首里城
2011年03月27日
「十三祝いの新築」を原点に
沖縄を創る人 第13回
国建取締役 平良啓さん(下)
沖縄には13歳を祝う「十三祝い」の習慣が今もある。いわゆる成年になる儀礼だ。平良啓さんが十三祝いを迎えた時に、父が家を新築した。当時、住んでいたのは石垣島。貧しい中で、それまで茅葺きの家だったのを、セメント瓦の木造家に建て替えたのだった。
「啓の十三祝いに家を作ったんだよ、と父に言われて・・・ さすがに感激しました」
新築の際には、島の大工がやってきた。かんなで木を削り、のみでほぞを切って、家を建てていった。その見事な仕事ぶりに、啓少年は目を見張った。
「建築士になりたい」。そんな夢が芽生えた。叔父が建築士をしていたことも、建築家を志す支えになった。
中学を出た後は迷わず工業高校に進み、卒業後、株式会社国建へ。いったん退社して、大学の建築科で本格的に建築学を学んだ後、再び国建に戻った。
平良さんは、首里城復元の後も、さまざまな歴史的建造物の復元や改修設計に携わった。例えば、首里城の西にある玉陵(タマウドゥン)の「東の御番所」の復元。玉陵は、その名の通り、琉球国王の墓で、御番所はその敷地内にある。玉陵を管理する那覇市の強い意向で、国王や王妃が休憩した東の御番所が復元されることになり、その設計・監理を平良さんらのチームが担当した。
建物は沖縄戦で焼失していたが、その跡周辺に残されていた基壇の石積から建物の位置と向き、輪郭、地盤の高さなどが判明。さらに礎石間の実測から柱間寸法を想定した。古い写真から床高、軒高、軒先の長さ、屋根の勾配などを割り出した。
現場は、陵墓だけのことはあって、手前の小さな森の部分とあいまって、なんとも言えぬ厳粛な静けさを醸し出している。都市の真ん中にいることをしばし忘れさせる空間だ。
読谷村にある「喜名番所」も、平良さんらが関わった木造の歴史的建造物の一つ。こちらの番所は、今の役場にあたる。1853年にはペリー提督一行が立ち寄り、随行画家のハイネの描いた絵が残されている。古写真や文献、発掘調査記録を分析するとともに、古老への聞き取りを行い、有識者による委員会で方針を決めていく、という、首里城復元以来の手法を採った。現在は観光案内所として使われている。
木造建築といえば、このような歴史的な建造物ばかりでなく、かつては一般民家も当然ながらみな木造建築だった。木造建築は、沖縄の蒸し暑さを回避するうえで機能的に優れているが、戦後、沖縄の住宅のほとんどが鉄筋コンクリート造になった。
平良さんによれば、現代の木造建築は、台風に耐える強度を十分備えているし、シロアリ対策も開発されている。木造建築がかつて直面したそうした大きな問題は、少なくとも技術的には既にクリアされている。にもかかわらず、木造住宅はまだまだ少ない。
「台風とシロアリでさんざんひどい目に遭ってきましたから。やはり、それがトラウマになっているのでしょうか」
平良さんが懸念しているのが、木造建築を作ることができる人材の不足だ。コストダウンを図るため、コンピュータにデータを入力して機械に材をカットさせる方式が増えつつある。しかし、このやり方では、伝統的民家を建てられるような人材はなかなか育たない。
とはいえ、散発的にせよ、歴史的な木造建築の修復や復元工事は行われている。そうした中で、ベテラン、中堅、新人の大工が関わっており、伝統技術は着実に継承されている、と平良さんはみている。
[平良啓さんとつながる] 首里城は那覇市首里当蔵町3-1、098-886-2020。平良さんも理事を務める「首里城公園友の会」は、見学会、講演会、研究誌『首里城研究』の発行など、さまざまな活動をしているので、首里城や琉球王国について深掘りしたい方にお勧め。事務局は098-886-2020。玉陵「東の御番所」は、首里城のすぐ西。歩いて行ける。那覇市首里金城町1-3、098-885-2861。喜名番所は、読谷村字喜名1-2、098-958-2944。国土交通省の道の駅に指定されており、気軽に立ち寄れる。平良さんの勤務する株式会社国建のHPはこちら。
