツで作る地豆豆腐(じーまーみどーふ)はポピュラーな沖縄料理だが、ここの地豆豆腐はべたつかず、切れがよい。

 祝膳のイメージで出している、というむじぬ汁定食についてきたごはんは赤飯だった。ただし、もち米ではなく、うるち米を使うのが首里流とのこと。

 料理全体の印象は、ヘルシーで繊細な和食のイメージ(もちろん料理の中身は和食とは違うが)に、豚のうまみが加わったという感じだ。豚だしのうまみは随所に使われているが、あくまで上品で、脂っぽさや臭みは一切ない。ていねいに作られたバランスのよいごはんをいただいた満足感が残った。

 定食だけでなく、富久屋は泡盛も用意しているから、一杯やりながら、首里の味を楽しむことができる。

 富久屋は、首里の龍潭通りから、旧県立博物館の横の細い道を入って間もなくの右側、道から少し奥に引っ込んだところにある。場所は大人の隠れ家風だが、中は木づくりで明るく、家族連れで楽しめる。看板は一応あるが、見えにくいので、分からなければ電話を。常連客が多いようだが、初めての客も、富名腰さんが温かくもてなしてくれる。

 那覇市首里当蔵町1-14、098-884-4201。営業時間は昼が11:00-15:00、夜は18:00-23:00。定食は、むじぬ汁定食が1200円、それ以外は1000円。単品は500円前後。ちゃんぷるー類や沖縄そばもある。

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