国建取締役 平良啓さん(下)
沖縄には13歳を祝う「十三祝い」の習慣が今もある。いわゆる成年になる儀礼だ。平良啓さんが十三祝いを迎えた時に、父が家を新築した。当時、住んでいたのは石垣島。貧しい中で、それまで茅葺きの家だったのを、セメント瓦の木造家に建て替えたのだった。
「啓の十三祝いに家を作ったんだよ、と父に言われて・・・ さすがに感激しました」
新築の際には、島の大工がやってきた。かんなで木を削り、のみでほぞを切って、家を建てていった。その見事な仕事ぶりに、啓少年は目を見張った。
「建築士になりたい」。そんな夢が芽生えた。叔父が建築士をしていたことも、建築家を志す支えになった。
中学を出た後は迷わず工業高校に進み、卒業後、株式会社国建へ。いったん退社して、大学の建築科で本格的に建築学を学んだ後、再び国建に戻った。
平良さんは、首里城復元の後も、さまざまな歴史的建造物の復元や改修設計に携わった。例えば、首里城の西にある玉陵(タマウドゥン)の「東の御番所」の復元。玉陵は、その名の通り、琉球国王の墓で、御番所はその敷地内にある。玉陵を管理する那覇市の強い意向で、国王や王妃が休憩した東の御番所が復元されることになり、その設計・監理を平良さんらのチームが担当した。
建物は沖縄戦で焼失していたが、その跡周辺に残されていた基壇の石積から建物の位置と向き、輪郭、地盤の高さなどが判明。さらに礎石間の実測から柱間寸法を想定した。古い写真から床高、軒高、軒先の長さ、屋根の勾配などを割り出した。
現場は、陵墓だけのことはあって、手前の小さな森の部分とあいまって、なんとも言えぬ厳粛な静けさを醸し出している。都市の真ん中にいることをしばし忘れさせる空間だ。
読谷村にある「喜名番所」も、平良さんらが関わった木造の歴史的建造物の一つ。こちらの番所は、今の役場にあたる。1853年にはペリー提督一行が立ち寄り、随行画家のハイネの描いた絵が残されている。古写真や文献、発掘調査記録を分析するとともに、古老への聞き取りを行い、有識者による委員会で方針を決めていく、という、首里城復元以来の手法を採った。現在は観光案内所として使われている。
木造建築といえば、このような歴史的な建造物ばかりでなく、かつては一般民家も当然ながらみな木造建築だった。木造建築は、沖縄の蒸し暑さを回避するうえで機能的に優れているが、戦後、沖縄の住宅のほとんどが鉄筋コンクリート造になった。
平良さんによれば、現代の木造建築は、台風に耐える強度を十分備えているし、シロアリ対策も開発されている。木造建築がかつて直面したそうした大きな問題は、少なくとも技術的には既にクリアされている。にもかかわらず、木造住宅はまだまだ少ない。
「台風とシロアリでさんざんひどい目に遭ってきましたから。やはり、それがトラウマになっているのでしょうか」
平良さんが懸念しているのが、木造建築を作ることができる人材の不足だ。コストダウンを図るため、コンピュータにデータを入力して機械に材をカットさせる方式が増えつつある。しかし、このやり方では、伝統的民家を建てられるような人材はなかなか育たない。
とはいえ、散発的にせよ、歴史的な木造建築の修復や復元工事は行われている。そうした中で、ベテラン、中堅、新人の大工が関わっており、伝統技術は着実に継承されている、と平良さんはみている。
[平良啓さんとつながる] 首里城は那覇市首里当蔵町3-1、098-886-2020。平良さんも理事を務める「首里城公園友の会」は、見学会、講演会、研究誌『首里城研究』の発行など、さまざまな活動をしているので、首里城や琉球王国について深掘りしたい方にお勧め。事務局は098-886-2020。玉陵「東の御番所」は、首里城のすぐ西。歩いて行ける。那覇市首里金城町1-3、098-885-2861。喜名番所は、読谷村字喜名1-2、098-958-2944。国土交通省の道の駅に指定されており、気軽に立ち寄れる。平良さんの勤務する株式会社国建のHPはこちら。
2011年03月20日
歴史的建造物をよみがえらせる
沖縄を創る人 第12回
国建取締役 平良啓さん(上)
沖縄を代表する歴史的建造物、首里城。沖縄戦で灰燼に帰した首里城が本格的に復元されたのは平成4年のことだった。復元には数多くの専門家がかかわったが、その中に1人の若手建築技術者がいた。平良啓さん。当時30代前半。首里城復元の現場監理を丸3年担当した平良さんは、その経験をベースに、その後も数多くの歴史的建造物の復元や改修設計を手がけてきた。
「首里城の仕事の前には、そうした歴史的な木造建築を手がけたことはなかったんです」
たまたま上司が歴史的建造物を手がけた経験があったため、平良さんは首里城復元の仕事に携わるようになった。沖縄は、沖縄戦で主な建造物がほとんど焼失してしまったため、木造の社寺などを設計・施工した経験を持つ技術者はほとんどいなかったのだ。
不足していたのは人材だけではない。そもそも、首里城正殿がどんな形、構造だったかがよく分からなかった。それを調べ上げることが平良さんらの初めの仕事になった。基本設計、予備設計、実施設計の3段階を通じて、古文書、古写真、古絵図を調べるとともに、戦前の建物を知っている古老にも話を聞いた。首里城正殿は昭和に改修工事をしているが、その前の「明治の首里城」を知っている人も当時はまだ存命だった。
「大変な仕事でしたけど、未知のものを探求する楽しみはありましたね」と平良さんは振り返る。
首里城正殿の復元は、国営沖縄記念公園事務所が社団法人日本公園緑地協会に設計と工事監理を委託。平良さんはその時のワーキングスタッフの1人として参加したのだった。
写真は首里城公園内に置かれている首里城正殿の1/10スケールの構造模型。正殿は、直径40cm、高さ8mの柱が何本もいる。沖縄でそのような大木を何本も調達することは不可能だった。平成の復元に際しては調達が可能なタイワンヒノキを輸入した。
施工の過程で木造の難しさも味わった。まっすぐのはずの材が途中でひねってしまったり、乾燥が激しい時に割れてしまうこともあった。「木は生きていますから…」。幸い、首里城は内外が赤く塗装されたので、割れた部分は目止めして塗装すればなんとかカバーできた。
前に述べたように、沖縄戦で古い木造建築が焼失し、住宅も戦後は鉄筋コンクリート建てのものが増えたこともあって、沖縄には木造建築の経験豊富な大工があまりいなかった。首里城復元の施工の際には、社寺建設などの経験を持つ十数人の宮大工が福井県などから加勢、沖縄の大工とともに木工事を担った。
木材を組み上げるについては、伝統的な琉球建築の技術をできるだけ活用した。木材を長く伸ばす際の接続技術である「継手」、角度をつけて組み合わせる接続技術の「仕口」などにそれらが生かされている。
もちろん、現代技術を使った部分もある。例えば、首里城正殿の屋根の正面と両端に鎮座する龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)。直径3mもある巨大な陶製だ。これを屋根に固定するのは容易ではなかった。台風の風をまともに受ける屋根の頂上に置かれる重たく巨大な陶製。もし固定が甘くて落下するようなことがあったら―。工法は慎重に検討され、最新の技術が採用された。
平良さんにとって、あるいは多くの沖縄の建築関係者にとって、こうした設計、施工プロセスのほとんどすべてが初めてづくめ。平良さんはその過程の一部始終を、現場で丸3年、体験した。
「人生で一番いい経験でした」
平良さんは後に、首里城復元の過程を5年がかりで論文「伝統的建築物群における復元設計プロセスと復元施工に関する研究」にまとめ、2005年、神戸芸術工科大から博士号を授与された。
続きは次回3/27(日)に。
国建取締役 平良啓さん(上)
沖縄を代表する歴史的建造物、首里城。沖縄戦で灰燼に帰した首里城が本格的に復元されたのは平成4年のことだった。復元には数多くの専門家がかかわったが、その中に1人の若手建築技術者がいた。平良啓さん。当時30代前半。首里城復元の現場監理を丸3年担当した平良さんは、その経験をベースに、その後も数多くの歴史的建造物の復元や改修設計を手がけてきた。
「首里城の仕事の前には、そうした歴史的な木造建築を手がけたことはなかったんです」
たまたま上司が歴史的建造物を手がけた経験があったため、平良さんは首里城復元の仕事に携わるようになった。沖縄は、沖縄戦で主な建造物がほとんど焼失してしまったため、木造の社寺などを設計・施工した経験を持つ技術者はほとんどいなかったのだ。
不足していたのは人材だけではない。そもそも、首里城正殿がどんな形、構造だったかがよく分からなかった。それを調べ上げることが平良さんらの初めの仕事になった。基本設計、予備設計、実施設計の3段階を通じて、古文書、古写真、古絵図を調べるとともに、戦前の建物を知っている古老にも話を聞いた。首里城正殿は昭和に改修工事をしているが、その前の「明治の首里城」を知っている人も当時はまだ存命だった。
「大変な仕事でしたけど、未知のものを探求する楽しみはありましたね」と平良さんは振り返る。
首里城正殿の復元は、国営沖縄記念公園事務所が社団法人日本公園緑地協会に設計と工事監理を委託。平良さんはその時のワーキングスタッフの1人として参加したのだった。
写真は首里城公園内に置かれている首里城正殿の1/10スケールの構造模型。正殿は、直径40cm、高さ8mの柱が何本もいる。沖縄でそのような大木を何本も調達することは不可能だった。平成の復元に際しては調達が可能なタイワンヒノキを輸入した。
施工の過程で木造の難しさも味わった。まっすぐのはずの材が途中でひねってしまったり、乾燥が激しい時に割れてしまうこともあった。「木は生きていますから…」。幸い、首里城は内外が赤く塗装されたので、割れた部分は目止めして塗装すればなんとかカバーできた。
前に述べたように、沖縄戦で古い木造建築が焼失し、住宅も戦後は鉄筋コンクリート建てのものが増えたこともあって、沖縄には木造建築の経験豊富な大工があまりいなかった。首里城復元の施工の際には、社寺建設などの経験を持つ十数人の宮大工が福井県などから加勢、沖縄の大工とともに木工事を担った。
木材を組み上げるについては、伝統的な琉球建築の技術をできるだけ活用した。木材を長く伸ばす際の接続技術である「継手」、角度をつけて組み合わせる接続技術の「仕口」などにそれらが生かされている。
もちろん、現代技術を使った部分もある。例えば、首里城正殿の屋根の正面と両端に鎮座する龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)。直径3mもある巨大な陶製だ。これを屋根に固定するのは容易ではなかった。台風の風をまともに受ける屋根の頂上に置かれる重たく巨大な陶製。もし固定が甘くて落下するようなことがあったら―。工法は慎重に検討され、最新の技術が採用された。
平良さんにとって、あるいは多くの沖縄の建築関係者にとって、こうした設計、施工プロセスのほとんどすべてが初めてづくめ。平良さんはその過程の一部始終を、現場で丸3年、体験した。
「人生で一番いい経験でした」
平良さんは後に、首里城復元の過程を5年がかりで論文「伝統的建築物群における復元設計プロセスと復元施工に関する研究」にまとめ、2005年、神戸芸術工科大から博士号を授与された。
続きは次回3/27(日)に。
2011年02月06日
ちんすこう着てトライアスロン
沖縄を創る人 第6回
新垣カミ菓子店 伊波元丸さん
新垣カミ菓子店の琉球伝統菓子の味と香りは昔も今も変わらない。その一方で、同店の仕事には、時代の変遷とともに変わってきた部分もある。例えば、ちんすこうの形と大きさ。
「これを見て下さい」。伊波元丸さんが、作業場の奥の方から、使い込まれた感じの木型を取り出してきた。
現在のちんすこうは、長さ6cmほどの細長いものが2本、1袋に入っているタイプがほとんど。伊波さんが作るちんすこうもこのタイプだが、かつてのちんすこうは1個がもっと大きかった。
一番右の菊の型が普通のちんすこう用で、直径4cmほど。焼くと1.5倍に膨らむというから、出来上がりは6cmくらいになるのだろうか。厚さも1cm強になりそうだ。戦後間もなくまではこの型が使われていたという。
左側と真ん中の2つは、特別注文で作られる祝儀用ちんすこうの木型だ。真ん中の型は「祝」の文字がくり抜かれている。食紅を混ぜた生地をこの「祝」の型に詰め、次いで、左の穴のあいた木型を乗せて、そこに普通の生地を詰める。2種類の生地を1つにして型から抜くと、上部に赤い「祝」の字が乗ったスペシャルちんすこうができる。
今ではこの木型が使われることはないという。「今の細長いのでも大きすぎるという人がいるくらいだからね」。伊波さんの母で7代目の恵子さんが言った。
包装についても、伊波さんはさまざまな工夫を凝らしている。前回の冒頭で書いたように、同じ新垣名のちんすこうメーカーは3社あるので、うっかりすれば埋没しかねない。伊波さんはちんすこうの包装を、食品業界ではあまり使われない黒と金にしてみた。カラフルなおみやげ品が並ぶ中に置かれると、黒の包装は確かによく目立つ。
27袋入りと15袋入りの2種類の黒いパッケージに加え、10袋入りのシルバグレーの小さな箱も作った。「ちょっとしたお返しに使いたい」というお客さんの声を形にした。
シルバーグレーの小さな箱には表の左下の部分に切れ込みが入れられるようになっていて、そこにあいさつ状などを差し込める。この色なら、祝儀、不祝儀いずれのお返しにも使えるだろう。
「ちょっと待って下さいね」と言って席を立った伊波さんが、なにやら手に持って戻ってきた。
伊波さんが広げてみせたのは、新垣カミ菓子店のトレードマークの竜をあしらったスポーツウエア。
伊波さんは体を動かすのが好きで、長くマラソンをやってきた。しばらく前から泳ぎを始め、それなら、と自転車にも乗るようになって、ついにトライアスロンを始めた。宮古島で開かれる大会などに毎年のように出場している。
竜の絵に加えて「ちんすこう」と大書きされている。スポーツ用品メーカー名が入ったウエアに飽きた人たちにとって、「ちんすこう」は新鮮だったのかもしれない。スポーツウエアと伝統菓子のちんすこう。これほどコントラストの強い組み合わせは珍しいかもしれない。
ホームページでこれの製作を知らせたら、あちこちから注文が舞い込んできて、これまでに60着も売れたという。特別注文なので原価で1着1万2000円もするのに、である。
「これを着て走っていると、『ちんすこう、頑張れ!』って声援が飛ぶんです」。伊波さんが楽しそうに話す。
この竜、よく見ると、ちんすこうを食べている。遊び心も十分だ。
[伊波元丸さんとつながる] 新垣カミ菓子店の首里製造所は那覇市首里赤平町1-3-2、886-3081。伊波元丸さんは「琉歌百景」のブログを書いている。商品が買えるのは、国営首里城公園のショップ、那覇空港の沖縄美々(ちゅらぢゅら)、沖縄市にある東京第一ホテルなど。新垣カミ菓子店のホームページからも取り寄せられるが、受注生産が原則。ちんすこうは置いていることが多いが、ちいるんこうはないことも多いので問い合わせを。
新垣カミ菓子店 伊波元丸さん
新垣カミ菓子店の琉球伝統菓子の味と香りは昔も今も変わらない。その一方で、同店の仕事には、時代の変遷とともに変わってきた部分もある。例えば、ちんすこうの形と大きさ。
「これを見て下さい」。伊波元丸さんが、作業場の奥の方から、使い込まれた感じの木型を取り出してきた。
現在のちんすこうは、長さ6cmほどの細長いものが2本、1袋に入っているタイプがほとんど。伊波さんが作るちんすこうもこのタイプだが、かつてのちんすこうは1個がもっと大きかった。
一番右の菊の型が普通のちんすこう用で、直径4cmほど。焼くと1.5倍に膨らむというから、出来上がりは6cmくらいになるのだろうか。厚さも1cm強になりそうだ。戦後間もなくまではこの型が使われていたという。
左側と真ん中の2つは、特別注文で作られる祝儀用ちんすこうの木型だ。真ん中の型は「祝」の文字がくり抜かれている。食紅を混ぜた生地をこの「祝」の型に詰め、次いで、左の穴のあいた木型を乗せて、そこに普通の生地を詰める。2種類の生地を1つにして型から抜くと、上部に赤い「祝」の字が乗ったスペシャルちんすこうができる。
今ではこの木型が使われることはないという。「今の細長いのでも大きすぎるという人がいるくらいだからね」。伊波さんの母で7代目の恵子さんが言った。
包装についても、伊波さんはさまざまな工夫を凝らしている。前回の冒頭で書いたように、同じ新垣名のちんすこうメーカーは3社あるので、うっかりすれば埋没しかねない。伊波さんはちんすこうの包装を、食品業界ではあまり使われない黒と金にしてみた。カラフルなおみやげ品が並ぶ中に置かれると、黒の包装は確かによく目立つ。
27袋入りと15袋入りの2種類の黒いパッケージに加え、10袋入りのシルバグレーの小さな箱も作った。「ちょっとしたお返しに使いたい」というお客さんの声を形にした。
シルバーグレーの小さな箱には表の左下の部分に切れ込みが入れられるようになっていて、そこにあいさつ状などを差し込める。この色なら、祝儀、不祝儀いずれのお返しにも使えるだろう。
「ちょっと待って下さいね」と言って席を立った伊波さんが、なにやら手に持って戻ってきた。
伊波さんが広げてみせたのは、新垣カミ菓子店のトレードマークの竜をあしらったスポーツウエア。
伊波さんは体を動かすのが好きで、長くマラソンをやってきた。しばらく前から泳ぎを始め、それなら、と自転車にも乗るようになって、ついにトライアスロンを始めた。宮古島で開かれる大会などに毎年のように出場している。
竜の絵に加えて「ちんすこう」と大書きされている。スポーツ用品メーカー名が入ったウエアに飽きた人たちにとって、「ちんすこう」は新鮮だったのかもしれない。スポーツウエアと伝統菓子のちんすこう。これほどコントラストの強い組み合わせは珍しいかもしれない。
ホームページでこれの製作を知らせたら、あちこちから注文が舞い込んできて、これまでに60着も売れたという。特別注文なので原価で1着1万2000円もするのに、である。
「これを着て走っていると、『ちんすこう、頑張れ!』って声援が飛ぶんです」。伊波さんが楽しそうに話す。
この竜、よく見ると、ちんすこうを食べている。遊び心も十分だ。
[伊波元丸さんとつながる] 新垣カミ菓子店の首里製造所は那覇市首里赤平町1-3-2、886-3081。伊波元丸さんは「琉歌百景」のブログを書いている。商品が買えるのは、国営首里城公園のショップ、那覇空港の沖縄美々(ちゅらぢゅら)、沖縄市にある東京第一ホテルなど。新垣カミ菓子店のホームページからも取り寄せられるが、受注生産が原則。ちんすこうは置いていることが多いが、ちいるんこうはないことも多いので問い合わせを。